10 希望を持つ人間は沢山いるが、絶望を知る人間は少ない。
希望なんてその気になれば誰だって持つことができる。
だが、絶望はその気になって知ることができるものではない。
そして、一度味わった絶望は消えない。
決して、消えることはない。
Side Taisei 灰皿に煙草の吸殻が山のように盛られている。いつもなら多くて一日一箱といったところだが、今日は既に二箱目に突入していた。それも、二箱目に入ってから5本目。労働と食事以外はずっと吸っている状態だ。
いつもなら無理矢理奪い取って捨ててやるとことだ。しかしそれをしないのは、今日の要はどこか機嫌が悪いように見えたからだ。
「今日は10時くらいに出かけるから、言って」
朝食後に部屋に戻ってきたときにそう言ったときから、要の機嫌は思わしくないものだった。朝食前はいつも通りで、朝から盛りの付いた猫のような性欲を見せてくれたのに、一体食事の時間に何があったというのか。
大体、“言って”って。時間ぐらい自分で確認しろと思ったが、要のその口調は指摘することも憚られるくらい冷たい声だった。そして俺が指摘するタイミングを逃すと、それ以降何も話さなくなって、尋常じゃないほどの煙草を吸い始めた。時間を置くと変わるかと思ったが、労働から帰ってきてからも要は何も喋らずにひたすら煙草を吸っている。
俺だっていつもかつも要から煙草を取り上げ、好き勝手に殴っているわけじゃない。一応要の様子を伺って殴るか殴らないかを判断している。いやまぁ、それでもいつも結果的に押し倒されてるといえばそうだが、その点は俺が殴ろうが殴らなまいが同じこと。問題はその中身だ。いつもと違う要に変に近づくと、何をされるか分かったものではない。
そして今日の要は明らかにいつもと違う。
煙草を吸う以外に口を開かないだけでなく、無表情で電源の入っていないテレビを見つめて、端から見れば明らかに異常者だ。しかし、俺には要が真っ暗なテレビの奥にある別のなにかでも見ているかのように思えた。
ー紫色の瞳はいつになくよどんでいて、前を見たくないと訴えているようだ。…要の瞳がよどんで見えるのは、十中八九この煙のせいだろうが。だが少なくとも、いつもは全く見えない感情が少しだけ垣間見えているのは確かだ。
そしてそれが、いつものように明るく振る舞うときのそれではない。
今日の要は、いつもは絶対に見せない感情を露呈している。
いつもと違う要に近付いて失敗した経験があるのかと聞かれれば、経験はない。もしかしたら、別にいつもと何ら変わりない態度で接してくるのかもしれない。想像も絶するような何かをされるかもしれない。経験がないから、どうなるかは分からない。だが、だからこそ近寄りたくないのだ。わざわざ危ない橋を渡ってまで殴りに行くほど俺は馬鹿じゃない。
「お前、ちょっと吸い過ぎじゃねぇか」
俺は手に取っていた紙媒体を閉じて、要に視線を寄越した。
本当は話し掛けたくもなかったが。しかし、さすがにこれは行きすぎだ。
いっそ肺癌にでもなって死んでくれればそれ以上のことはないが、この分だと先に肺癌で死ぬのは俺の方に違いない。
窓を開けているのに、要の顔がかすれて見えるほどに煙が充満している。今までは我慢していたが、紙媒体の字すら読めなくなってきては流石に限界と言わざるを得ない。部屋の扉を開けようかとも思ったが、そう気付いた時には既にこの状態に近くなっていたので、さすがに隣人迷惑を考えて遠慮した。
「え…うわっ…何この煙、やばっ」
気付いてなかったのかよ。
部屋中に充満している煙を見て驚く要はいつもと何ら変わりない。しかし、こうなるまで気づかなかったという点では、やはりいつもとは違う。
「もっと早く言えよ、大晟。いつもなら3本くらい吸った時点で殴ってくるくせに…」
要はそう言って煙草の火を消すと、部屋の扉を開けた。
開けるのかよ。
俺が隣人迷惑を気にして遠慮したのに、何の躊躇もなく開けるのかよ。だったら最初から開けておけばよかった。何て今更思っても後の祭りだ。
部屋に充満していた煙が一気に室外に出て、視界が鮮明になった。
「いくら俺でも、時と場合くらい弁える」
要は煙が無くなったことを確認してから扉を閉めながら、少し驚いた表情を浮かべた。
やはり、いつもと違う。
煙がなくなって尚、紫色の瞳はよどんだままだ。表向きは俺に視線を向けている、その瞳が写しているのは俺ではない。
俺はそれを知っている。
あの頃、俺が水を見るたびに自分の瞳に写っていたそれと――全く同じ。
絶望だ。
「何で今が弁える時なんだよ?」
「そんなことは自分の胸に聞いてみろ」
そう返すと、要はこれでもかというほどに顔を顰めた。そして扉を閉めに行ったその足をそのままベッドに向けた。
ただでさえいつも以上に甘ったるい匂いが充満しているというのに。要が近寄ってくるとその匂いが一層強くなった。ここの生活にもほぼ慣れたが、しかしこの匂いはいつまで経っても慣れない。
頭がくらくらする。
「大晟に俺の何が分かんの?」
「何も分からないから弁えるんだろ。馬鹿かお前」
その異常な行動の原因が分かっていたら、対処くらいする。
その瞳の億ある絶望の正体が分かっていたら、掛ける言葉はある。
何もわからないから、何も言わずに大人しくしているのだ。
「俺さ、いっつもそうなんだけど。この日はあんまり優しくできないんだよな」
要の言う“この日”が一体何の日を示しているかは分からない。
ただ、それが定期的にある“何かの日”で、かつその“何かの日”が今日であることは容易に想像できた。
それよりも、いつもは優しくしているつもりだったということに驚いた。それならば考えを改めるべきだと思う。俺は一度だって、要に優しくされたと思ったことはない。
「今日は泣いてもやめないからな」
その言葉に、要が一体何を言いたかったのか分かった。
いつかの時に俺が泣いたことを気にしていたのか。どうやら、要が今日あれから俺に触れもしなかったのは俺に気を遣っていたかららしい。この間シャワー室で唇を切った時もそうだが、要は俺のことを「玩具」と表現する割に、そういう些細なことを気にする節がある。
俺にはそれが不思議でならない。
ただ、どうせ気を遣うなら最後まで気を遣い通して欲しかった。しかし、俺のどの発言が気に障ったのか、もう気を遣う気はないようだ。やはり、いつもと違う要に話しかけたのは失敗だった。
まったく、どうなるか分からないことなんて試さないに限る。
「はぁ…」
俺は要の言葉に溜息で返した。
本当は「好きにしろ、クソ野郎」と悪態のひとつでも吐いてやりたかったが、さすがにそんな悪態を吐けるほど俺の心は強くはない。
**
駆け抜ける痛みに体が強張った。
無理矢理広げられた皮膚に、異物が押し込まれる。少し入っただけで駆け抜ける激痛が誘うのはいつものような快楽ではなく、恐怖だ。
「いっ…うっ……痛ぅ…っ」
痛みに耐えようと目を閉じると、瞼の向こうに忌々しい顔が笑っているのが見えた。
俺の名前を呼ぶ声は、酷く耳障りだ。
触れる手の指は細く長く、気持ちが悪い。
「っ…う……は、い……」
要の自身が俺の中に押し込まれるたびに、記憶が頭の中を駆け巡る。
それはその質量が大きくなればなるほどに鮮明になっていき、俺の頭の中をおかしくさせる。
恐怖が体を支配する。
「おい、力抜けよ。入らない」
俺の耳元に顔を近づけた要が、いつになく冷たい声で呟いた。
痛みに目を閉じている俺はその表情を見ることはできないが、きっと声と同じように冷たい表情をしているのだろう。
「んっ……む、り…っ」
だが、そんなことできたら苦労しない。
ただでさえ、俺はおかしくなりそうな自分の脳内と葛藤するので精いっぱいなんだ。
「あっそう。じゃあ、このまま押し込むからな」
「っああ!!…痛……っ!は、ああ…」
痛い。痛い、痛い。痛い。
瞼の向こうで写る顔は、俺がそうやって苦しむ姿を笑って見ているのだ。
そんな声で俺を呼ぶな。俺に触れるな。
痛い。苦しい。痛い。痛い。苦しい。怖い。
駄目だ…。
このままじゃ、このままじゃ本当におかしくなる。
瞼の向こうに写る顔を掻き消したくて目を開けると、要と視線がぶつかった。
「―――…っ」
目に写った要の表情を見た瞬間、あれほど恐怖を煽っていた痛みすら忘れてしまった。
どうして。
どうして要が…そんな表情をしているのだろうか。
淀んだ瞳の奥に、先ほど垣間見えた絶望とは違う感情はっきりと見える。
恐怖。
俺を見下ろしている要はまるでいつもと変わりない表情だったが、しかしその瞳の奥には確かに恐怖が写っていた。
何にそこまで怯えている?
何が、そんなにも恐ろしい?
「もう泣きそうだな」
要はそう言って、うっすらと笑って見せた。
どの面下げて、そんな戯言を言っているんだ。
お前が今、どんな顔をしているのか分かっていないのか?
「泣きそうなのはどっちだ…」
俺がそう言うと、要は目を見開いた。
それから、少し怒ったように顔を顰めてから俺に顔を近づけてきた。
「こんな状況で…随分と減らず口だな」
「い―――っ!!」
完全に入りきっていなかった要のものが一気に中に突っ込んできた。
一度は忘れていた痛みが、電撃のように体を駆け抜けていく。
しかしそれでももう、脳裏にあの忌々しい顔が浮かぶことはなかった。
**
ずきずきと痛む腰を曲げて、テレビのリモコンに手を伸ばした。ばちん、という音と共に真っ暗だった液晶画面に光がともる。右下に表示されている時計に視線をずらすと、時刻は9時50分を示していた。
「要、あと10分で10時だ」
要は一度だけ俺の中に欲を吐きだすと、そのままさっさと布団の中に身を隠した。後処理がどうとかシャワーがどうとか色々思うところがあったが、体の痛みが全ての行動を妨げた。寝てしまおうとかとも思ったが、それだと明日の朝後悔することになるだろうから、少し時間を置いたから行動する気が起こるのを待つことにした。
そうして、一度読むのをやめた紙媒体を開いてから数十分。要が10時に近くなったら言えと言っていたことを思い出した。
俺の言葉に反応した要は、少しだけ顔を上げて俺を見る。
「うそだ」
「テレビは落としたくらいで壊れるタブレットと違って優秀だ」
この間俺が要の頭に落としたことで壊れてしまったタブレットは、現在修理中だ。といっても、元々の持ち主である看守の元に返して、看守が修理して再び持ち込むのを待つというなんとも気の長くなりそうな修理中だが。
「ああ―――」
要は枕に顔をうずめて「行きたくねぇなぁ」と、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
多分、聞かなかったことにした方がいいのだろう。
「俺は言ったからな。知らねぇぞ」
「ん。さんきゅー」
やはり――今日の要はいつもと違う。
若干いつもの要に戻ったかと思ったが。全然そんなことはなかった。
要が俺に礼を言う?夢でも見てるのか、俺は。
俺は思わず再び視線を落として見ていた紙媒体から、顔を上げてしまった。
「何だよ」
隣で起き上がった要が顔を顰める。
要からは未だに甘ったるいあの匂いが漂っていた。まぁ、二十箱も吸っていたのだから、当たり前と言えば当たり前か。
「要」
名前を呼ぶと顰められていた表情が訝しげなものに変わり、少しだけ首が傾げられた。
俺はその少し傾いた頭に手を伸ばして――撫でた。
「な―――!!」
要が口をあんぐりとして、声も出ないほどの驚きを見せた。
しかし、俺はそんなこと無視して要の頭を撫で続ける。金色の髪はその一本一本が細く、綺麗だ。要は俺の髪を綺麗だというけれど、俺からしてみればこの髪の方がよほど綺麗だと思う。…それが様になっているのだから、なおさらだ。
「なっ…なななにしてんだよ!!」
学習能力のないらしい要は、この間と全く同じ反応を見せた。
ようやく声をあげたのを見計らって、俺は払いのけられる前に自分の手を遠ざけた。
「何と聞かれたら、今のは頭を撫でるという行為だ」
「そういうこと聞いてんじゃねーよ!」
され慣れないことをされて恥ずかしいのか、要の頬は若干だが赤く染まっていた。
今初めて、要が14歳だということを実感させられた。 ちょっとだけ可愛いと思―――ったりはしてない。
それはない。さすがにない。
「行かなくていいのか、もう10時になるぞ」
「あ、やっべ…って話逸らすなよ!」
要はそう言いながらも、ベッドから飛び出していた。
思いきり布団を剥いでいったので俺の上にかかっていたものまで飛んで行ってしまった。この馬鹿。寒いだろうが。
「別に嫌じゃないだろ」
「そういう問題じゃねーっつってんの!お前、後で覚えてろよ!」
ということは、嫌ではないということらしい。
要はまるで戦隊物で蒔けた敵が負け惜しみに吐いて行く捨て台詞みたいな言葉を言い放って、慌てた様子で部屋を出て行った。
何処に行くのか。
何をしに行くのか。
何がそんなに嫌なのか。
何がそんなに、怖いのか。
俺には皆目見当もつかないし、詮索する気も毛頭ない。しかし、少なくとも今部屋を出て行った要の瞳は、いつもの透き通った紫色だったように思う。
俺が頭を撫でたのが相当予想外だったのか、他に理由があるのか。それすらもよく分からないが、いつものあいつに戻っているのならばそれでいい。俺はそんなことを思いながら、開かれたままの紙媒体に視線を落とした。
潜む絶望と恐怖(まるで、いつかの自分を見ているようだった)
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