5e
本番当日。衣装に袖を通した『ワタカル』たちは、舞台袖に移動している最中であった。登良を中心に据えたライブ。ということで、緊張した面持ちでライブ会場に向かう足はだんだん重たくなってきている気がして、胃がキリキリしてきた。自分の胃を撫でながら視線は落ちて、息は吸えているのか吐けているのかと自覚すら薄くなってきた。みかが登良の様子を見て、そわそわしてそれが伝播し創も緊張した面持ちで合ったが、奏汰はお客は魚だからという論調で話し出した。そんな話に耳を傾けていると小さなときの記憶がふと顔を覗き込んだ。
「とらはものしりですね。これからも、いろいろとおしえてください」
「俺と一緒にいるからな!」
どうしてこういう話になっているのかも、よくわからない。これがいつの記憶だったのかもよくはわからない。はっきり覚えてないのだから、事件以前になるのだろうか。とりとめのない思考を広げていると、肩を叩かれて我に返った。
「登良ちん。」
「に〜ちゃん。」
「友ちゃんもオレも見に来たんだぜ!」
「友也、光!!」
現状の胃の痛みよりも、顔見知りに会えたことに嬉しさが勝った。創の手を掴んでそっちに寄ると、なずなが呆れて笑ってた。
「登良ちんも創ちんももうすぐはじまるんだろう?」
「今、とっても胃が痛かったんですけど。友也と光とに〜ちゃんが見に来てくれるのがうれしくて。」
「お前は、ほんとそういうの。改めたほうがいいぞ?」
「……?どうして?」
「登良ちゃんの笑顔がかわいいんだって!」
「こら光!」
「顔が赤いですよ。友也くん。」
「創、お前まで!」
いつもと変わらないやり取りがうれしくなって、顔をくしゃくしゃになるようなほどの笑顔になって、先ほどまでの頭を抱えたくなるほどの胃痛もすっかり吹き飛んで行って、みんなが見守ってくれるなら安心して舞台に立てると登良は笑う。そんな様子に創も嬉しそうにうなずいていると、みかが呼び戻しにきたので、創と登良は行ってきます!と声を出して、二人で奏汰とみかのもとに合流する。
「ふたりともはじまりますよ〜。」
「はい、お待たせしました。」
「登良くん、うれしそうやな。」
「みなさんがいますから。」
「じゃあ。リーダーの登良くんから一言もらっていきましょう!」
「え!?俺!?」
いきなり創から振られたキラーパスに驚きを隠せないでいると、みかが創の援護射撃をする。ちらりと奏汰を盗み見たがわらったままなので、多勢に無勢なんて思い登良はため息をついてから周りを見た。期待に満ちた目が見ていて、一瞬怖気ついていると、奏汰が登良の肩に手を置いた。衣装越しの体温が頑張れと言っているように思えて、一度笑ってから言葉を発した。
もうすぐライブが始まりますし、練習通りにやれば問題ないです。今も練習だと思いましょう。僕たちという海はお客様に会わせて初めて、『ワタカル』になるんです。さぁ、行きましょう。僕たちは母なる海。僕たちはすべて海でつながってます。僕たちがつながってこそ、音が始まってあふれて海になって、ようやくお客様は海に会うんです。今が最高の練習の時間。
「登良くん、緊張してるんやね。僕言うてるし。」
「兄のような心臓を持ってない小心者なので。」
「それでも、とらはとらなりのあゆみかたをしますから、しんぱいしなくていいんですよ。」
「今回、いっぱい頑張りましたもんね。登良くん。」
「創、ありがとう。今回は助かったよ。ほら、行こう!」
アナウンスの声が聞こえて、登良は恥寝も手を引いて歩く。先頭を登良創ときて奏汰みかとならび入る。幕も緞帳もない舞台なので、上がったと同時に拍手が聞こえる。けれども、緊張して心臓の音のほうが大きく聞こえる。
登壇後の一言はリーダーと指示を受けているので、登良はスンと肺に酸素を取り込んでからこんにちは!と挨拶をかけて、簡単に話を進めて楽曲紹介に入って始める。詰め込んで覚えた会話を広げてから改めてマイクを握り直して、息を胸いっぱいに吸い込む。最初からの歌いだしは登良なので、全員とアイコンタクトをしてからタイミングを合わせた。
繊細な歌いだしから始まって、盛大になっていく歌は、海の満ち引きに似ている気がする。そんなことが一瞬脳裏に浮かんできたが、すぐに消して左右のみかと創の音を聞来ながら歌えば、奏汰が走りだしそうなのでそちらに沿わせていくと、みかが慌てるので登良はみかを見つめる。綺麗な双眸の異なった色たちと視線が重なる。落ち着けとか言わんばかりに登良がリズムに合わせて体を揺らすとそれにつられてみかの声もリズムも戻る。ふと視線をメンバーから客席に向けるとなずなと兄の姿がそこから離れたところに零も宗も見えた。満足そうに頷いている。
どこかみんなで会場で一つになる感覚を覚えながら、登良は笑み、淡く揺れる人の手を見ながら、高く一つの音を放った。澄んで高い音は、どこまでも街の中を響く。未だに声変わりすら訪れる気配のない歌声は、ほかの三人の歌声に溶けるように消えていった。
海の音なんて入っていないのに、どこか海が聞こえてきそうな歌は聴客たちを見せていく。どこか深いところに引っ張られていく感覚を持ちながら、楽曲は終わりを迎えた。しんとした沈黙のあと歓声が湧く。その音の大きさに驚きがぞくりと背中をなでた。
愛でられる喜び、アイドルとしての幸福。これが兄の見ていた世界かと改めて実感していると、呆けているように見えたのか、奏汰が登良の手をとって歩き出した。舞台袖と言われるようなところに引っ込むと、創が心配そうに登良の目の前で手を振った。
「大丈夫ですか?登良くん」
「あぁ、うん。大丈夫。なんだか、ライブってすごいなぁ。って改めて思った。」
「ほな帰るで。登良くん」
「はい、影片先輩。」
まだどこか地に足がつかない多幸感に襲われながら一番うしろを歩く。一回きりのライブで集められたメンバーだったけれども、またみんなでできたらいいな。なんて思いながら控室まで歩き出した。
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