38 それでも、譲れないものがある。
Side Kaname いつもように、朝から鶏の鳴き声がして一瞬目を覚ました。そのまま起きることも出来たが、そのうち大晟が腹を蹴ってくるだろうからそれまで寝ようと思い、そのまま寝返りを打つ。
しかし、いつまで経っても腹を蹴られる様子もベッドから転がりおとされる様子もなく、不思議に思って顔を上げた。
「…大晟?」
「……死ね」
ベッドに寝転んで頭まで布団を被っている大晟に声をかけると、どこか苦しそうに悪態を吐かれた。
朝から暴言を吐かれたことよりも、生きていたことに安心した。
「どうしたんだよ?」
布団を捲ると、大晟は「眩しい」と言って腕で顔を覆ってからため息を吐く。
「お前…昨日のあれ、マジで何だったんだよ…。クソ頭が痛ぇじゃねぇか」
「昨日の?…あ、ああ…あのよく分かんねー薬か」
ソファから転がり落ちた時に、ベッドの下にしまってるのを見つけて使ってみた薬だ。
昨日の大晟を見た限りでは、あの薬が媚薬の系統だったのは確かだ。それも、何度も自分で求めてくるほどに強力なものだった。
「得体の知れないもんを使うなよ…」
「いや、だって目に入ったから。看守室から盗んで来たのか、誰かから貰ったか覚えてねーけど…」
使用した後、再びベッドの下に収納した液体の薬品と注射器の入っていたプラスチックケースを手にすると、すぐさま大晟に奪い取られた。
「ご丁寧に説明書が入ってるじゃねぇか」
「あーそう?…まぁ、どっちにしても読めねーし」
説明書なんて、どうせ漢字ばっかで俺には理解できない。
だからといって、いちいち辞書を引いて一言ずつ調べてたら、せっかくの休みが辞書引きで終わってしまっていただろう。
「1回使用料は容器の1割以下でご使用ください。酒を特殊調剤しておりますので、重い二日酔いのような症状が現れる場合があります」
空になっている容器を見て、大晟がわなわなと震えている。
説明書の説明を聞いてもよく分からんかったけど、これは多分めっちゃキレられるやつだな。
「殺す…!」
「うわっ!ちょ、大晟!」
めっちゃ怒ってる!
多分これ俺、マジで殺される!
「っ…!」
起き上がった大晟が俺に殴りかかかろうとしたかと思うと、再びベッドに舞い戻っていった。
まるで、検体の後遺症の時の俺みたいだ。そう思うと、途端に大晟のことが心配になる。
「た…大晟…ごめん」
「……ああ、くそ」
大晟は苛立ったように起き上がると、気だるそうに俺の頭を撫でる。
その表情が先ほどよりもやわらかくなっていたので、もう怒ってはいないのかもしれない。
「俺もいよいよ末期だな…」
まるで何かを諦めたように呟く大晟に抱き付くようにすると、それに答えるように抱き締め返された。
よく分かんねーけど。多分、許してもらえたらしい。
「今度二日酔いの恐ろしさを叩き込んでやるからな」
「え…やだ」
何で検体でもないのに、検体みたいにしんどい思いしねーといけねーんだ。
大晟相手にやっといてあれだけど、冗談じゃない。
「文句言うなら、二度と検体の後相手してやんねぇぞ」
「……ずりーだろ」
「知るか。てめぇに拒否権なんてねぇんだよ」
それは俺が大晟に使うべき言葉だ。
それなのに、なんでペットが主に向かって命令口調なんだよ。
「……むかつく」
ペットのくせに生意気な大晟にも、それがそれほど嫌じゃないと思ってる自分にも。
「言ってろ。…まぁ、俺の代わりに夜勤に入るってんなら二日酔いは見逃してやるけど」
「……そんなの誰から聞いたんだよ」
それはつまり、大晟が労働を休んでその代わりに俺が夜勤をするってことだけど。
夜勤は本来、休み明けに2人で入らないといけない。けど夜の看守はやる気が著しく欠落してて監視もがばがばだから、出るのが1人でも2人分働いてればバレないことがほとんどだ。
そのことは大晟に教えたらろくなことにならないと思ってたから、敢えて教えてなかったのに。
「そんなことどうでもいいんだよ。さっさと夜勤にするか、二日酔いにするか選べ」
「……夜勤でいい」
どうせいつも夜遅くまで起きてヤってるんだし。それが労働に代わるだけで、気持ち的には大分だりぃけど寝る時間的には変わらない。
それなら、見るからに辛そうな二日酔いなんかよりそっちの方がマシだ。
「しっかり働けよ」
「うるせぇ」
ここで俺がUSBのことをちらつかせたら、形勢逆転するかな。
でもまぁ、別にいいか。
俺のせいで、また前みたいなことになったら嫌だし。なんて思ってる辺り、俺も相当おかしくなってるんだろう。
そうだとするならきっと、ここ最近立て続けに検体受けたせいに違いない。
**
大晟を置いて労働に出てしばらくして、ふと気になることがあった。
以前、大晟は自分の回復力的なのは毒でも有効だと言ってたことを思い出したからだ。あの体調不良は酒の二日酔いだって行ってたけど、酒は毒じゃないんだろうか。
「なー、ゆりちゃん。酒って毒じゃねぇの?」
「は?何だよ急に」
隣で一緒に荷物を運んでいたゆりちゃんに声をかけると、思いきり顔をしかめられた。
いつかの時は驚かせて麻袋を足に落としてたからわざわざ置き終わるまで待ったのに、なんつー酷ぇ顔すんだよ。
「大晟が今日二日酔いで休んでんだけどさ。青酸カリは大丈夫なのに、酒はダメって変だよな?」
「……いやもう、一から十まで意味分かんねぇよ」
ゆりちゃんは相変わらず酷い顔でお手上げポーズを取る。
まぁ、今の言葉だけで分かったらエスパーだよな。稜海とかは分かりそうで怖いけど。
持っていた麻袋を所定の場所に置いて、引き返しながら大晟が二日酔いになった経緯を説明すると、ゆりちゃんはまた違った酷い顔になった。
「お前…あんだけ使う量に気を付けろって言ったのに。やっぱりお前なんかにやるんじゃなかった」
ああ、あれゆりちゃんがくれたんだ。
そんなことすら忘れてる俺が、使いなんて覚えてる訳ねーじゃん。
てか、ゆりちゃん何気に色んなもん持ちすぎだろ。どうせ誰かから押し付けられてんだろうけど、そうやって押し付けられたもんを稜海とか俺とかにほいほい渡すから被害者が増えるんだぞ。
「で、結局のところ酒って毒じゃねーの?」
「まぁ…多量接種したら死ぬこともあるから毒といえば毒だけど。でも、酒は百薬の長とも言うからな、適量ならむしろ体にいいこともある」
「どっちなんだよ?」
「二日酔いになるってことは、大晟さんの体的には追い出さなくてもいいってことなんじゃね?」
「二日酔いになるのにいいって、それこそ意味わかんねーじゃん」
「それは副作用っつうか。面倒臭ぇな…知らねぇよ、本人に聞けばいいだろ」
今面倒臭いって言ったろ。
まぁいいや。結局は本人に聞かないと分かんねーってことだな。
大晟に限って、まさか演技ってこともないと思うけど…いや、凄腕スパイだったんだし、あり得なくはないけど。
「帰ったら聞くの忘れないようにしねーと」
もし演技だったら許さないからな。夜勤までにとことん相手させてやる。
いやでも、俺バカだから演技かどうかなんて見抜けなくね?…もうどっちでもいいか。どっちにしても帰ったらヤるし。その口実出来るか無理矢理ヤるかの差だしな。
「ちょっと待て」
「何?答え出た?」
新しい麻袋を取りに歩いていたゆりちゃんの足が止まる。
てっきり、酒は毒かの答えが出たのかと思ったら「そんなことはどうでもいい」と、すっぱり吐き捨てられた。人が真剣に考えてるってのに、どうでもいいとは何事だ。
「大晟さんが休みってことは、お前が夜勤すんのか?」
「そうだよ」
今日のゆりちゃんは酷い顔のオンパレードだな。
俺がちょっと夜勤するだけで、そんなに怖い顔することかよ。
「お前、それでまだ何も認めねぇの?」
酷い顔だったゆりちゃんが、途端に真剣な表情になる。
発せられた言葉は質問だったけど、どこか責められているような気がして、思わず身が強ばった。
「……何が?」
言いたいことは、なんとなく分かってる。
だけど、俺は分からない振りをする。
「何がって…いや、いい。こういうのは稜海の役目だ。報告しねぇと」
「何でだよ」
ふざけんな。
いつか共有地でやられたみてーに、また滅多うちにされるじゃねぇか。
「何も後ろめたいことがないなら報告したって問題ないだろ?」
そういう言い方はずるいだろ。
分かってるくせに。
「ゆりちゃんなんか嫌いだ」
さっきから俺の嫌なことばっかり言いやがって。
いたいけな少年を苛めて何が楽しんだ。
「まぁそう拗ねんなよ。俺も今日夜勤だから、相手してやるし」
「やだ嫌い。…でもなんで夜勤なんだ?」
ゆりちゃんはAで特別だから、別に同部屋の誰かがいるわけでもないし。
夜勤になる要素なんてそんなないだろ。
「今月はちょっと遊び過ぎてな。10回目のマスター検体はさすがにキツそうだったから、夜勤5日で落ち着いてもらった」
10回目ってことは既に9回やってるってことだろ。考えただけでゾッとするどころの話しじゃねぇ。
しかもそんだけやってて何でそんな普通に労働できんだよ。完全に狂ってんだろ。
「つーか、どんだけ素行悪いんだよ…」
俺なんか可愛いもんじゃねーか。
「この間の雨の日に看守室に雷落として電気機器パーにしたのがでかくてな。4日連続はちょっと堪えた」
それはつまり、1回のことで一気にマスター4回分を稼いだってことか。しかも連日で?マジで人間じゃねぇよ。
何で看守室に雷なんか落とすんだよ、俺より馬鹿か。
ん?待てよ。雨の日?
「この間の雨の日って…」
「たまたまいい雨だったからな。雷様を拝ませてやったんだ」
嘘つけ。
龍遠のことがあったからに決まってる。
あっけらかんとして笑うゆりちゃんは、そんなこと自分では絶対に言わない。
悔しいから、俺も口では言わないけど。嫌いっていうのは、心の中で撤回しておくことにした。
**
「で、結局酒って毒じゃねぇの?」
あれだけ忘れないようにと思ってたのに。
そのことを思い出したのは、帰ってからすっかり回復していた大晟を無理矢理組み敷いてしばらく経ってからだった。
「ーーっ…」
それも、もう達するというところで思い出したので思いがけず寸止めになってしまった。
大晟の表情が苦しそうでありながら物足りなさそうなそれになる。予定外だけど、これはこれでアリだ。
「なぁ、酒って毒になんねーの?」
「…っ、…何で、今……っ」
耳元で息を吹き掛けるように問うと、ビクリと体を跳ねながら大晟は顔をしかめた。
今すぐイきたいというのが、その表情と甘い声、息づかいから伝わってくる。
「今思い出したから。教えてくんねーと、イかせてやんねーよ」
「ぁっ、…ん、ぁ……」
同じように耳元で囁きながら、ゆっくりと少しだけ動く。
すると大晟は快感に目を閉じるが、それでも達するには足りないはずだ。まだ欲しいと言わんばかりに、俺の自身を締め付けてくる。
「なぁ、大晟?」
「あぁ…っ!……言う、から…っ、やめ…」
耳たぶに舌を這わせると、俺の首に巻き付いていた腕が何かに耐えるように震えた。
このままやってれば耳だけでもイかせられるけど、もちろんイかせてなんかやらない。耳たぶから口を離して顔を向けると、蕩けそうな視線とぶつかった。
「…酒は、ほとんど、毒に…ならない」
大晟は一度目を閉じて深呼吸をし、それから喋り始める。再びぶつかった視線は、少しだけ理性を取り戻しているようだった。
まぁ、飛んでたら話せないだろうし当たり前だけど。
「何で?」
「んっ……」
少し動くと耐えるようにきゅと瞼が閉じられるが、たまらなくエロいんだよな。
でも、只でさえ寸止めで敏感になってるから、あんまやり過ぎると飛んじゃうかもしねぇな。ほどほどにしないと。
「俺の体内は…致死量を越えるものが、毒になる」
「いや、意味わかんねぇんだけど」
なんだか、こんな状態で聞いても理解出来なさそうだぞ。
もっと大晟が普通で、俺に分かりやすく話が出来る状態の方がよかったか?
「……青酸カリも、致死量を越えるだけ…接種したら、それを…下回るだけ分解されて……終わり」
あー、なるほど。
なんとなーく分かってきたぞ。
「つまり、死なない程度のものなら体に残ったままってことか?」
「そう…だから、酒も…一度に、死ぬほど…飲んだら、それを……」
「死なないほどに下回るまでは回復させるってことか?」
珍しく難しいことが理解できそうだったので、途中でこうかなと思ったことを聞いてみると、大晟は小さく頷いた。
あれかな。最近ちょっと勉強(といっても簡単な本読んでるとかだけど)始めたから、理解力も上がったのか?
「てことは、二日酔いになる程度なら死なないから回復の必要もねーってことだな。でもさ、傷を直すのは早めることもできんだろ?それでどーにかなんねーの?」
ただ聞いてるだけってのもつまんないから、イかない程度にゆっくり動くことにした。
この、イきたくてイけない、もどかしそうで辛そうな大晟の表情がいいんだよな。もう何回思ったかわかんねぇけど、美人は特だ。…いや、大晟にとっちゃ損なのかもしんねーけど。
「…傷と、違って……毒の、類いは…コントロール、できねぇ…。細胞を…作り出すことは、出来る…けど、出来た細胞は……いじれ、ねぇから……」
ああ、そうなんだ。
なるほど、それなら病気になるってのも頷けるな。あーいうのって出来た細胞に感染するもんだからな。
まとめると、菌とか毒とかは死なない最低限しか追い払ってくれないと。それはつまり、ほとんどの場合は普通の人と同じような症状になるってことだな。
あれ?やっぱ俺、頭よくなってんじゃね?
「ちょっと大晟、俺やれば出来る子になってるぞ!」
「ぅあッ…ぁあッーーっ!」
「ッ!」
あ、やっちまった。
「……イッちゃったじゃんか」
今のは俺が悪いのか?大晟が悪いのか?
いやまぁ、興奮して突き上げちゃった俺も悪いけど。だからってイきながらそんな締め付けたら、そりゃ俺もイくだろ。
この際どっちでもいい。夜勤だから今日はそんな本気でする気なかったし、丁度いいっちゃいいか。
「まだだ」
「は?うわっ」
終わってしまったものは仕方がないので、後はゆっくりしようかなと思った矢先。
大晟に腕を引かれ抜きかけていたものがまたずぷっと奥に嵌まった。
「足りない」
……何だって?
「何、言ってんだよ」
「まだ足りない」
その目は今にも溶けそうだけど。でも、溶けてる訳じゃない。
声はいつもみたいにハッキリしてないけど、口調は堕ちた時ほど甘くない。
まだ、理性が残ってる。
「まさか、まだ酔ってんのか?」
「さぁな」
そう微笑する大晟は、やっぱりいつもの大晟だ。
それなのに、いつもの大晟じゃない。
「もっと欲しい」
明らかに理性の残った大晟に、腕を引かれキスをされる。
そればかりか、耳元で囁くようにそんなこと言われて。
「あー、もう」
俺が、我慢できるはずなんてないだろ。
**
まんまと騙された。
よくよく考えれば、いやよく考えなくても。大晟が理性を残した状態であんなこと言う訳がないって分かりきってるのに。
ちょっと頭よくなったんじゃね?とか思ったけど、やっぱ俺は馬鹿だな。
「だりぃ…」
「なんだ、珍しく疲れんじゃねぇか」
「……大晟のせいだ」
あの後、結局夜勤の30分くらい前までヤりっぱなしだった。途中で何回かやめようかと思ったけど、その度に大晟がまだ足りないとか言って、そんな時間になってしまった。
そんで、急いでシャワーを浴びて夜勤に向かおうという俺に、大晟は清々しいほどの笑顔で言い放った。
「たまには俺の辛さを身をもって感じてこい」と。
「すげぇな、大晟さん。捨て身じゃねぇか」
ゆりちゃんは面白そうに笑うけど、笑いごとじゃない。
休んでいる間に考え付いたのか、その時になってふと思い付いたのか知らねーけど。
多分、自分が休みで体力的に余裕があったからいけると思ったんだろう。
「誰のために夜勤してやってんだって話だろ」
「誰のせいで休まなきゃいけなくなったかって話だな」
それを言われるとぐうの音も出ねぇけど。
いやでも、そもそもあの薬を見つけたのは俺がソファから転がり落ちたからだし、それは大晟のせいだし。それに、薬を全部ぶちこもうと思ったのもとろとろに堕ちた大晟が見たかったからだし。あれほんと癖になるんだよな、エロすぎんだもん。
「…つまり全部大晟がエロいのが悪い」
「そう言ってたって、大晟さんに伝えといてやるよ」
「やーめーろ!」
そんなことしたらまた殴られんだろうが!
稜海にも精神的にボコボコにされて、大晟にも物理的にボコボコにされて。俺が可哀想だと思わないのか。
「ゆりちゃんなんか大嫌い」
朝の労働の時はそうじゃないと思ったけど。
やっぱり嫌いだ。
「そう?俺はお前のこと好きだぞ」
「やだね、大嫌い」
「じゃあ大晟さんのことは?」
「そんなの………騙されねぇぞ」
そんなの、の次に何を言おうとしたのか。
頭の隅にある言葉を掻き消して、もうそれ以上は考えない。
「チッ、惜しかったな」
「マジで嫌い!」
「こりゃ挽回が大変そうだ」
そう言いながら、全然気にしていない様子だ。
でも、本当に嫌いだからな。
しばらく、いやもしかしたらずっと、絶対に嫌いだからな。
「778番!!」
あーほら。
ゆりちゃんが俺を怒らせて大きい声出させるから。
看守に目ぇ付けられたじゃねぇか。
ますます大嫌いだ。
「…何だよ。真面目にやってんだろ」
事実、喋ってただけで労働はちゃんとしてる。
今日は早く帰って少しでも寝たいし、それでなくても夜勤からの残業なんてそれこそ御免だ。
「その荷物を置け」
「……何なんだよ」
てか、なんか看守多くね?
確かにいつも棟とか壊してるから1人2人じゃ手に負えないかもしんねーけど。そんな、10人も20人も引き連れて来なくていいだろ。どんだけビビりなんだ。
いつも夜勤はやる気皆無であくびしてろくにみてもねーどころか、労働者の人数すらまともに数えねーくせによ。
そもそも、何かやって独房送られる時もそんなに抵抗したことねーだろ。期間増やされるの嫌だし、大人しく言うこと聞いてるよな?
「夜勤は終わりだ」
「は?」
どういうことだ?
いつも威張り散らしている看守が、どこか仕方がないという様子で呟いた。
態度といい、人数といい、なんかおかいしい。
「お前は今からマスター検体だ」
体が、硬直した。
「……何で、俺が」
マスターという言葉が頭に響いて、いつものように勢いよく掴みかかれなかった。
本来俺が受けるはずのないクラスのそれを、俺は一度だけ受けたことがある。
最初に、一度だけ。
馬鹿な俺ならすぐにでも忘れてしまえるくらいの、ほんの数十分のことだったのに。
その一度切りのことが、今でも鮮明に思い出せるくらいに記憶に残っている。
俺を人でなくした、あの時の痛み。
計り知れない恐怖が、駆け上がってくる。
「君が僕に楯突くからだ」
看守を掻き分けて、囚人服が垣間見えた。
俺が浮かべている表情とは正反対の笑顔が、顔を覗かせる。
「…スペードの… A………」
看守の先頭に立ったその目が俺を見据える。
立ち尽くしている俺を見て、満足そうなその笑みが増した。
「馬鹿な子だ。僕のオモチャに手を出さなければ…ましてや肩入れなんかしなれければ、こんな目には合わなかったのに」
違う。
「……あんたの、じゃない」
大晟は、お前のオモチャじゃない。
俺のペットだ。
まだ、これから起ころうとしていることを受け入れられていない頭が。
そんなことを口にする。
「そう、まだそんなこと言う元気があるのか。今から、終わらない検体生活が待っているというのに」
「終わら…ない……?」
なんだよそれ。どういうことだよ。
理解が追い付かない。それは俺が筋金入りのバカだから?
いや、そんなことない。
終わらない検体生活なんて、聞いたことない。そんなこと、あっていいはずがない。
「僕が飽きるまで、君にはずっと検体室で過ごしてもらうってことだ。まぁ、死にそうになったら一時中止するし、そう簡単に死なせはしないから」
何も、言葉が出なかった。
ずっと?
あの部屋で、いつもよりもっと暗い部屋で。
たった一度だけ入れられた、あの部屋で。
あの、地獄のような場所で。
そんなことあっていいはずがない。
けれど、それが出来るのがAなのだと。
だかこそ、Aには誰も逆らわない。
……分かっていた。
分かっていたはずだった。
けれど俺は、それに逆らった。
俺がバカだから?
違う。そうじゃない。
「あんなオモチャに手出ししなければよかったと。そう思うだろう?」
スペードのAは嬉しそうに笑う。
俺が、あの時。
本来大晟が入るはずだった棟を壊していなければ。
同じ部屋にならなければ。
無理矢理組み敷いていなければ。
大晟がゆりちゃんや皆と仲良くなっていなければ。
一緒に食事をし、一緒に遊び、一緒に寝て。
キスをして、抱き締めて。
そんな今までのことが、全部なかったら。
大晟と、出会っていなければ。
俺が、大晟のことをーー…。
「ーーそれでも、あんたに大晟は渡さない」
絶対に逆らわない。
逆らってはいけないと分かっていたはずなのに。
俺はまた、逆らってしまった。
ずっと。
ずっと、あの場所に閉じ込められるなんて。
あの、地獄のような場所に終わりなく閉じ込められるなんて。
想像したくもないほどに恐ろしくて。
目を閉じると、気絶してしまいそうなほどに怖いのに。
でも、それでも。
大晟に出会わなきゃよかったなんて、そんなこと微塵も思えない。
それがどうしてか、その答えは分からない。そう言い聞かせてたけど。
本当は。
もう随分前から、知ってるんだ。
「本当に馬鹿な子。とことんまでに苦しみ抜けばいい」
スペードのAは見下すように俺を見て、吐き捨てるようにそう言った。
ざざっと、看守たちが前に出揃ってくる。手錠と足枷を見せられると、今から起こる現実を少しだけ目の当たりにするようで足がすくむ。
けど、どうしてか全く後悔はしていない。
「あー、お取り込み中ちょっと」
今から拘束されるというところで、背後から声が聞こえて振り返る。
そういえば、スペードのAに声をかけられるまでずっとゆりちゃんと一緒にいたことをすっかり忘れていた。
「……ダイヤのA。まさか、お前まで僕に楯突くのか?」
「いや、そんな恐れ多いことするわけないでしょ。俺はこいつほど馬鹿じゃねぇんで」
ゆりちゃんはそう言って俺の頭をぽんぽん叩いた。
まるでこの場空気なんて物ともしていないというその軽い口調にあっけに取られて、すくんでいた足がまともになった。
「まぁでも、運悪く検体施設に雷なんか落ちちゃったりするかもしんねぇし、そんなに急いて連れてくこともないんじゃないすか?」
バチっと、ゆりちゃんの目が一瞬光る。
「どういう意味だ?」
スペードのAがそう問うのとほぼ同時に、どこか遠くの方で微かに雷鳴が聞こえた。
すぐさま、雷鳴を追うように爆発音のようなものが鳴り響く。
「ゆりちゃん…まさか……」
「おお、運の悪いこともあるもんだな」
何で、そんな。
こんなことしたら、ゆりちゃんまで。
「飛んだ茶番だな」
スペードのAは明らかに苛立っているようだった。事が自分の思い通りにいかないと気が済まない性格だから、当たり前だ。
その苛立ちの矛先にいるゆりちゃんは相変わらずあっけらかんとしていて、それがスペードのAを余計に苛立たせているようにも見えた。
「そんなことをしても、どのみち結末は変わらないだろう。恐怖を先伸ばしにするだ」
「その時が来たら、また運悪く雷が落ちるかもしんねーっすよ?」
ゆりちゃん、この前言ってたのに。
スペードのAに喧嘩売るなんて馬鹿だって。言ってたじゃん。
それなのに、何してんだよ。
「そんなことさせるわけないだろう?お前は独房行きだ」
「それってつまり…俺もハートのAみたいに濡れ衣着せられて特別独房行きってこと?」
「何の話だ?お前が行くのはただの独房だ」
「それはそれは、神のご慈悲をどうも」
絶対にどうもなんて思ってない。
俺でもヤバイと分かるのに、ゆりちゃんはこの状況を分かってるんだろうか。
「言っておくが、ただで出られると思うなよ」
据わった目がゆりちゃんを一直線に睨む。
すると、火蓋を切ったように看守たちがゆりちゃんを囲んだ。
「あー、ちょっとちょっと。連れてく前に愛しい恋人にメールさせて」
「ふざけるな、そんなもの没収だ!」
「送ったら渡すから待てって。よし送信、はいどうぞ」
看守に囲まれてゆりちゃんが、どんな様子なのかが見えない。
けど、その声色からはとても今から独房に送られるということを実感しているようには思えなかった。
「要!これでちょっとは挽回できただろ!」
去り際に、ゆりちゃんは俺に向かってそう声を上げる。
けれど俺がその言葉に反応するより早く、看守たちに囲まれたままあっという間に連れていかれてしまった。
「…なんだよ」
そんなこと気にしてたのかよ。
なに考えてんだ。
挽回しすぎだよ、ばか。
「お前も、簡単に戻れると思うな」
スペードのAがそう言ったのを合図に、看守たちが俺にも群がってきた。
向かう先には(恐怖しかない、でも、どうしてか大丈夫だと思う)
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