45 何も出来ない時間が過ぎる。
ただ、時間を過ごす。
そして、時は来る。
Side Kaname 何もなく。何事もなく。
ただ転がっているだけの時間が過ぎた。
俺の選んだ選択肢が正しかったのか。
それとも間違っていたのか。
そればかりを考えていた。あっという間だった。
「ああ、やっと出てきた」
独房を出たらそのまま労働に向かうように言われ、その後で風呂に入るように言われた。そんな気分じゃなかったけど、7日も缶詰になってたら流石に汚いし、逆らって独房に逆戻りもしたくなかったし、仕方ないので言われた通りに看守室のシャワー浴びて出てきた。普段使ってるシャワーより性能が良くて本当ならもっと気分がいいはずなのに。一向にテンションは上がらないまま、出口までやってきてしまった。
そして重い気分のまま手を伸ばして、いつもより重たく感じる扉を引くと…なぜかそこに龍遠がいた。
「龍遠?何してんの?」
「さぁ、どうしてだろうね」
「意味不明なんだけど」
最初の言葉からして明らかに俺を待ってたみたいだったけど。
それなのに何でいるか分からないとか。
7日も転がってたせいで、せっかく良くなり始めた頭がリセットされたから理解出来ないのか?違うよな?
「大晟さんに、要が出てきたら一緒にいてって頼まれたんだよね」
「……大晟に…?」
「理由聞いても教えてくれくて。とにかく絶対に一緒にいてくれ、お前じゃないとダメだからって…まぁ断る理由もないし」
仕方なくね、と龍遠は言ってから歩きだした。それを了承したってことは、多分労働場所も龍遠と同じなんだろうから、付いて来いってことか。
久々に日の光を浴びて歩きだしても、一向に気分は晴れない。当たり前だけど。
「……大晟は?」
「まだ出て来てないよ」
「…………そっか」
分かってたけど。
出てきてたら、ここにいるはずだ。
…と、思う。多分。
「その様子だと、どこにいるかは知ってるみたいだね」
「うん」
「知ってるなら抜け出すかと思ったけど」
俺だって……抜け出すつもりだった。
今でも、そうした方がよかったんじゃないかと思ってる。
今さら思ったって仕方がないのに。思わずにはいられない。
「抜け出そうと思った。……けど」
「けど?」
「ゆりちゃんに…大晟を信じなくていいのか…って、言われて……」
信じようと決めた。
そう決めたはずなのに、不安で仕方がない。
それが正解かどうか分からないから。
決めたのは自分なのに。大晟のことを信じようと思ったのに。
もし間違っていたら、と。そんなことばかり考えてしまう。
信じたことを、後悔しているのか。
それすらも分からない。
「それが正解だよ」
「……正解?」
何で、龍遠にそんなことが分かるのか。
見上げると、俺が思い悩んでることなんてお見通しと言うような表情を浮かべていた。
「俺は大晟さんが入る独房のこと知ったら、要はきっと抜け出すと思うよって言ったんだけど。大晟さんは…知らないのが一番だけど、例え知っても信じてるから大丈夫だって」
大晟が…そんなこと言ってたなんて。
俺が大晟を信じようと思う前から、大晟は俺のことを信じていたのか。
こんなにバカで、どうしようもない俺のことを。そんなにはっきりと、信じてくれていたのか。
「……大晟は……無事って、ことだよな?」
「それも含めて、大晟さんのこと信じてるんでしょ?」
「……うん」
「なら大丈夫だよ」
そう、大丈夫だ。
7日間、ずっと考えていた。
考えて、考えて考えて、全く正解は見えなかったけど。
今やっと、見えた。
もしも俺が大晟を信じたことを後悔したら、俺を信じた大晟を裏切ることになる。
そんなことは絶対にしない。
大晟は大丈夫だと言った。だからきっと…いや、絶対に大丈夫だ。
俺は、大晟を信じる。
言われた通りちゃんといい子にしてたら、すぐに戻ってくるはずだ。
「吹っ切れた?」
「……本当に何でもお見通しなんだな」
ていうか、悩んでるって分かってたなら最初から大晟の言ってたこと教えてくれればいいだろ。
何が「知ってるなら抜け出すと思ったけど」だよ。大晟が大丈夫って言ったなら、そんなこと思ってなかったくせに。
「そりゃあ、要ファンクラブ会員番号1番だからね」
「何だそれ」
そういえば、雅も何かそんなこと言ってたけど。
結局その言葉の意味は教えて貰ってない。
「まぁつまり、誰が一番要の成長に貢献してるかっていう順位的な…」
「絶対違う」
「チッ、流石に騙されないか」
舌打ちしてんじゃねーよ。
龍遠が一体いつ俺の成長に貢献したってんだ。適当なことばっか教えやがって、ダントツで俺の健全な成長を妨げてる奴が何言ってんだ。
「……戻って来たら大晟に聞こう」
大晟。
もう信じて待つことに気持ちが揺らぐことはないけど、でも不安がなくなったわけじゃない。
一体どんな1週間を過ごしたのか。そしてまだ出てこない今、一体どうなっているのか。
考え始めたら心配が止まらない。
自分の選択肢に迷いはなくても、心配してしまうのはどうしようもない。
「……何か騒がしいね」
「え?」
龍遠が立ち止まり、俺も思わず足を止めた。
話ながら歩いていたことと、考え事をし始めたせいか。労働場所の入り口付近まで来ていたことに今の今まで気がつかなかった。
おまけに囚人番号を確認するはずの看守もいない。いつもなら、数人の看守が暇そうに突っ立ってて、欠伸をしながら俺たちを待ち構えているというのに。
「………寒い?」
労働場所の奥から、冷たい空気が流れてきている。まるで冷凍庫を開けたときのような、そんな冷たさだ。
それだけではない。入り口の鉄格子が、うっすらと白くなっている。それに触れた龍遠が「凍ってる」と小さく呟いた。
「何となく読めてきたな」
「何が?」
「どうして大晟さんが俺を要の臨時飼い主に任命したかだよ」
臨時飼い主という言い回しが気になったが、龍遠がそのふざけた言い回しとは裏腹に真剣な表情だったので突っ込もうとした言葉を飲み込んだ。
鉄格子が凍ってるからって、この奥に一体何があるって………凍ってる。
凍ってる―――何かがあるんじゃない。誰かがいる。
「………スペードのA」
俺の言葉に、龍遠が頷く。
しかし、ここは労働場所だ。本来能力を使ってはいけない所で凍らせるなんて…何をしているのか。
いや、以前に殺されかけた時のように。スペードのAなら何をしていてもおかしくはないか。
「大晟さんのターンが始まったってことかな?どう思う?」
「どう思うって聞かれても…」
馬鹿なんだから、そんなこと分かるわけないだろ。
多分、龍遠も俺に答えなんて期待してないはずだ。ただ、この冷たくてどこか緊迫した空気感を、会話をすることで感じないようにしたいのかもしれない。
「開かない」
「……ほんとだ」
龍遠に言われて触れてみた鉄格子は、一瞬で体の芯まで冷たくしてしまうのではと思うほどに冷たかった。
おまけに鉄が凍っているせいで、少しの力ではその扉を開けることは出来ない。まるで、この先に行かない方がいいと示されているようだ。
「でも、行くしかないよね」
「そうなのか?」
「…多分ね」
龍遠は半信半疑というような表情で、再び鉄格子に触れた。すると、手の触れた部分がじわりと赤くなって…うっすらと白くなっていた鉄格子が、瞬く間に元の色に戻っていく。
それからしばらくもしないうちに、動く気配を見せなかった扉がギィイと不快な音を立てて開かれた。
**
立ち尽くし、そして。
労働場所に足を踏み入れて、奥に進むごとに冷たい空気が段々と強くなっていった。そして真冬のような寒さを感じるほどまでいくと、1ヶ所に人だかりがあるのが見えた。
その囚人たちが珍しいもの見たさで集まっているのではなく、足を地面に凍り付けられて動けなくなっているというのを目にした瞬間的、どこかゾッとするものを感じた。
しかし、その先にあるものを垣間見た瞬間。そんなゾッとする思いを払拭するほどの…言葉では表せないような、息の詰まる感覚。
立ち尽くし、そして―――戦慄した。
「この世の中で、一番は僕でなくてはならない」
それは巨大な箱のような形をしていた。
半透明で、白い煙のようなものを立ち上らせている。その中で同じく半透明の椅子のようなものに腰を下ろして、スペードのAはそう言った。
その下敷きになって唸り声を上げているのは、本来はここの入り口の見張りをしているはずの看守たちだ。
「分かるか?スペードのQ」
すっと、その目が俺を捉えた。
凍り付くような視線。
凍らせられたように、体が固まる。
「それがどうして、僕が一番になれないだと?」
何を言っている?
俺の方を見ているのに、明らかに俺に向かって話している様子じゃない。
まるで、何か別のものに話しかけているみたいだ。その不自然な様子が、とてくもなく気味悪い。
一体、誰に…何に向かって話してるんだ。
「貴様よりも下だと?足元にも及ばないと?……笑わせるなッ!」
「!!」
突然声を荒げたとかと思うと、頭上に無数の氷の刃が現れた。
あの時、俺を殺そうとした――大晟が俺を庇って血塗れになった、あの刃だ。
「や、やめろ…す…スペードのA……殺しは…っ」
ひゅっと、風を切るような音がした。そして、鮮血が舞った。
箱のようなものの下敷きになっていた看守の言葉は、最後まで声にならず。地面が赤く染まって行く。
「僕に指図するな」
常軌を逸している。
虫を殺すように、人を殺した。
そしてそれを、何とも思っていない。
本当に、何とも思ってない。
「スペードのQ。貴様は串刺しだ」
――――本当にやる気だ。
この前の時のように、大晟はいない。いたとしてもあんな血塗れになってまで庇ってほしくなんかないけど。
逃げるか。でもどうやって。
透明になればいいか。…いや、きっと、見えなくてもやる。範囲を広げて、他の誰に当たろうとも構いはしないはずだ。
「…あの箱、なんかおかしいよね」
「は?」
箱?この状況で何?
つーか、俺が串刺しにされそうってのに何で普通に隣にいんだよ。
そんで箱?
そんなこといってる場合か。
「何がおかしいんだろ」
「いや、そんな悠長な…」
だから腕組んで首傾げてんじゃねーって。
今すごい緊迫しててさ、おれちょっとチビりそうなくらいビビってたんだけど。
拍子抜けさせんな。
チビらなくてよかったとかそういう問題じゃねーんだよ?なぁ?
「まぁいいや。とりあえずあれ止めないとね」
「は?」
「要と一緒に串刺しで死ぬなんて御免だよ。死ぬなら稜海と一緒がいい」
「いや、こんな時に何………うわっ!!」
突然、上空に向かって波が打ち上がる。そして、氷の刃と俺たちの間に海が出来た。
水の圧力が、氷の刃が降ってくるのを塞き止める…ということだと思う。刃の先の水に触れている部分から、また白い煙のようなものが発していた。
「……お前は…ロイヤルじゃないな。だとするなら、どこかの違法施設の出来損ないか」
空に海が出来たことに驚きもせず、スペードのAは龍遠へと視線を向ける。
本来は基本的に自分の地区にしか興味のない男だ。違う地区なこともあって、龍遠のことは知らなかったのだろう。
「俺が出来損ないなら、それに止められてるあんたは何?」
「減らず口を…もろとも死ね」
「だから要と死ぬなんて御免だって」
ぐぐっと刃が並みを突き抜けようとする。しかし、海はそれをさせない。
スペードのAの表情に苛立ちを滲ませる。そして唐突に。まとわりつくハエを払うような、そんな仕草を取った。
「あ」
「え?…うわ!」
龍遠が声を出すのと同時に腕を引かれ転びそうになったその時、真横を氷の刃がすり抜けて行く。もし腕を引かれていなかったら、確実に心臓辺りを貫いていた。ゾッとした。
そして俺が避けた――というか、避けさせてもらった氷の刃を、龍遠は手掴みで手にしていた。白い煙がもくもくと立ち上っている。
「…やっぱり、分かった」
「は?」
「こいつの正体」
よく見てみると、龍遠の手には薄い水の幕が張られている。今の一瞬で俺を助け、水を手に纏わせ、氷を掴む。空には海が存在しているままだ。
どれかひとつをするのでも俺には無理かもしれないのに、それを全部同時にやるなんて。常人の所業じゃない。
何より凄いのは、この状況に今だ全く動じていないこと。そして、完全に自分のペースでいることだ。
「正体?」
「……ああ、そうか。そういうことか」
「え?何?」
勝手に1人で納得してらっしゃるけど。
全く付いて行けてないこと分かってる?分かっててやってるのか?
それとも、説明しても分からないと踏んで無視してんのか?…あり得る。
「見えたぞ。この事件のトリックが!」
「…龍遠?」
壊れた?変な氷の刃に触って…直接触れてはないけど。でも壊れた?
凄いこと同時にしたから?え?そんなことってある?
「やってみたかったんだよね。探偵ごっこ」
「はい?」
「真実はいつも1つと、じっちゃんの名にかけてとどっちがいい?」
「……どっちでも…っていうか何の話!?」
「どっちでもって言うのが一番こま…おっと」
「ぎゃあ!」
ドドドっと、足元に何本かの刃が落ちてきた。また龍遠に腕を引かれ、辛うじて避ける。地面に突き刺さる刃を見て、自分達の置かれている状況を再認識した。
いや、急に龍遠がおかしくなったせいで忘れてたとか。そんなことは決してない。
「調子に乗るのも大概にしけおけ」
スペードのAが俺たちを睨み付ける。
突き刺さるような視線と、ひんやりとした空気がまた俺をゾッとさせた。
「大概にするのはそっちでしょ」
「何?」
「そうやって見境なく使うから、分かっちゃったよ?その力の正体」
龍遠は手にしていた刃を投げ捨てた。俺の心臓をひと突き出来そうな大きさだった刃は、石ころのくらいの大きさまで小さくなっている。
スペードのAの顔が、訝しげなものに変わった。
「その箱、何かおかしいなーって思ってたんだけど…要、分かる?」
「……いや」
頼むから、俺に話を振らないで。俺を巻き込まないで。
いや、スペードのAに狙われてるのは俺なんだから。俺が龍遠を巻き込んでるんだろうけど…いやでも、やっぱり巻き込まないで。
あと、バカにしたように「だろうね」とか言うなら最初から聞くな。バカだって分かっててバカにしてんじゃねえぞ。
「水だよ」
「……水?」
「そう。普通、氷が溶けたら水が出来るでしょ?」
「…あ、そういえば」
空は…今は海だけど。とにかく今日は晴れていて、こんな場所で氷の箱なんかに入っていたら…氷は徐々に溶けていくはずだ。それを補って氷を作り続けたとしても、溶けていくものは止められない。
つまり、本来なら押し潰されている人々は氷が溶けた水で濡れていいなければならない。しかし、そんな様子は全くない。
さっき龍遠が手にしていた刃も、石ころみたいになって転がってるけど溶けていない。煙が出ているだけだ。
「つまり、既に氷の能力ではなくなってるってこと。ガスの検体でも受けたんじゃない?」
「ガス?何でガス?……いやでも、検査で」
「看守なんていくらでも買収出来るし、信用できなくなれば殺せばいいでしょ」
龍遠はまるで当たり前のことのようにそう言う。それを当たり前のように思い付く時点で多少問題有だが、問題は思い付くかどうかではなく、それを実際に行うかどうか。
例え思い付いたとしても、龍遠は決してそれを実行しない。俺にはそう分かっている。
けれど、スペードのAは。
間違いなく、当たり前のようにそれをやる。
「でも…じゃあ、これは?」
海になっている空を見る。
未だに刃が塞き止められているが、その大きさは最初よりも随分と小さくなっているような気がする。
「ドライアイス」
どらいあいす?
「あいす?…って、あの?」
甘くて美味しい、あの?
「そんなわけないでしょ。本当は違うけど、印象的には溶けない氷」
「溶けない…氷?」
「そう。ドライアイスは溶けるんじゃなくて、気化…まぁ、煙みたいになって消えていくんだよ」
地面に突き刺さっている刃を指差す。
煙みたいに消えていく。それは正に、俺の足元にあるものそのものだった。
「これなら、室内に水滴を残さずに人を圧死させることが出来る」
この刃は、水になることなく空気に消えていく。それが刃ではなく、もしもあの箱のようなものだったら。
「……本当に、この世の中は馬鹿ばっかりだ」
スペードのAが嘲笑うような声を出した。
俺は懲りずにまた、ゾッとした。
「たったそれだけのことに、誰も気付かない。低能ばかりだ」
スペードのAがそう言うと同時に、ずんっと箱が下に揺れた。下敷きになっている人々が、苦しそうに呻き声を上げる。
「……認めるの?自分が何十人も殺して尚且つハートのAに罪を被せた張本人だって」
「だったら何だ?どのみち皆殺しだ。証拠は何も残らない」
龍遠の問いにそう答えたスペードのAは薄ら笑いを浮かべた。
例え証拠が残らなくたって、この場で全員を殺せば道は同じだ。いや、もしかしたら…また、看守を買収すればいいとでも思っているのか。本当に、そんなことが出来るのか。
出来るからこそ、あいつは今こうして…あの場にいるのか。
「本当に頭イッちゃってる。これだけの人数殺したら、流石に看守も黙ってないでしょ」
「看守を買収しなくても、方法はいくらでもある。…お前に罪を着せるのだって簡単なことだ」
看守を買収するのではなく、誰かに罪を被せる。先生にそうしたように。そんなことだって、まるで当たり前のことのように言う。
この男の当たり前は、何もかもが壊れている。この男の作る世界は、全てが腐り果てている。
「まぁ確かに。俺のせいにするのは簡単だろうね。そんな都合よく行くわけないけど」
「一体どうして、それ程までに自分が殺されないと自信があるんだ?」
「いや、このままじゃ殺されるよ。能力の持続性はそっちの方が高そうだし。要はビビっちゃって全然役に立たないし」
いつもなら本当にビビってても強がって反論するけど、今は何も言わない。言っても意味がないし、やっぱり巻き込まれたくない。
それに、龍遠は何かを確信しているようだった。自分達が殺されないという確信ではなく…別の何かを、確信しているようだった。
「ならば何故だ?」
スペードのAは訝しげな表情を浮かべていた。
俺にも、龍遠が一体何にどうして。そこまでの確信を持っているのかが分からなかった。
「役に立たないペットでも、飼ってるからには守る責任ってもんがあるからね。それがどんなお粗末なペットでも、ご主人様は助けに来てくれる」
龍遠はそう言って俺の頭をぽんぽん叩いた。ここにくる直前、龍遠が自分のことを俺の臨時飼い主だと言っていたことを思い出した。
それは遠回しな言い方だったけど。龍遠の言いたいことが、馬鹿な俺にでも分かった。
「大晟…」
大晟が来る。
龍遠は、それを確信している。
「……はっ」
龍遠の言葉を聞いたスペードのAは。
本当に。本当にこの世の全てを見下すような視線で、息を吐いた。
そのとても傲慢で卑劣な表情から、龍遠の言わんとすることが分かっていることは明白だった。
「あいつが来たところで何になる?十数年もの間、僕に支配され、ひれ伏し。そして僕から逃げ、何一つ出来もせずいたあいつが」
大晟がこの男の写真を見つけた時の、あの顔を思い出した。
そして。独房に入る前の、俺は大丈夫だからと言っていた時の顔を思い出した。
「この7日間、いつかのようにただ僕の玩具として存在しているだけだったあいつに何が出来ると?」
―――今、何て言った?
「……何て?」
今、こいつは何て言った?
「聞こえなかったのか?かつてのように汚い連中に玩ばれ、僕に串刺しにされ、それをただ受け入れることしか出来なかったあいつに……一体、何が出来るって言うんだ?」
―――大晟が。
大晟が、ずっと。
消し去りたいと思っていたものを。
決して消し去ることが出来ない、傷を。
思い出すだけで震える程に深く根付いた、
あの傷を。
抉ったのか。
その冷たい刃で、抉ったというのか。
「要っ!?」
遠くから龍遠の声がした。
俺の目の前に、邪魔な箱があった。拳を握りしめて、思いきり振りかざした。
「無駄だ」
箱の向こうから声がする。
もう一度、拳を思いきり振りかざした。
うっすらと、箱の表面が赤く滲んだ。そしてうっすらと、箱に微かな線が入った。
もう一度。
「無駄だと――…」
バキバキっと凄まじい音を立てて、箱がひび割れた。
ぐらりと、箱が揺れる。
もう一度。
「殴る」
粉々に砕けた。
その先に、ある顔がハッキリと見える。
「―――!!」
確かな感触を感じて、目の前にあった顔が視界から消えた。その顔を探して、起き上がろうとしている胸ぐらを掴む。
そして、殴る。
「かはっ…」
吹き飛んだ。
今度は見失わないように、地面に叩き付けられる瞬間にその場に立ったのを見た。
目の前に動く。
そしてまた、同じことを繰り返す。
「ちょう、しに…」
ふっと、陰が出来る。
けれど俺は目の前の顔しか見ていない。
「っ―――…」
陰が消えると同時に体に違和感を感じた。
そんなことは、どうでもよかった。
俺は、ただ。
目の前にある顔を、ただ。
殴る。
「――――!!」
何度、何度、何度殴っても収まらない。
この気持ちが、どんな感情なのか。俺には分からない。
でも、止まらない。止める気もない。
「要、上ッ!」
龍遠の声が耳に入って、頭上を見上げた。
無数の刃が、俺に向いている。
「ちょうし…に、のるなよ」
掠れるような声が聞こえる。続けて聞こえたパチンという指の音。それは合図だった。
それでも俺は、再び振りかざした手を止めることはなかった。自分がどうなろうと、そんなことはやはりどうでもよかった。
目の前の男を殴ることしか、頭になかった。
「――こ、の…馬鹿が!!」
「―――ッ!!」
頭に凄まじい痛みを感じて、掴んでいた胸ぐらを離してしまった。同時に上から凄まじい衝撃音を感耳にするが、いつのまにか頭の上にあった板のようなもの……さっきぶち壊した箱の一部が、上からの衝撃を跳ね返している。
「…たい…せい?」
スペードのAが放った刃を全て受け流すと、頭上にあった板がなくなった。今聞こえた声と、この状況を理解できないままに、咄嗟に振り返る。
「てめぇ死ぬ気か!ぶっ殺すぞ!」
「ッッ!!」
さっきの頭への激痛は箱の一部で頭を殴られたものだったんだと、今同じことをされて分かった。
そして目の前に確かにその存在を確認した瞬間。全身を動かしていた感情が、吹っ飛ばされたような気がした。
―――大晟がいた。
確かに、そこに(それが現実である実感が、俺にはまだないけれど)
[ 1/1 ]
prev | next |
mokuji
[
しおりを挟む]
[
Top]