- ナノ -

好きだから触れたい


 十八時四十分。ひと通りの多い土曜の駅前、ブルーグレーのパーティードレスを身につけて立つ私に、時折珍しいものを見るような視線が向けられていた。なんとなくいたたまれなくてそっと手元のスマホに目を落とすと、ちょうど電車に乗り遅れたという同僚から《着いた!》とメッセージが入った。
 しばらく待っていると、人の波に揉まれながら申し訳なさそうな表情を浮かべた同僚が淡いラベンダー色のドレスの裾を翻しながら駆け寄ってくる。

「ごめん、お待たせ!」
「全然大丈夫、まだ時間あるし」

 招待客は会社の人が多いから、と婚約パーティーは会社の最寄り駅の前に立つホテルで行われる事になっていた。ビルの間を縫うように走るデッキの上を歩く。ビル風に揺れるプリーツが足に触れる感覚が慣れなかった。

 結局、しばらく忙しくなると言われた通り、声も聞いていないまま一ヶ月近く経ってしまっていた。日を挟んで連絡が来ることはあるものの、酒ばかり飲むなだとかストレスは溜めるなだとか、保護者みたいな内容が送られてくるだけだった。
 ふと思い出すのはずっと返し忘れたままの降谷の家の鍵。そのうち会いに行ってしまおうかとできもしないことを考えているうちに、目的のビルに辿り着いた。
 直通のエレベーターで二十七階まで上がる。受付を通って中に入ると、もう既に人が揃い始めていた。ドリンクを受け取り先に来ていた上司に挨拶をしていると、いつの間にか時間が経っていたのか、照明が薄く落とされた。雑談で騒ついていた会場が静かになり、奥のひときわ大きなテーブルの前にライトが当てられる。

「本日はご来場いただき、誠にありがとうございます」

 マイクを通してそう言った元彼の横で、花の咲くような笑顔を浮かべながら立つ後輩。会場内に広がる拍手に釣られるように手を叩くと、内緒話をするように顔を寄せてきた同僚が「たらふく食べて帰ろ」と言った。それに思わず笑って頷くと、安心したように笑って前に向き直った。
 招待状を受け取った時はあんなに惨めな気持ちになっていたのに、思っていたよりずっと落ち着けている。わだかまりがないと言ったら嘘になるけれど、二人のことより降谷のことの方が自分の中で大きかった。
 パーティーはつつがなく進んでいった。立食式で思っていたより気楽なパーティーにほっとしていた。軽く挨拶に回る二人を時々視界の端に収めながら、同僚とカフェにでも来たように他愛もないお喋りをする。いつものランチと違うのは仕事の愚痴が言えないだけだ。

「そういえば今の彼氏とはどうなの?」
「あんまり会えてない」
「そっか、忙しい人だって言ってたもんね。会いにいっちゃえば?」
「えー……ちょっと……勇気でない……」

 考えはしたけど。そう付け足すと、同僚は「そんな奥手だったっけ?」と不思議そうに首を傾けた。

「なまえから会いたいって連絡したりしてる?」
「うーん……付き合う前は飲み行こうって連絡したりしたけど」
「えー……ていうか連絡しちゃえば? 今日! 今!」
「今!?」

 ほらほら、とお酒が入って楽しくなっている同僚に促されるまま、降谷とのトークを開く。昼に来ていたメッセージに返信しようと思ってたし、いつまで会えない日が続くのかが気になるのは確かだし。少し悩んで文字を打つ。

《次、いつ会える?》

 率直すぎるかな、やっぱりやめておくか、と悩んでいるうちに、伸びてきた同僚の指が送信ボタンを押した。

「ああ!」
「返事なんて来たか教えてね!」

 楽しそうに笑う同僚を肘で小突く。まだ既読はつかない。送信の取り消しもできるけどしなかった。
 ひと通りの食事と雑談を楽しんでいるうちに、いつの間にかパーティーは終わりに近付いていた。解散の挨拶が終わり、司会の人が二次会の案内をしている。上司達も会場を後にしたのを見て、私達も帰ろうかとグラスをスタッフに預けた。

「二次会、来ないんですか?」

 聞こえてきた声に振り向くと、そこには後輩の姿があった。隣には寄り添うように元彼が立っている。少し気まずそうな表情に多少イラッとしたものの、「婚約おめでとう」と声をかけると、後輩は「ありがとうございます」と綺麗に笑った。私の言葉に安心したように表情を和らげた元彼が口を開く。

「二次会は友達メインだし。お前が知ってるやつらもいるし」

 元彼の相変わらずな呼び方に眉を寄せる。横に立つ後輩はにこにこと笑顔を浮かべるままで、感情が読み取れない。私の横に立つ同僚は私を心配そうに見ながら、今にも文句が飛び出しそうな口を閉じていてくれた。浅く息を吐き、並んで立つ二人を一瞥した。
 
「お友達メインならちょうどいいんじゃないの?」

 相手をするのも馬鹿らしい。帰ろうと振り向いた瞬間、視界いっぱいにグレーのスーツが広がり、トン、と軽く正面からぶつかる。すみません、と頭を下げようとして動きを止めた。この匂いには心当たりがあった。パッと顔を上げると、見慣れた顔が呆れたような表情を浮かべながら、ぶつかった私の肩を支えていた。

「……降谷、」

 私の口から出た名前に、二人のせいで不機嫌そうに歪んでいた同僚の顔がみるみるうちに笑顔に変わる。
 驚いて降谷を見上げたまま固まる私を見て、降谷は「なんだその顔」と私に聞こえるように呟いておかしそうに笑った。なんでいるの。そう言おうと口を開く前に、ふと伸びてきた降谷の指が私の髪に触れた。普段の自分じゃ絶対やらないような、緩くまとめられた髪。まじまじと見る降谷の視線が気恥ずかしくて少し身を引いたのに、降谷はわざとらしく私の顔を覗き込んだ。

「やってもらったのか?」
「え、うん、パーティーだし……」
「へえ、似合ってる」
「あ……ありがとう?」

 何かを企んでいるような気しかしない降谷の態度に訝しげな視線を送ると、降谷はその視線に気付いているはずなのにどこ吹く風で私の背後を見た。その視線を追うように私も振り返ると、口をぽかんと開けたまま頬を赤くさせる後輩と、驚いた顔で降谷を見つめる元彼の姿があった。降谷に目を向けられた後輩がはっとしたように私と降谷を交互に見る。

「え、あ、先輩の……え、え?」
「こちらは?」
「今日の主役の後輩と同期」
「あぁ! そうだったんですね。ご婚約おめでとうございます。」
「あ、あ……ありがとうございます……」

 火照った頬のまま、前髪を手櫛で直しながらそう答える後輩に、降谷はにっこりと人好きする笑顔を浮かべた。胡散臭い。二人が主役とか、そんなの知ってるくせに。少し引いた顔で降谷を見上げる私に、降谷は表情を崩さないまま「もう終わり?」と尋ねた。

「うん、これから二次会だから」
「行かないのか?」
「二次会はご友人が多いみたいだし」

 何かを言いたそうな顔で固まる元彼を一瞥した降谷は「そうか」と言って私の肩を支えるように引き寄せた。そのまま歩き出す降谷に促されるがままに足を動かす。ちょっと待って、と慌てて振り返ると、満面の笑顔を浮かべた同僚が「また来週!」と手を振っていた。気を遣ってくれた同僚に感謝しつつ、小さく手を振り返した。
 ホテルのスタッフに案内されたエレベーターに乗り込むと、地下駐車場のある階のボタンを押した降谷がようやく私の肩から手を離した。そっと一歩だけ離れて肩の力を抜く。久しぶりに会う降谷に身体が勝手に緊張していた。
 それなのに、口から出てきたのは「なんで来たの、言ってたっけ?」という可愛くない言葉だった。壁に背を預けた降谷が表情を変えずに私の鞄を指差す。

「この間招待状見せてきただろ」
「それだけで?」
「覚えてたから」

 五階のフロントまで止まらない直通のエレベーターは、二人の間の沈黙を少し重たく感じさせた。降谷といる空間を気まずいと感じるのは初めてだった。

「なんで来たの?」

 さっき答えてもらえなかった質問をもう一度投げかけてみる。降谷は少しの沈黙の後、私と視線を合わせて諦めたように笑って口を開いた。

「ちょっと不安だったのと、牽制」

 らしくない言葉に戸惑う。真っ直ぐに私を見る降谷の目に、なんて返せばいいか分からなくて黙り込んだ。口を開く前にエレベーターが五階に止まる。駅までのデッキに繋がる二階に向かう人たちが次々とエレベーターに乗り込んできた。突然雪崩れ込むように入ってきた人に肩がぶつかってよろけたところで、降谷に腕を掴まれて引き寄せられる。
 重たそうになんとか閉じた扉。エレベーターが再び動き出す。薄いドレス越しに触れるスーツの感覚。いつもの降谷のにおい。高いヒールのせいか、いつもより降谷の顔が近い。さっき離れた一歩分、降谷に近寄る。降谷は全部言葉にしてくれる。態度にも。私に触れる手はいつもやさしい。同じようにできたらいいのに、降谷を前にするとどうしても気恥ずかしくて思うようにできない。
 言葉にできない感情も、触れるだけで全部伝わればいいのに。俯いたまま、スーツの肩口に額を軽く押し付ける。今の私の精一杯だった。頭の上で、小さく笑う気配がする。腕を掴んでいた降谷の手がするりと離れ、支えるようにそっと腰に回った。

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