- ナノ -

心が狭いよ

 いつも突然やってくるせいで家になにかを準備しているわけもなく、なにもないからと外にランチに出た帰りだった。通りがけの広場にたくさんのテントとブルーシートが並んでいて、それを囲むように人だかりができていた。あまり見かけないその光景に思わず足を止めると、隣を歩いていたクロロがそれに気付いて、背中を軽く押されながら道の端に促される。
「あれなんだろう」
「フリーマーケットらしい。駅にチラシが貼ってあった」
「へえ! せっかくだし見てみる? 掘り出しものとかあるかも」
「掘り出したってどうせ三日もすれば構わなくなるのに?」
 呆れた視線を向けてくるクロロに口を噤む。湯船に浮かべようと買ったのに洗面所に置きっぱなしで埃が積もったアヒルのおもちゃや、開けてもいない手のひらサイズの植物キットのことを言われているのだとすぐに分かった。その視線から逃げるようにそっと顔を逸らす。
「……とりあえず見るだけ見ていこうよ」
「見るだけ、な」
「分かってるってば」
 そんなに念を押すように言わなくてもわかってる。まるで子ども扱いだ。そういう自分だって色々なものを集めてるくせに。まずは人の家に本を積むのをやめてから言ってほしい。


 緑色のテントの下に広がる動物をモチーフにした小さなおもちゃに目を輝かせていた。ブルーシートいっぱいに広がるおもちゃを端からひとつひとつ眺めて、黄色に塗りたくられたおもちゃを手に取ってみる。
「え〜〜! これかわいい、ほしい!」
「お前、見るだけって話はどこにいったんだ。三回目だぞ」
「だってかわいい……見たらほしくなっちゃう。ほら、かわいくない?」
 手に取ったプラスチック製の鳥のおもちゃが人の声に反応してぱくぱくと口を開けたり羽を動かしたりする。どういう仕組みかはさっぱりわからないけどちょうかわいい! クロロは私の手の上の鳥を見て「なにに使うんだ」と呆れた表情を浮かべた。確かにそう言われるとそうなんだけど。諦めて鳥のおもちゃを元に戻して立ち上がる。
 ブルーシートに並べられた商品を端から端まで眺めながらゆっくり歩く。おもちゃから古着、古本、食器、それからなにに使うのかわからないようなものまで、色々なものが並んでいる。ちょっとしたお祭りみたいで歩いてるだけでも満足していた。
 ふと、ひとつの商品が目につく。黒く縁取られた文字盤の真ん中にちょっとふざけた絵柄の黒猫が描かれた壁掛け時計だった。あの猫、なんとなくクロロに似てる気がする。見れば見るほど機嫌が悪いときのクロロにそっくりだ。笑いを堪えてその時計を指差してクロロを振り返る。
「ねえ、これ……」
 振り返った先にいたのは知らないおじさんだった。目を丸くするおじさんにこっちがぎょっとする。間違えて声をかけてしまった恥ずかしさに慌てて謝って、人でごった返している辺りを見渡した。溢れんばかりの人のわずかな隙間にも目を凝らして、だけどどこにもクロロの姿は見当たらない。
 やってしまった。テントの群れから少し離れて改めて人混みを眺める。やっぱりどこにもいない。こんなに簡単にはぐれるなんて思ってもいなかった。クロロはいつも勝手に来て勝手に帰っていくから連絡先なんて知らないし、これだけの人混みじゃあここでの合流は難しそうだ。最悪家に戻ればいいだけだし、とりあえずもう少し見て回ることにして、再び立ち並ぶテントに近づこうとした。
「えっ!?」
「え?」
 すれ違おうとした人がぎょっとした顔で振り返る。驚いてその人を見ると、その人は私の何倍も驚いている様子でますます訳がわからない。なにか変なものをつけて歩いていたのかと軽く自分の体を探したけど、特におかしいところはなにもない。
「邪魔だよ!」
 道の真ん中に突っ立っていたせいで、道ゆく人にぶつかられて前のめりになる。倒れかけた体を親切にも支えてくれたその人は、困ったような顔を浮かべて私を見下ろしていた。背が高くてずっと見上げていると首が痛くなりそう。これだけ背丈があると人混みでも息がしやすそうだ。ちょっと羨ましい。
「ごめん。ちょっと知ってる人に似てたんだ」
「はあ、お気になさらず。それじゃあ」
「あ! ねえ、君の知り合いに、こう……うーん……圧が強い男の人っている?」
「いえ、特に」
「嘘だぁ」
「本当ですって」
 ヤンキーみたいな柄の悪い男を想像して、やっぱりそんな男は知り合いにいないと首を振った。そこでポケットに入れていた携帯が震える。取り出してみると知らない番号からの着信だった。初めの数字からして企業かなんかじゃなくて個人携帯からのようで、間違い電話か詐欺かのどちらかだろうと無視してポケットに戻す。振動はすぐに止まった。
 その間もなにやら考え込んでいる様子だった目の前の人が、偶然似てる匂いなだけか、と呟いた。匂いがどうかしたのかと腕を持ち上げて袖のあたりを嗅いでみる。微かにクロロのつけている香水の匂いがしなくもない。あの爽やかなのにどこか甘い不思議な香りはそこらで嗅ぐことはないような珍しい匂いで、確かにあの匂いを街中で嗅いだらクロロが近くにいると勘違いするかもしれない。
 この人が似たような匂いに覚えがあるのはとにもかくにも、私からなにかが香るんだとしたら部屋でクロロの上着にコートを重ねて掛けていたせいだろう。私自身は香水なんて滅多につけないから、クロロの匂いが移ったに違いない。いくら珍しいとはいえたかが香水だし、この世にただひとつというわけでもないだろう。いくつかの偶然が重なることも、まあなくはない。
「知り合いがつけてる香水の匂いかもしれません」
「それって男?」
「…………。あの、さっきからナンパですか?」
「えっ……あ、確かに。ごめん、ほんとに全然違う」
 なんで私が振られたみたいになってるんだ。確かにクロロとは系統の違う顔の整い方をしていて、甘い顔立ちで女の子ウケがよさそうだし、わざわざ自分から話しかけなくてもいくらでも女の人が寄ってきそうな容貌ではあった。
「シャル?」
 聞き慣れた声のする方に顔を向けると、目の前の男の人の向こう側に人混みの間から覗く黒髪が見える。ゆっくりと動く人が流れてようやく距離が詰まり、クロロがシャルと呼んだ男の人の影に隠れていた私を見つけて目を見張った。
「こんなところに……何で電話に出ないんだ」
「あれクロロだったの? だって知らない番号だったから」
「…………登録しておけ」
 ため息混じりに言われて大人しく頷く。それから並ぶ二人を見上げた。外側だけを見れば二人で並んでるだけでこの世の女の人をつり放題な気がする。そこで気づいた。もしかしなくても、ずっと謎だったクロロの職業がなんとなく分かったかもしれない。間違いない。たぶんホストだ。それならあの女性に手慣れた感じも納得がいく。
 クロロは私たちの様子を静かに見ていたシャルさんを見てから私に視線を落として、もう一度シャルさんを見た。それからぽつりと呟く。
「……趣味が悪いな」
「だからナンパじゃないから! この子がクロロと同じ匂いだったから驚いただけ!」
「匂い?」
 屈んだクロロの顔がこめかみあたりに寄せられる。がやがやと耳にうるさい喧騒と耳元で聞こえるクロロの静かな呼吸音がアンバランスだ。しばらくして離れたクロロに首を傾ける。
「あんまりわかんないよね」
「いや、少し移ってるな。お前には分からないだろうが」
「……あ、そう……」
 シャルさんは甘いものを喉に通した後みたいな複雑な表情で私たちを見ていた。シャルさんは知り合いであるはずのクロロはそっちのけで、人好きのする笑顔を浮かべて私に視線を合わせる。
「この辺に住んでるの?」
「ああ、はい。この先の、」
「なまえ」
 続きを遮られてクロロに顔を向ける。シャルさんが「ガードかたいよ」とからかうように笑ったけど、クロロはそれを無視した。
「知らない人間に個人情報をぺらぺら喋るな」
「え、クロロの知り合いなんじゃないの?」
「警戒心のかけらもないな」
「あるわ! ちょっとくらい!」
 クロロの言葉は確かに正しいけど、そんなものまともに持ち合わせてたらそもそもクロロが部屋に上がり込んでる時点でとっくにどうにかしてる。その思いを込めてじとっとクロロを睨み上げると、クロロは心当たりがあったのか珍しく黙り込んで視線を逸らした。シャルさんがへえ、と興味深そうな顔を浮かべたことでクロロが舌打ちをする。
「じゃあ連絡先は?」
「駄目だ」
「ちぇ、心狭すぎ。みんなに言ってやろ」
「絶対言うなよ。……行くぞ、なまえ」
「え? もういいの?」
 せっかく知り合いに会ったんだし、お茶でもしてくればいいのに。仲良さそうなのに意外とドライな関係なのかな。クロロの背中を追う前にシャルさんをちらりと見る。シャルさんは変わらず人当たりのいい笑顔を浮かべたまま、ひらひらと手を振るだけだった。



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