- ナノ -

どうせなら

 玄関を開けた瞬間に掠めた香水の匂いに深く息を吐き出す。この世の不幸を一身に背負ったような深いため息を耳ざとく聞きつけて、部屋の奥から「幸せが逃げるぞ」と言う男の声がした。それはいつかに私が故郷のことわざを教える中で伝えた、ひとつの迷信だった。存外言葉遊びが嫌いじゃないようで、こうして度々教えたことわざなんかを持ち出して使いこなす。器用な男だ。
 玄関に並んだ一足の靴の横にパンプスを脱ぎ捨てる。最近になってようやく、靴は玄関で脱ぐ、という私の習慣に倣うようになったおかげで家の床が汚れなくなった。勝手に家に上がり込まれるより床を汚される方がストレスだったから、それさえ守られているならもうなんだっていい。
 鞄を適当に放り投げて部屋の奥へ進む。一人用の背が低いソファに体を預けて寛ぐ男は、手にしたハードカバーの本に視線を落としたまま「おかえり」と言った。おかえりの前にお邪魔しますだろと思ったけど、この男が律儀にそんなことを言う姿はこれっぽっちも想像できない。ほんの少しの抵抗を込めて、小さな声で「ただいま」と返した。
「遅かったな」
「今日はダメな日だった」
「そうか」
「もう無理、疲れた」
 クロロがソファを占領しているせいで私の寛ぐ場所がない。今日はトラブルまみれで本当に疲れたのに。一刻も早く横になりたい。お腹は空いたけどなにかを作って食べるよりも横になりたい。とにもかくにも横になりたい。クロロのすぐ後ろにあるベッドに横向きに倒れ込んでから、先に化粧を落とせばよかったと後悔した。もう起き上がる元気がない。静かな部屋に本のページを捲る音だけが広がる。
「……いっつも思ってたんだけど、どうやって入ってきてるの?」
「知りたいか?」
「そりゃまあ、誰彼かまわず勝手に入られたら困るし」
「安心しろ。窓かドアを打ち破りでもしない限りそう入られない」
「じゃあクロロはなんなの?」
 その理屈だと結局無理矢理押し入った様子のないクロロの侵入経路がわからないままだ。横になったままその背中を見つめる。クロロは黙ったままポケットに手を入れた。なにがあるのかと静かに待つ。クロロの手の中には室内灯に反射して光る、銀色の小さな鍵があった。
「なにそれ」
「合鍵」
「…………」
「この部屋の」
「犯罪者!!」
「なにを今さら」
 そうだった。深く干渉はしていないけど、さすがにまともな男じゃないことくらい察しがつく。そうじゃなれけば家主の許可もなしに勝手に家に上がり込みやしないだろう。再びその鍵を自分のポケットに仕舞ったクロロを咎める元気はない。どうせあれを回収したってまた違う合鍵ができるか、クロロならどうにでもして入ってくるだろう。それこそ押し入ってでも。
 再び本を捲る音が聞こえ始めて、それが子守唄よりも眠気を誘う。化粧、落とさないと。落ちる瞼の重さに抗えない。
 ふとページを捲る音が止んで、本を閉じる音がする。もう帰るのかと浅く浮かんだ鈍い意識で考えたとき、ベッドが軽く沈んで頬に冷たいなにかが当てられた。その冷たさに驚いて瞼を押し上げる。クロロがクレンジングシートを私の肌に滑らせていた。
「……クロロって」
「…………」
「いい男だよね」
「今さらか」
「うるさ……」
 意外にもやさしい手つきに大人しく瞼を降ろす。その閉じた瞼の上にもシートが当てられて、馴染んだ頃にそっと拭き取られた。微かに香る柑橘の匂いにほっとする。
「手慣れてる……」
「オレにこんなことさせるのはお前くらいだよ」
「ええ? クロロは嘘つきだからなぁ……」
 確かにこの男が甲斐甲斐しく世話をやくイメージはないけど、これだってただの気まぐれだろう。この関係の始まりだってそうだった。折りたたまれたシートが最後に唇の上を滑る。夕方につけ直したブラウンレッドのリップの色がシートに塗られていた。
 お礼を言おうと閉じかけていた瞼を持ち上げると、私の目を覗き込んでいるクロロの綺麗な顔がすぐ目の前にあって反射的に顔を引いた。息がかかってくすぐったい。
「近い」
「落ちてるか?」
「うん。ありがとう」
 身じろいだせいで顔にかかった髪を、クロロの指が払う。やさしく顔に触れられる感覚が残って、今なら気持ちよく眠れそうだった。いよいよ瞼が落ちかける寸前、クロロの指に輪郭を撫でられる。まだなにかあるのかと薄く瞬きをした瞬間、気でも狂ったのか、そのままクロロの顔が近づいて唇が触れた。柔らかい唇の感触に驚いて眠気がどこかに飛んでいってしまったというのに、当の本人はなぜか微かに顔を歪めている。人に勝手にキスしておいてどんな顔してるんだ。意味がわからない。
「……苦い」
 小さく文句を溢したクロロに納得する。ズボラにやさしい、化粧水が含まれてるクレンジングシートのせいだ。着飾った綺麗な女の人にばかり言い寄られると、だらしなくベッドに沈んだ、化粧もしてない女にちょっかいをかけたくなるものなのだろうか。気まぐれにもほどがある。どうせキスするなら化粧を落とす前にしてほしかった。へんな男。



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