- ナノ -



ぜんぶ忘れさせて



 屋敷の中はいつも湿っぽい空気が漂っていた。一族を象徴するかのような目に痛い赤がそこらじゅうで主張しあっている。私はそれが大嫌いだった。
「なまえ様」
「やだ」
 乾いた唇の端は口を開くと皮が裂けてじりじり痛む。窓の外は何時間も前から暗く、近くの森に棲む夜鳥たちが低く唸るような鳴き声を上げていた。貼り付けたような笑みをわざとらしく困ったように歪めながら、使用人の男は手に持った小さなナイフを私の肌に近づける。
「今日はこれで最後ですから」
「もうやだ!」
 男の手を払う。私の手はまだ果物を掴めるかどうかもわからないほど小さい。子どもの力で思い切り振り払ったって、男の手からナイフが離れるはずもなかった。立ち上がって駆けだそうとした手首を強く掴まれて、まだ固まり切っていない傷口が叫びたくなるほど痛んだ。止まっていた涙がぼろぼろとこぼれる。
「大丈夫ですよ、これが終わったら当主様に治していただきましょう」
「やだ! やだよ! おじいちゃん!!」
 冷たい金属が触れる。肌に刃がゆっくりと食い込む感覚は私の中に染みのようにこびりついてしまって、もう忘れたくても忘れられない。あの家の人間は、人間の形をした化け物と同じだった。


 頬に当てられた冷たい手から流れる馴染みのあるオーラに、詰まっていた息を吐き出す。悪夢から覚めた瞬間の頭が冷える感覚は、いつまで経っても慣れない。
「ごめん……」
 ついに前の悪夢から二週間を切ってしまった。よりにもよって嫌な悪夢を携えて。いつにもまして重たい瞼をゆっくり持ち上げると、私を見下ろすクロロと視線が絡んだ。あの夜以降、クロロの目をちゃんと見るのは初めてだった。あの出来事さえも夢だったかのように、目の前にいるクロロはいつもと変わらない。意識していたこっちが馬鹿みたいだ。
 不意にクロロの手が伸びてきて、私の目尻を拭う。その指先が月明かりに僅かに反射していて、驚いて自分の目元に手を当てた。指先が濡れる。悪夢を見て涙が出るのは初めてだった。夢の中の光景が昔の記憶そのままで、あの頃の私の感情をそのまま引っ張ってきてしまったのかもしれない。
「明日は隕石でも降ってくるのか?」
 真顔でそんなことを言うクロロがおかしくて、素直に頬を緩める。冗談とは言い切れないのがこの呪いの恐ろしいところだった。
「そうしたら、私とクロロだけで逃げちゃおうか」
 クロロの目が私を見下ろしたまま、僅かに見張る。「どこへ?」クロロにしてはやけに純粋な質問だった。少し悩んで、隕石から逃げる姿を想像して、またちょっと笑えた。ひとりじゃなければ、それがクロロとなら、なんだってできる気がした。
「どこへでも」
 少しの沈黙の後、ベッドに手をついたクロロがカーテンの隙間から差し込む月明かりを遮って、私に影をつくった。こめかみを撫でて、耳に触れて、頬が包まれる。私と絡んだ視線は外さないまま。触れる手がいちいちやさしくて、それだけで頭がくらくらするのに。
「魔が刺すの?」
 クロロを正気に戻してやろうと思って言ったのに、クロロは平気な顔をして「ああ」と答えた。墓穴を掘った気分だった。言い返す言葉が見つからなくて口籠る私の瞼に、クロロの唇が触れる。私ばかり心臓を跳ねさせているのがたまらなく悔しい。
「最近へんだよ」
「そう見えるか」
「すごく」
「そうか」
 自分のことじゃないように適当な返事をしたクロロを見上げる。お互いの息がかかる距離にいるせいで、暗闇の中でもクロロの目に映る自分がはっきりと見えた。静かな夜だった。お互いの呼吸の音と、シーツの擦れる音だけが聞こえる。
「確かにおかしくなったのかもな」
 クロロの前髪が私の額をくすぐった。心臓の鼓動がどれだけうるさくても、火照った頭で浮かされても、今度は自分の意思で逃げなかった。


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