- ナノ -





「あの日もそうだったな」
 静かな声。そこでようやく力の抜けた体のままクロロにもたれていたことに気がついた。なぜか体にほとんど力が入らない。疲労による倦怠感が体を襲っていた。黙ってクロロの顔を見上げると、思っていたよりずっと近い位置にクロロの顔があった。離れようと体を引こうとしたのに、掴まれたままの腕に力を込められて身動きが取れない。私の親指から流れた血が、私の手首を掴んだままのクロロの手の甲を伝っている。
「クロロがあの夜うちに来たのも、これのため?」
 あの日、錆びた鉄の匂いが充満するあの家で、クロロは「なにも起こらないのか」と言った。起こるわけない。あの家にいる人は私以外全員、なにも受け継いでなんかいないから。
「どこまで調べてたの?」
「血に関する面白い能力を持つ家系があると聞いただけだ」
「能力……」
「制約は?」
「せいやく……ルールのこと?」
 念を知らないのか。呟いたクロロの言うことが突然よくわからなくなる。この能力が念とやらで、それにはルールがついているものなのだろうか。ここまで大きなしっぺ返しに巻き込んでしまった罪悪感から、自分の知っていることを素直に話すことにした。
「私も多くは知らない。十八歳になったら当主になる予定で、そこで家とか呪いとかについて詳しく教えてもらうことになってたし」
「文献は?」
「うちは口伝だから……多分ないけど、あったとしてもどこにあるか知ってる人はもういない。呪いについては前に話したことがほとんど。血に関しては、これが使えるのは一代にひとりだけ。私の先代は父方の祖父で、その前は知らない。あとは使う相手がいないと効果がないの、私一人のためだけには使えない」
「自分だけをどこかに飛ばすとか?」
「そう。今回みたいに飛ばす相手が別にいないとだめなの。あと上限はわからない、同時に多くの人に使ったことがないから」
 あの日から、あと三ヶ月ほどで十八歳の誕生日だった。
「本当は代々受け継いだ人が二十歳の時に当主になるんだけど、私が十六の時に先代のおじいちゃんが亡くなったの。だから二年早める予定だった」
 別にあの家にいい思い出があるわけじゃない。おじいちゃんが亡くなってからは特に、私にとっていい生活ではなかった。だからあの日も、家のものが殺された悲しさよりも先に、自分さえ殺されなければいいと思った。
 クロロは「他には何ができる?」と話の続きを促す。
「大元は接触物への干渉なの。それが鍵みたいな無機物でも、人間でもルールは同じ。ただ、接触の度合いにもレベルがある。あの日、クロロの靴には絨毯に染みた私の血がついてるって信じて……でもあくまで靴への接触だから、そんなに遠くには飛ばせなかったはず」
「ああ」
「直接肌に触れれば大体はなんでもできるけど、そのラインが私にもはっきりわかってない。でももっと大掛かりなこととか、毒や薬にするなら粘膜接触とか嚥下が必要で……」
 そこまで言ってハッとした。クロロの唇に滲む赤い血。もう乾き始めているそれは、さっき私が押し付けたものだ。
「毒じゃないよ」
「分かってる」
 クロロは気にしていなさそうだったけど、少しだけ申し訳なくなって服の袖でクロロの口元を拭った。乾いてしまっているせいであまり意味はなかった。
「血液自体を別の物質にできるということか」
「やったことないからわからないけど……おじいちゃんは血そのものが変わるわけじゃなくて、意味を持たせるんだって言ってた」
 沈黙が流れる。クロロは何かを考え込んでいる様子だった。
「これが欲しいの?」
 一年という時間は短いようで案外長い。私はその場面を見たことがある。どこからか取り出した本の上に相手の手のひらを重ねて、そうしたらいつの間にか相手の能力をクロロが使えるようになっていた。こういうのは本当は隠すものだとシャルから聞いたとき、複雑な気持ちを抱いたことを覚えている。舐められているのか信頼されているのかわからない。多分前者だ。私の問いかけにクロロは首を振る。
「オレの血じゃ意味がないかもしれないし、呪いまで貰ったら困るからな」
 クロロは計算外だ、とため息を吐いた。話は終わったらしい。掴まれたままの手を緩く揺らすと、ようやくその手が離される。いつまでもこの体制でいるのもつらい。本当はちょっとだけ恥ずかしかった。
「最後にひとつ」
 離れようとしたところで飛んできたクロロの問いかけに動きを止める。
「これは?」
 自分の唇の端をとんとんと指で叩いたクロロに、一瞬何のことだかわからなかった。流れた血が掠め取られるような痕になって乾いている。そうだ。あの時。自分の行動を思い返して思わず震えた。
「あ、あれは……! 私も対象なら自分の血の摂取が必要で……手は掴まれてたし、必死だったし、目の前にあったから!」
 頭に熱が集まって眩暈がする。必死に言い訳を並べたてる自分の顔を見られたくなくて手のひらで顔を覆った。
 ごめん。忘れて。か細い声で最後にそれだけ伝えると、クロロは出会ってから初めて声を上げて笑った。この人の笑いのツボどこにあんの。全然おもしろくない。
 それ以来、現在に至るまで、あの夢を超える悪夢は見ていない。ときどき考えることがある。今の自分にとっての一番の悪夢はなんなのだろう。


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