- ナノ -



手繰り寄せる



「なまえって普段引きこもりだからあんまり分からないけど、たまに箱入り娘っぽいところあるよね」
 薄暗くカビ臭い部屋の中で、いつだかに言われたシャルの言葉を思い出していた。その時は確か、なんのこっちゃとソファで寛ぐクロロに視線だけで意見を求めたら「お前の情報は高く売れる」なんてとんでもないことを言われたんだっけ。私の情報売るならそれは私のお金だから少しも洩らさず入金して。私の言葉にシャルが「そこじゃないでしょ」と呆れていた。そう。私が思っているより、私の血には価値があるらしい。あと引きこもりじゃなくてインドア派なだけだ。


 世界七大美色。流石にそれくらいは聞いたことある。それは美しい湖の色や特別な樹の色だなんて幻想的なものじゃないことも、なんとなく知っている。世の中には人体に関するもののコレクターがいるらしい。これは流石に知らなかった。私の家の血は一見したら普通だし、変な能力を使うからって特別輝いたりなんてしない。それなのに身内でしか正しい情報がほとんど回らないから、「血液に関する能力が使える家系」という情報だけが裏のルートとやらで出回っているらしかった。情報が少なければ少ないほど、希少価値が高い。それがコレクターをくすぐるんだと知りたくもないことを教えられた。
 指先から流れる血が、その真下に置かれたワイングラスに少しずつ溜まっていく。
「遅いな。まだか?」
「もう少し量を増やしますか?」
「死んでも困る。ほどほどにな」
 後ろ手で縛られた手首にナイフがあてがわれる感覚。すでに付けられている傷に重ねるようにして横に引かれる。昔から痛みに弱い。最初から耐えられてなんかいなかったけど、いい加減心が折れそうだった。口に貼られたテープは堪えきれなかった涙と唾液でぐちゃぐちゃだ。
 部屋で寝ていたはずなのに、悪夢に震えて目を覚ましたらそこにもまた悪夢が広がっていた。あまりの衝撃にどっちが夢なのか最初は分からなかったけれど、痛みを感じるからこっちが現実で間違いないらしい。ときどき気を失うように眠りについて、悪夢を見て、それから痛みで目を覚ます。最悪なことに、こいつらは寝ている間に傷口が固まりかけるとその度にナイフで傷口を抉った。
 窓ひとつないからどれくらい時間が経ったのかも分からない。五回は繰り返しただろうか。これはどういうカウントになるんだろう。一日に何回悪夢を見ても一回分なのか、それとも回数分だけ重なり続けるのか。このペースだと一週間後にはたとえ生きていてもしっぺ返しの方で死にそうだ。運が悪いことに、夢の中の本当の悪夢もだいぶタチが悪かった。
 恐らく十三回目の悪夢から目を覚ましたとき、ようやく男が動いた。後ろで縛られているせいでわからないけど、ナイフで裂かれ続けた手首はきっと酷い有様だろう。男は溜まったワイングラスを手に取った。先に止血くらいしてほしい。体中を駆け巡る寒気と指先の痺れが傷の痛みと同じくらいキツい。
「これが……? 見た目は変わらんな」
 毒になれ。毒になれ。毒になれ。傾けられたグラスの中の血に向けて何回も何回も念じてみる。赤黒い血だまりは本物のワインより少し粘度があるらしい。この世で最も必要のない豆知識だ。男の唇に私の血が触れて赤く染まる。その時ふと思い浮かんだのは、いつだかに私の血で唇を赤く濡らしたクロロの顔だった。あの時はこんなに不快じゃなかったはずなのに。その喉がゴクリと音を鳴らす。なにも起こらない。こんな時ばっかり役立たずで、なんてしょうもない能力。
「なにも起こらないじゃないか。時間が経ったせいか? 離れた血じゃ意味がないのか?」
 近づいてきた男が私の背後にしゃがむ気配がした。それから手首に湿った生あたたかいものが這う感覚。沁みて痛いし気持ち悪い。小汚いオッサンの舌が自分の手首を舐めているところを想像して吐きそうになった。あの時クロロには本当に悪いことをしたな。あとで絶対にもう一度謝ろう。
「クソ、本当にこの女であってんのか?」
「間違いないはずです」
「つまんねーな。血だけ抜き取って売り捌いとけ、コレクターには売れるだろ。後は好きにしていい」
「はい。十ミリリットル五百万ジェニーから、既に入札入ってます」
 偉そうな方の男が私の椅子を蹴飛ばした。男はタバコを取り出しながら、部下らしき男を連れてドアの向こうに消えていった。指先の感覚はもうとうに消えていた。それでも寒気だけはまだ無くならない。確か、失血で死ぬ時は最後に体が熱くなるんだっけ。それは凍死のときだったかも。ていうか私の血ってそんないい値段するんだ。大金持ちも夢じゃないかもしれない。
 そこでふと、嫌なにおいが鼻についた。ガスのにおいがする。前にコンロを空がけしてしまったとき、確かこんなにおいがした。詰まった鼻にも届くほど濃いガスのにおいが、ドアを一枚隔てた向こうから漂ってくる。閉じ切っていないドアをじっと見つめる。そういえばあいつ、タバコ持ってなかったっけ。
 次の瞬間、爆発音と共に凄まじい熱気がドアをぶち破る。吹き飛ばされながら部屋に転がり込んできた男は、焦がした服に小さな火の粉を纏わせながら壁に頭を打って静かになった。まだ息はあるようだ。流石にしぶとい。
 まだ一日、長くても二日程度しか経っていないはずなのに、明らかに一回の悪夢の程度より大きすぎる。たぶん、なんとなくだけど理解した。一日に何度悪夢を見ても一回には変わらない。その回数分、ひとつの大きな悪夢としてカウントされる。最悪だ。数えている限りでも十三回は悪夢を見た。
 このがらんとした部屋に燃えるものがないことだけが幸いだった。ゆっくり煙を吸って、そうしたらせめて痛みもないまま逝けるだろうか。
「随分手酷くやられたな」
 聞こえるはずのない男の声がして、重たい頭で辺りをゆったりと見回す。燃え盛る炎を背中に、煤を手で叩きながら入ってきた男の姿はあまりにも異質だった。なんだこの男。弱点とか不可能とかってあるのだろうか。
 クロロは真っ直ぐ私に向かってくると、口に貼られたままのテープと縛られていた手を解いてくれた。かぶれた口元が唾液で濡れていて鬱陶しい。痺れていうことを聞かない指先を無視して震える腕を持ち上げ、乾いた血が染みている袖で口元を拭う。なんでとかどうしてとかどうやってとか、今はそんなことどうだっていい気分だった。壁際に目を向けた。今にも死にそうな男が虚な目で私とクロロを見ている。その唇は私の血で赤く染まったままだ。きっと口の中も。それから、喉も胃も。
「死んで」
 私の言葉を聞いたクロロは、絶命した男を一瞥してから私の手を取った。そこでようやく自分の手首を見る。傷に傷を重ねられて、思っていた以上にひどい有様だった。痕が残るだろうな。初めて自分の意思で人を殺したというのに、特別な感情はひとつも浮かばなかった。強いていうならちょっとだけスッキリした。三年もこの男と一緒にいたせいでどこかおかしくなったのかもしれない。考えていたらあの男の舌の感触を思い出して、服の裾でゴシゴシと傷を拭う。かたまりかけていた表面の血が取れて、また切り傷だらけの肌の奥から血が滲み始めた。クロロがなにをやってるんだと変な目で見てくる。
「自分に薬は効かないのか?」
「……たぶん」
 手首から滴り落ちる血を指で掬ったクロロは、その指を私の口の中に押し込んだ。鉄くさい。
「んん」
 唸りながら視線で抗議するも、それを無視してクロロの指が舌に押し付けられる。吐きそうになるからやめてほしい。クロロはようやく指を引き抜いて、じっと私を見下ろした。促されている。
「……もとどおりに、して」
 なにも起こらない。自分だけが対象だと反応しないルールは、あの遠隔移動のルールと同じらしい。なんとなく分かってはいたから驚きはしなかった。
 血が足りない。自分の足元の血溜まりを力無く見下ろす。あのワイングラスに三百ミリリットルくらいはあっただろうか。合わせたら一リットル近くは出ていそうだ。もしかしたらこのまま死ぬのかもしれない。寒気にぶるりと体を震わせると、クロロが黙って私の体にコートを巻きつけてから抱き上げた。目の前に曝け出されたクロロの首元があたたかい。クロロの方が体温高いとか、いよいよ危ないな。燃え盛る炎の熱気でさえ、今は心地いい。
「面倒をかけるな」
 怒られると思っていた。この人に情なんてあったんだ。向けてる相手が私だということを忘れているのかもしれない。調子が狂う。煙を吸わせないようにか、クロロの手が私の頭を首元に押し付ける。あの匂いだ。冷たい頬に触れる肌のぬくもりに、途端に眠気が襲ってくる。
「寝るなよ。死ぬぞ」
 それならそんなに穏やかで、気が遠くなるようなやさしい声色で話しかけないでほしい。


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