「場所はわかった。戻るぞ」
「はい」


伊地知が到着するまで待機となった2人は外に出るために来た道を戻るように歩き始めた。その時・・・・


「伏黒さんっ!」
「っ!」


突然大きな声で名無しが伏黒の名を呼んだのと同時に伏黒の体は強い力で後ろに押された。伏黒は後ろに体が倒れていく中、呪具を放り投げて自分のことを突き飛ばした名無しが壁から現れた、直径2mほどの大きさの呪霊に丸呑みされる光景を見て目を見開いた。


「名無し!」


すぐに飲み込まれた名無しに手を伸ばしたが、球体の呪霊に一口で丸呑みされた名無しの体は少しも視界に入ってこなかった。すぐに体を動かさなければいけないのはわかっているが、目の前で起きた光景があまりにもショックで伏黒の体は一瞬止まった。
名無しを食べた呪霊は、ぶるっと球体の体を震わせると、同じ大きさの黒い玉が呪霊の横に現れた。それを見てすぐに冷静さを取り戻した伏黒は手を構えて、玉犬【黒】も召喚した。


「喰っていいぞ!」


伏黒の命令を聞いた2体は一斉に呪霊に襲いかかった。しかし、玉犬の牙が呪霊の届く直前、呪霊の口から濃い緑色の煙が吐き出された。伏黒は、げほっ。と噎せ、視界が悪くなる中目の前にいるはずの呪霊を確認すると、呪霊はどこかに消えていた。
くぅ〜と、か細く鳴く声が聞こえ呪霊と自分の間にいるはずの玉犬に視線を向けると、何故か2体とも体を伏せて鼻を押さえていた。建物の中を歩いている時から玉犬の様子がどうもおかしいと思っていたが、やはりあの煙のせいなのだろう。と伏黒は確信した。人間の自分にとっては噎せるほどの効果しかない少し匂いがするだけの煙だが、鼻が利く動物からするとまともに動けなくなるほどなのだろう。建物中に同じような緑色の呪いの空気が充満しているせいで玉犬の鼻が利かなくなり、呪霊の存在にも気づけなかった。このままでは、呪霊の探索には玉犬は使えない。と、伏黒は一度玉犬を戻した。
さっきの呪霊は恐らく2級の下の下か、3級だ。そして、食べられた名無しは呪霊の横に現れた黒い球体の中にいるのだろう。と伏黒は予想した。そのレベルの呪霊ならば、建物中に流れている緑色の空気がアイツの術式だとするなら、足し引きの法則で考えると、攻撃力は相当弱いか皆無のどちらかだろう。その証拠にさっきの男の体はどこも損傷していなかった。普通の人間ならそれでも即死かもしれないが、呪術師なら1発攻撃が当たったとしても即死することはないだろう。後は、この中にいる呪霊があの一体だけであることを願うだけだった。頼むから俺が見つけるまで持ちこたえてくれ。と伏黒は名無しの呪術師としての能力に頼るしかなかった。
あの一瞬で一体どこに消えた。壁をすり抜けられたということは、建物の上にも下にも行けるだろう。一刻も早く探さなければいけないのに、探す範囲は広そうだ・・・・。と、ため息をついた瞬間、緑色の空気が覆い隠す中、視界の端に黒い何かがいた気がした。いた。あの呪霊だ!とすぐに伏黒が走って追いかけると、呪霊は伏黒を見ながら逃げ始めた。しかし、その横には恐らく名無しが入っているであろう球体がいなかった。


「くそっ!名無しをどこにやった!」


焦る気持ちを抑えきれず、呪霊に向かって大声で叫んだが、呪霊はその様子を面白がるように伏黒のスピードに合わせて逃げ続けた。


「舐めやがって、『蝦蟇』!動きを止めろ!」


呪霊の動きを止めるために蝦蟇を召喚し、拘束した後玉犬に喰わせよう。さっき煙が出てきた箇所を蝦蟇の舌で覆いながら拘束すれば、玉犬にあの緑色の煙が直接当たることはない。と考えた。伏黒の命令を聞いた蝦蟇は呪霊を拘束するために舌を長く伸ばした。しかし・・・・その舌が届く瞬間、ぶわっ!とまたあの濃い緑色の煙が呪霊の口から吐き出された。


「げほっ!」


伏黒はまたその煙を吸ってしまい噎せたが、玉犬と違い蝦蟇の嗅覚は敏感ではない。恐らくあの煙を吸ったとしても大丈夫だろう。と前を向くと、何も掴んでいない舌が蝦蟇の口の中に戻ってきていた。


「くそっ!」


またあの煙を出して逃げられた。今度はどこに消えた。と、さっきまで呪霊がいた場所にある煙を払うように片手を振った。せめて窓さえあればこの煙をどうにかすることができるのに。と伏黒は頭を悩ませた。でも、この建物の中にいる呪霊があの一体だけなら、あの呪霊を追い続ける限りは名無しに攻撃されることはないし、もしかすると、見つけることもできるかもしれない。と、一歩踏み出した瞬間、ふと、さっきの男の死体を思い出した。恐らく外にいる自分たちに助けを求めた時に呪霊に襲われたのだろう。だけど、あの死体はどこも損傷しておらず綺麗だった。なぜだ?脈を確認したが確実に止まっていた。なんだこの違和感は・・・・。と冷静に考えていると、ある考えに辿り着いた。あれは、窒息死だ。あの球体の中には空気がなく、中に入れられたものは呼吸ができず死を迎えるのだ。と。その考えに辿り着いた瞬間、血の気が引いた。早く名無しを見つけてあの中から出さなければ確実に死ぬ。


「名無し!どこだ!」


咄嗟に大声で名前を叫んだが、返事はなかった。伏黒の仮説通り、もし球体の中に空気がないのならば声を出して叫ぶことはできないだろう。そうだ、名無しの携帯電話に電話をかけて着信音を鳴らせば。と、考えた瞬間、数時間前に地面に落として壊れたことを思い出した。全ての手が塞がれた。あとは、運任せで見つけるしかない。建物は1階から4階まである。部屋数もかなりある。その中からピンポイントで見つけ出さなければいけない。せめて、どこの階にいるかさえわかれば・・・・人間が窒息死するまでは約5分。今何分経過した?後何分ある?早く見つけなければアイツが死ぬ。鵺や大蛇を召喚して建物ごと破壊するか?いや、1階にいればそれこそ下敷きになって死ぬ。焦りが襲い伏黒の思考をにぶらせた。一体どうすればいい。と考えをまとめるために一度目を閉じた瞬間、ピピピピピ。というけたたましい電子音がかすかに遠くから聞えてきた。


「名無しか?」


これが一体何の音なのかはわからないが時間がない以上その音にかけるしかなかった。
上から聞えてくるその音に従い、階段を登って4階に到着すると音が段々大きく聞えてきた。音の出所である部屋を開くと、一層大きな音が鳴り響きその部屋の真ん中に黒い球体があった・・・・。


「名無し!」


すぐにその球体に駆け寄った伏黒は玉犬を召喚し、球体に穴を開けるとそこから名無しの体がずるっ。と地面に落ちた。やはり球体の中は空気がなかったようで、外に出られた名無しは、一生懸命空気を体の中に取り込もうと、荒い呼吸を繰り返した。


「名無し!大丈夫か?!」


名無しの顔の前にしゃがんだ伏黒は、名無しの頬に手を添えながら安否を確認した。


「大丈夫・・・・です。見つけてくれてありがとうございます」


名無しは汗で濡れた髪が張り付いた顔で笑顔を作った。その手には未だにけたたましい電子音が流れている携帯電話が握り締められており、伏黒は、壊れているはずの携帯電話から何故?と疑問に思っていると。


「やっぱり何かあった時に安心でした」


名無しは携帯電話を握っている手と反対の手の指にひっかけているリングが先端について紐を伏黒に見せた。このけたたましい電子音の正体は防犯ブザーだった。それを見た伏黒はほっとため息をついた。


「お前、もう二度とあんな無茶するな」
「すみません。出過ぎた真似をしました」
「そうじゃねぇよ。・・・・お前が死ぬかと思ってすげぇ焦った」
「すみません」
「いや、いい。その代わりもう二度とするな」
「はい」
「立ち上がれるか?」
「はい」


ようやく体を起こした名無しの手を掴んだ伏黒はぐっと上に体をひっぱりあげた。


「呪霊はどうなりましたか?」
「まだ祓えてねぇ。呪霊の等級は恐らく2級の下の下か3級程度だが、ただ俺の術式と相性が悪くて正直少し苦戦してる。隠れたり逃げたりすることに特化した術式らしく、口から出す緑の煙のせいで玉犬が攻撃できねぇし、蝦蟇が拘束する前に壁をすり抜けて逃げられる」
「蝦蟇?」
「あぁ、蛙の式神だ。舌で呪霊を拘束できる」
「なるほど。この建物窓が少ないですし、煙をどうにかするのは大変そうですね」
「あぁ。建物ごと壊すこともできるが、建物が古すぎて構造上どこまで一緒に崩れるかがわからねぇし・・・・玉犬の攻撃で建物中の壁に穴あけて煙を外に出したとしても、恐らくすぐにまた煙を吐かれて同じことになる」
「逆に言えば、呪霊を外に出せば祓えるということですね」
「あぁ、そうだな」


伏黒の返答を聞いて、何か考えるようにずっと顎に片手を添えていた名無しは、突然思いついたように口を開いた。


「伏黒さん、外に出す作業は私にまかせていただけませんか?」
「お前に?できるのか?」
「はい。私の術式なら恐らく・・・・今日ならできると思います」


名無しの言葉を聞いて、今日なら。の部分に疑問を持ったが、名無しの術式が何かをまだ知らない伏黒は、上手くいくかどうかはわからないがとりあえず名無しの提案に乗ることにした。伏黒が名無しから頼まれたことは一つ。呪霊を攻撃せずただ追いかけて欲しい。ということのみ。それだけで本当にいいのか?と疑問に思ったが、名無しの術式がまだわからない以上その指示に従った。先ほどの動きから、壁沿いに配置されている部屋には一切入らず、通路だけを移動していることはわかっている。見つけて追いかけるだけなら容易いだろう。だが、その間名無しを一人にしても大丈夫だろうか?と伏黒は心配だったが、名無しは「大丈夫です」と伏黒に伝えた。

伏黒は、呪霊を見つけるために2階まで降りると、緑色の空気の中、黒い物体を発見した。いた。と、すぐに伏黒は呪霊を走って追いかけると、先ほどと同じように呪霊は伏黒のことを見たまま逃げ始めた。こちらが攻撃さえしなければあの濃い緑色の煙は出さないようなので、伏黒は名無しに言われた通りただただ呪霊を追いかけて走り続けた。


「くそっ!いつまで追いかけりゃいいんだ」


無駄に広い廊下を走るだけではなく、階段を下がったり、上がったりしているため、伏黒の足は結構な疲れを感じていた。呪霊を追ったまま3階まで戻るとさっきまで4階にいた名無しが廊下に立っていた。


「名無し!」
「伏黒さん、後は任せてください!」


そう言って名無しは呪具を握った手を上に持ち上げた。恐らく鈴の音で動きを止めるのだろう。そこまでは伏黒も見たことがある光景だった。案の定鈴の音を聞いた呪霊は動きを止めた。すると、名無しは呪霊の向かって決して速いとは言えない足取りで走って向かっていった。呪霊の目の前に来る直前に呪具を両手で握り右に振り上げて呪具で殴る動作をした。それを見て伏黒はあることに気づいて止めた。


「待て、名無し!この奥の壁は3枚ある!お前の力じゃ全部を破って外には出せない!」


さっきまで3階を走り回っていた伏黒は、呪霊の横にある壁が外まで3枚あることを知っているが、ずっと球体の中で4階の一室にいた名無しはそのことを知らない。今まで見てきた名無しの力では、頑張って1枚の壁までなら壊すことはできるだろう。術式を使ったとしても恐らく2枚までだ。3枚となると壁を破壊しきれず反撃で濃い緑の煙をくらうことになる。と伏黒は慌てて名無しを止めた。しかし・・・・


「今日は大丈夫です」
「は?」
「お月様が味方をしてくれます」


心配をする伏黒に向かって名無しが笑顔を向けると、伏黒はその表情を見て目を見開いた。日も完全に落ちて建物の中がほとんど暗闇に包まれる中、ギリギリ人が一人通れるぐらい小さな窓から差し込んだ光が名無しの姿を明るく照らした。


「朔望天恵術(さくぼうてんけいじゅつ)『月魄蒼天(げっぱくそうてん)』!」


名無しは呪具を両手で握り締めて振りかざした腕を呪霊に向かって思い切り振り下ろした。その瞬間、バコーンッ!と強烈な破壊音が聞こえ、建物中に広がっていた緑色の空気が名無しの周りから一瞬にして消えた。呪具を当てられた呪霊は、悲痛な悲鳴をあげながら壁3枚を突き破り外へと放り出され消滅した。前回一緒に任務に行った時や、いつもの名無しからは想像できないその凄まじい力に伏黒は驚き目を見開いた。
呪霊に当てた時の衝撃に耐え切れず手から離れた呪具は、少し離れた所まで吹き飛んでいた。そして、未だに呪力のコントロールを上手くできない名無しは呪力で体を守ることができずその衝撃を直接体に受けたため、激痛に体が耐え切れずその場に膝から崩れ落ちた。


「名無し!」


伏黒は慌てて名無しに駆け寄り、床に倒れかけていた名無しの体を抱きとめた。


「大丈夫か?!」
「はい。なんとか・・・・呪霊は追わなくて大丈夫でしょうか?」
「あぁ、お前の攻撃だけで祓えた」
「そうですか。術式を初めて使ったので、どれぐらいの威力か自分でもわからなくて」


名無しの両肩を掴んでいる伏黒の手には衝撃の余韻がまだ残っているの、ブルブルと小さな震えが伝わってきた。


「お前の術式あんなに威力がすごいのか」
「名無し家の術式、朔望天恵術は、月の満ち欠けによって力を増幅させる術式です。通常の力×何倍。という風に掛け算の法則で力を増幅させます。ざっくりですが、新月を1。満月を15。として計算します。新月に近ければ近くなるほど倍増する力は弱くなり、逆に満月に近ければ近くなるほど倍増する力は強くなります」


名無しのその言葉を聞いて伏黒はこの建物に入る前に見た空を思い出した。


「今日は満月です。あれが今出せる私の最大出力の力です」
「すげぇ術式じゃねぇか。上手く使えるようになればすぐに1級にでもなれるんじゃねぇか?」
「ただ、この術式は限定的で、月が出てる時間にしか使用できないのと、雨の日や雪の日みたいな空が完全に隠れている時には使用できません。曇りの日は増幅する力が弱くはなりますが、かろうじて使用できます。そういう少し使い勝手が悪い術式なんです」
「発動条件の縛りによる術式か。たしかに、それだと時間も天候も限られてくるってわけだな」
「はい。でも・・・・」
「?」
「・・・・いえ、なんでもありません」
「そうか」


名無しが明らかに何か言いかけてやめたが。伏黒はそのことを深く追求しなかった。
建物に入る前は陽が沈みかけていたが、今はもうすっかり陽が落ち破壊された壁の外は暗くなっていた。伏黒は携帯電話が振動するのを感じ手にとるとちょうど伊地知から着信が入っていた。電話に出ると開口一番に壁がすごい勢いで破壊されたことと呪霊が祓われたことについて聞かれた伏黒はこの建物で起きたことを大まかに説明した。呪霊に殺された人間についても名無しが近くにいることもありオブラートに包みながら説明すると、何か察した伊地知はそのことにすぐに気づいて。「大丈夫です。わかりました」と伏黒の言葉を止めた。さすが伊知地さんだ。と、感心しながら電話を切ると、さっきまで近くにいたはずの名無し姿が見えないことに気がついた。一体どこへ行ったんだ?と、「名無し」と声を呼びながら歩けば、その姿は思ったよりも近くで見つけた。
ある一室の中で膝を床につけてしゃがみこんでいる名無しに近づいた時、伏黒は気がついた。この部屋に戻ってきてしまったのか。と。確実にその姿を見てしまった名無しになんて声をかけていいかわからず、伏黒は言葉を詰まらせた。そんな伏黒に振り向くことなく名無しは声をかけた。


「伏黒さん・・・・。人の死は慣れた方がいいのでしょうか?」


名無しは思ったことをそのまま口に出すような人間でも、人の気持ちがわからない人間でもない。嘆きの言葉は伏黒も傷付けてしまうことをちゃんとわかっている。だからこそ、この言葉を口にした。


「わかんねぇよ」


そんなのわからない。伏黒は心から思った。悪人ならともかくたとえ知らない人の死であっても見てしまえば少なからず心に痛みを負う。その痛みを負わないためには慣れる。というのが一番適していると思う。だけどそれは人間らしさからはかけ離れる気がした。人の死に遭遇する確率が極めて高い呪術師として人の死に慣れることがいいか。と聞かれれば、そうだ。と答える。だが、人間として聞かれれば、違う。と答える。いや、そう答えたい。と伏黒は思った。


「私、もっと強くなります。たくさんの人を一人でも多く救えるように」
「あぁ」


窓から入ってきた光に照らされる名無しと、暗闇の中に佇む伏黒は、互いに違う理由で強くなりたい。と心から思った。




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