- ナノ -



風の往く先



 パドキアの気候は思っていたよりもずっと穏やかだった。ときどき風が強く吹く日があるけど、そのせいか少し離れた山あいでは風車での発電が盛んらしく、晴れた日は遠くで羽がくるくると回っている様子がよく見える。
 つい数日前に移動してきたばかりのこの家は、前のそこそこ高さのある小綺麗なマンションと違い少し古ぼけたマンションの一室だった。それでも周辺の環境の違いか、前の家よりも好きになれそうな予感がしている。ぼうっと窓の外を眺めていると玄関が開く音が聞こえた。クロロがシャルを連れてきたのかと思ったのに、シャルの姿しか見えない。
「新しい家はどう?」
「結構好きかも。前より自然豊かだし、街の人も穏やかな気がする。クロロは?」
「少し用を片付けてくるって。先に話してていいって言われたから進めてよっか」
 本当はクロロの姿がないことに少しだけほっとしていた。あの夜からわざとかわからないけどクロロとはほとんどすれ違いの生活が続いていて、ときどき顔を合わせることがあってもクロロの目を見れなくなってしまっていた。
「なまえ? どうしたの?」
「あ、ううん。結局どうなったの?」
 クロロがシャルを呼んだのは私の今後についての対策会議のためだった。会議といっても名ばかりで、私はすでに決めたことをただ聞くだけ。一度流れた情報はもう取り返せないし、二度と無かったことにはできない。前にシャルが言っていたことを思い出す。
「まず前提として、なまえはもう死んでるってことにする」
「そんなことできるの?」
「幸いこの間のビルは爆発してるし。前に誘拐した奴らがオークションに空出品してたみたいで落札したやつがカンカンらしいんだよね」
「あ、なんか言ってた気がする。十ミリリットル五百万からとかなんとか」
「そう。最終は五千七百万まで上がってるけど」
「ご、ごせん……」
 思わず自分の体に視線を落とす。億万長者も夢じゃないな。この間流れた血がものすごくもったいなく思えてきた。あれだけで億はいけたんじゃないか。
「だから死んだあいつらのフリをして、事故でなまえが死ぬ前に取っていた分ってことにしてそいつらに渡したらどうかな?」
「それなら誤魔化せるの?」
「多分ね。執念深いやつはどうか分からないけど、大抵の人間は死んだ人間より確実にある物品の方がいいだろうし。特に今回は手に入れるなら最後のチャンスって思ってるだろうから。あとは勝手に取り合ってくれるんじゃない?」
「そういうものなんだ。なんか……やだね……死体に群がる虫みたいで……」
 想像して思わず顔を歪める。あんな目にあっておいて未だにあんまり自覚がない。私以外が使えるわけでもないこんな血になんの価値があるというのだろうか。
「ということで」
 笑顔を浮かべているシャルの手に握られた注射器を見て固まった。嫌な予感に咄嗟に立ち上がると、逃がさないとでもいうように素早く腕を捕まえられる。
「え、抜くの? 私から? それで?」
「他に方法なくない?」
「だって偽物の血でも用意するのかと……!」
「いや〜流石にねえ、バレたら今より面倒なことになるし。ほら、動くと危ないよ」
「無理、待って、無理!!」
 掴まれた腕に今にも針を刺そうとするシャルに必死で抵抗する。そもそも絶対医療資格なんて持ってない。それなのに人の体に針を刺すなんて言語道断だ。「ええ? こんな小さい針なのに?」と呆れた視線を向けてくるシャルに断固として首を振り続ける。
「……あ、じゃあとってる間は意識落としておいてあげようか?」
「それは……暴力とかで?」
「そんなわけないでしょ。オレの念」
「え! 念ってそんなこともできるの?」
 ほんとになんでもできちゃうんだ。意識がないうちに片付くならそっちの方が断然いい。頷いた私にシャルは「じゃあ決まり」と笑顔を見せ、椅子に座りなおした私の背中側に回って髪を肩に流した。曝け出された頸にシャルの手が触れる。
「まあどっちにしろチクっとはするんだけど」
 言葉の意味を理解するよりも早く、首筋に何かが刺さった痛みが身体中を貫いた。



「……何してるんだ」
「あ、おかえり。ちょうどよかった」
 ぐったりと倒れ込んだなまえを寸でのところで支えたような格好のまま、シャルナークはクロロに笑顔を向ける。なまえを抱え直したシャルナークはすぐそばのソファになまえを寝かせた。
「これで暴れる心配はなくなったよ」
「あとで絶対うるさいぞ」
「一応同意済みなんだけど……」
 今のうちに、とシャルナークはテーブルに転がっていた注射器をクロロに押し付けた。特に文句も溢さず引き受けたクロロはなまえの服の袖を捲る。そこにあの時の傷痕はもうない。体質か引きこもりが故か、日に焼けてない真っ白な肌に重なるいくつもの線状の切り傷。同じ場所を抉るように何度も切り付けられた痕が腕中に広がっていたことを思い出して、クロロは僅かに眉を寄せた。
 傷のない細腕を指でなぞって血管を探す。注射器の先端を軽く火で炙り、そのやわらかい肌に針の先端を埋めていく。きっちり十ミリリットル。針を抜いた肌から小さく浮かんだ血の雫を押さえるようにガーゼを押し当てた。
「よし、これでおしまいだね。もう起こしていい?」
「ああ」
 シャルナークがなまえの頸からアンテナを抜く。数秒もしないうちに、わずかに青い顔をしたなまえがゆっくりと目を覚ました。重たそうな瞼が何度か開いては閉じ、ようやくなまえの手にガーゼを当てたままのクロロの存在に気づいた。クロロとなまえの視線が絡んだ瞬間、なまえの瞳が大きく見開かれる。記憶にこびりついているあの夜のクロロの双眸と重なった。
「う、わっ!?」
 突然叫びながら両手を上げたなまえに、シャルナークは呆気に取られた。一拍の後、なまえは赤くなった頬のままハッとした様子でクロロの手にある血の滲んだガーゼを見た。そうだ。さっき、シャルに念をかけてもらって、それから。なまえは自分の腕に掠れた血の跡を見つけて、一気に思考が巡るのを感じた。
「ごめ……トイレ行ってくる!」
 机の足にぶつかりながら早足で扉の向こうに消えていったなまえの背中を黙って見送ったシャルナークは、いつの間にかコーヒーを飲んでいるクロロに視線を向けた。それに気づいているはずなのになにも言わないクロロに対し、シャルナークは「何かあったでしょ」と確信を得たような声で言う。クロロは変わらず黙ったままなにも反応を示さない。それでも長年の付き合いがある。シャルナークはちぇ、と背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。
 前触れもなく、なまえが消えていった扉の向こうでなにかが倒れるような鈍い音がした。クロロとシャルナークは揃って顔を見合わせる。早足で向かったシャルナークが扉を開けると、洗面台に凭れて蹲っているなまえの姿があった。顔を上げることすらできないのか、ぴくりとも動かず「ぎもぢわるい……」と呻くような声だけが聞こえる。
「あーあ、血抜いたのにあんなに動くから……歩ける?」
「たぶん……少ししたら……」
 ついさっきまで赤らんでいたはずの顔色が青白い。身じろぎもできない様子のなまえに、シャルナークは手を貸そうとした。それよりも一歩早く、クロロがへたりこむなまえの体を抱え上げる。力の入っていないなまえの頭がクロロの肩口に凭れた。
「うっ……あんま揺らさないで、はきそう」
「落とすぞ」
「今だけはぜったいやめて……」
 クロロの手によってベッドにゆっくりと寝かされたなまえはぐったりとしていた。シャルナークがなまえの頬にかかる髪を払ってやると、なまえは苦しげに眉を寄せたまま視線でその手を辿った。
「ま、あとは任せて。適当にやっておくよ」
「うん……いつもありがとう」
 色の薄くなった唇で無理矢理笑顔を作ったなまえの頭をくしゃくしゃと撫でてから、シャルナークは二人の家を後にした。駅までの道を歩きながら、クロロとなまえの二人の様子を思い返して、思わずため息が溢れる。あんな顔見せられたら引くしかないじゃん。今回は勝ち目があるかと思ったのに完敗だ。
「ずるいよなぁ」
 溢れたシャルナークのひとりごとは、パドキアの乾いた強風に煽られて遠くに消えていった。


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