- ナノ -

苦くて甘い罪の味


 私が降谷に好きだと伝えたあの夜から一週間。お互い働いているしもちろん毎日は会えるはずもないけれど、たまに夜をどちらかの家で過ごす日を送っていた。
 長い間友人として付き合ってきたけれど、恋人としての降谷は今まで一度も見てこなかった面だった。少しずつ分かってきたこと。降谷は意外と独占欲が強い。それと、今までどこに隠してたのかと思うような甘い視線を向けてくることがある。

「……と、いうわけでこの前話してた人と付き合うことになりました」
「超! いいじゃん! おめでとう、ほんっとに!」

 心配をかけた同僚に軽く現状を報告すると、同僚は満面の笑顔を浮かべて力強く言い切った。照れくさくなって笑うと、同僚は「ところで、」と言って声を顰めた。

「あいつらの最近の様子、知ってる?」
「全然。なにかあったの?」
「なんかなまえ、最近元彼に軽く絡まれてるんでしょ? それに後輩がよく思ってなくて、上手くいかないんじゃないかって女子社員の間でちらっと噂になってるみたい」

 確かにこの一週間、元彼とばったり顔を合わせるタイミングで一言二言話しかけてくることがある。前に言ってた「一番の友人」とやらになりきっているのか、やけに馴れ馴れしく話しかけてくるからちょっとうんざりしていた。そのことを同僚に伝えると、同僚はアイスティーを飲みながら苦虫を噛み潰したような顔を浮かべるから面白くて笑ってしまう。

「笑い事じゃないでしょ、キモすぎ! ただでさえ元彼ってだけで友達以下なのにあんな別れ方してなに言ってんだって感じなんだけど……」
「同じ会社で関わりのある部署だと顔合わせないってのも無理だしね……転職?」
「駄目! 無理! 嫌!! 冗談でしょ!?」

 テーブルの上に乗せていた腕を掴んで揺さぶる同僚に笑うと、「笑い事じゃない!」と必死な顔をした同僚が腕を掴む力を強くさせた。

「ていうか元彼に絡まれてるって今の彼氏に言ってるの?」
「いやまさか、今のところ実害ないし……なんだかんだ言ってただ話しかけてくるだけだしね」

 そっか、とため息をついた同僚から視線を外して時計を見ると、そろそろ昼休憩が終わる時間が近付いていた。同僚を促して席を立ち、会計を済ませて会社に戻る。朝は真夏顔負けの太陽が姿を見せていたのに、いつの間にか分厚い雲で覆われていた。鞄の中の折り畳み傘を思い浮かべて、あと少しでやってくる夏に思いを馳せる。
 その夜、降谷から《少しの間忙しくなる》と一言だけのメッセージが届いた。



 * * *



 降谷に会えていない日が一ヶ月程続いていた。お互い働いているし時間が合わないのは当然だし、別に元から毎日会わなきゃ嫌だというタイプでもない。それでも、付き合い始めてからは一週間に一回程度は顔を合わせていたから、突然会う機会が減ったことに寂しさがないといえば嘘になる。
 幸いなのは会社での噂話がぽつぽつと薄れ始め、私に向けられる視線がほとんど無くなったことだった。

「なまえ!」

 名前を呼ばれて会議室へ向かう足を止める。振り返ると元彼が小走りで駆け寄ってきていた。顔の表情がすっと消えるのが自分でも分かった。腕時計に目を落とす。時間はまだ少し余裕があった。

「なに?」
「いや、ちょっと聞きたいことあってさ。お前んちに俺の充電器置きっぱなしだったりする?」

 お前呼ばわりにイラッとしたけど無視した。気にかけるだけ無駄だと思ったから。部屋の中を思い浮かべても思い当たるものがなくて「ポータブル?」と尋ねると、首を振って「コードのやつ、ていうかコード。黒の」と答えた。
 荷物を送り返された箱に元彼のものは全部詰め込んで着払いで送ってやったと思ったけど、入れ忘れていたのだろうか。送った後に気付いた歯ブラシなんかはどうせ新しいものを買うだろうと捨てたから、それらと一緒に目に付くものは処分したのかもしれない。

「さぁ、思い出せない。多分捨てちゃったかも」
「じゃあ今日探しに行っていい?」

 はぁ? と思わず出そうになった声を飲み込んだ。へらへらと笑う元彼を蹴飛ばしてやりたい気持ちを堪える。

「無理」
「なんで? あとほら、あれもなかったんだよね。ワックス。置いてない?」
「多分捨てたってば。コードもワックスもお金返すから新しいの買ってくれる?」

 低い声で言うと、黙り込んだ元彼がはぁ、と深いため息を吐いた。なんで私がそんな態度とられなくちゃいけないんだ。こっちがため息つきたいわ、と出そうになった文句を会社であることを思い出してぐっと堪え続ける。
 コードもワックスも荷物を送ってから三週間もたった今返して欲しいと思うようなものじゃない。なにを考えてるのか知らないけれど、面倒事に巻き込まれるのはごめんだった。

「別にいいだろ、ちょっと家行くくらい」
「むしろなんでいいと思ったのか知りたいわ。もう再来週には婚約パーティーでしょ、準備に忙しいんじゃないの?」
「そうだけど、なんか、俺……」
「なまえ! 早くしないと始まっちゃうよ!」

 名前を呼ばれて顔を向けると、駆け寄ってきた同僚が私の背中を軽く叩いて急ぐように促した。時計を見ると予定の時間まであと数分しかない。何かを言いかけていた元彼に背を向けて少し前で待つ同僚の後を追う。立ち尽くしたままの元彼を振り返りはしなかった。



 * * *



 なまえと付き合っていた頃、たまに出てくる名前があった。降谷≠ニいう名前と、もう一人の名前は降谷に比べて出てくることが少なかったから、今はもう思い出せない。二人はなまえの高校の時の同級生らしく、なまえの話に出てくるそいつは嫌味ったらしくてあまり好きじゃなかった。
 頭が良くて、優等生だけどある意味問題児っぽい。冷静そうで実はやんちゃなところがある。付き合っていた年月に比べると降谷の話はそう多いものではなかったけれど、たまに飲みに行ったという話を聞くたび、会ったこともない男に嫉妬に近いような、言葉にしづらい感情を抱いていた。

 一度だけ見せてもらった高校の卒業アルバム。黒髪と染めた後の残る微妙な茶髪の頭の中に混じる金髪。俺がそいつを見ている事に気付いたなまえが「それが降谷だよ」と懐かしむように笑いながら言った。
 卒アル写真なんて証明写真みたいに絶対不細工になるに決まってるのに、澄まして写る顔がやけに整っていて、自分の中のちっぽけなプライドを煽るように突かれた気がした。写真の下に目を向ける。降谷零。なまえの話の中で降谷という名前が出るたび、その卒アルの写真が浮かぶようになったのはその日からだった。

「高校の頃の同級生……なんだっけ、降谷さん? だっけ?」
「うん? 降谷がなに?」

 一年ほど前。名前を忘れたふりしてそう言ったのは、時々思い出しては気にかけていると知られたくなかったからだった。首を傾げたなまえになんでもないように振る舞いながら「最近はどうなの?」と聞いた。

「うーん、前に比べて結構会う頻度は減ったかな。なんか忙しそうだし」
「へー……」

 元々お互い友人との食事や飲み会を嫌がるタイプじゃなかったし、今までの様子からも間違っても過ちなんてなさそうだったから特に会うのをやめるように言ったりはしていなかった。別にそんな深く考えて気にしたことはなかったのに、あの写真を見た日から、思い出すたびに自分の中にあった自信が崩れそうになっていた。

「やめたら? 会うの」
「え? なんで?」
「や、別に。忙しいなら迷惑そうだし、愚痴聞いてもらうなら別に降谷さんじゃなくてもいいんだろ」

 自分も昔の仲間とよく飲みに行くことはあったし、死んでも言わないけど一度だけその中の一人と酒の勢いで寝たこともあった。自分のことは棚に上げてそう言った俺に、なまえは考えるように首を捻る。

「うーん、そう言われたらそうだけど……気が付いたらいつの間にか死んじゃってそうなやつだからさ、出来るだけ会いたいし。そうなってからじゃ遅いでしょ」

 何かを思い出すように寂しそうに笑ったなまえに、それ以上聞くことはしなかった。後にも先にも、俺から降谷についての話を振ったのはその一回だけだった。

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