08.おなじ目線で

新入生の入学を祝うように咲いていた桜の花も、4月中旬になれば儚くなってしまう。代わりに主役となった若葉は、その生を主張するように青々と茂っている。ふと吹いたそよ風が、窓の外から新緑の香りを運んできた。その空気を胸いっぱいに吸い込むと何だか気分が爽やかになって、名前は足取りが軽くなるのを感じた。先ほどまで、雑用を頼まれた自分の運のなさを嘆いていたけれど、それが今ではとても小さなことのように思える。

職員室にいる担任に完了の報告をすると、担任は名前にお礼としてお菓子を与えてくれた。次いで、この後職員会議があるようで、完成した資料を社会科準備室に運んでくれないかと申し訳なさそうに頼まれた。この際だと名前は了承する。手の中いっぱいに溢れるお菓子を受け取り、部活の子たちに配ろうかなんて考えながらサブバックに収める。帰りのホームルームから軽く30分は経っているので、さすがに今日の部活だって始まっているだろう。名前は早く参加したい気持ちをそのままに、吹奏楽部の楽器の音が飛び交う放課後の廊下を小走りで駆け抜ける。

名前が1階への階段に差し掛かった時、何やら階下から苛立ちを含んだ声が聞こえてきた。それはちょうど、名前が先ほど訪れた職員室とは反対側のようだった。あまり関わりたくないけれど、少しだけ気になる。名前は好奇心の赴くままに、廊下の角からそっと現場を覗き見た。声の主を発見した名前は、すぐに納得した。声を荒げていたのが教頭だったからだ。教頭は、機嫌が悪いと生徒にあたってくるような人だと、生徒の間では噂だった。名前も、直接怒られたことはないもののそのような場面を何度か目にしたこともあり、あまり教頭のことは信頼していない。先ほど自分を不運と称したけれど、今回標的となった生徒の方がよっぽど不運だろう。名前は理不尽に叱られているであろう生徒に同情して、そのまま社会科準備室に向かおうとした。

「おい、聞いてるのか流川」

しかし、ここ最近よく聞く彼の名前が耳に飛び込んできたことで、思わず立ち止まってしまった。よくよく見てみると、教頭の後ろ姿の向こうで立ち尽くしているのは、確かに、流川だった。いつも通りの冷たい眼差しで、じっと目の前の教頭を見つめている。…いや、些か眉根が寄っているように見える。不快には感じているのだろう。

「校則に書いてあるのに付けてないのか?全く、これだからチヤホヤされて調子に乗ってるやつは…。新入生なのに校則も把握してないのか!今すぐこの場で校章を付けろ、できるまで部活動には参加させん」

どうやら教頭は、流川が校章をつけていないことにいちゃもんをつけているようだった。名前はすっかり呆れてしまった。いい大人が、子どもにあたるなんて恥ずかしくないのだろうか、と。不良も多いこの学校では、校章を付けていない生徒なんて五万といる。寧ろちゃんとつけている名前のような生徒の方が珍しいものだ。繰り返し違反しているのならまだしも、新入生の流川は初めて注意されたことだろう。それに、本当に校章を付けて欲しいのなら、ああやってネチネチガミガミ怒ったりせずに、理由を説明して注意すれば良いだけなのに。極めつけに、「チヤホヤされて調子に乗っている」なんてお門違いな発言、自ら"理不尽に怒っていますよ"と示しているようなものだ。

教頭の発言を聞いた流川は、冷涼な眼差しをさらに鋭くした。ぎゅっと握られた拳に、名前は彼が爆発寸前であることを悟った。きっと、部活に参加できていないことにフラストレーションが溜まっているのだろう。もし我慢の限界を超えたら、流川はきっと教頭に手を出してしまうだろう。そうすれば、流川だけでなくバスケ部も何らかのペナルティを負うに違いない。

名前は、ひとつ小さく息を吐き、覚悟を決めた。そして制服の内ポケットから校章を取り出すと、あたかも今追いかけてきたかのように流川の元へ駆け寄った。

「流川くん!これ落として行ったよ……あ、すみません教頭先生。お話し中でしたか」
「お前は確か…」
「3年1組の苗字です。さっき廊下を歩いている時に、流川くんが校章を落として行ったのが見えて…追いかけてきたんです」
「な、何だと」
「はい、流川くん。もう落とさないようにね」

握られたままの流川の手を開くと、名前はどうにか校章を握らせた。もしここで話を合わせてもらえなければ、名前まで叱られてしまうだろう。こんな時ばかりは、流川の口数の少なさがむしろ好都合だった。
名前はそのまま後ろ手で流川を自身の背後に押しやり、教頭に向き直った。教頭は名前の発言に自身の分の悪さを悟ったのか、先ほどまでの勢いはなくなっている。

「だ、大体お前も話の最中に入ってくるなんて非常識だと思わないのか!?」
「それに関しては申し訳ないです…。私が拾った校章が、ちょうど教頭先生のお話の中心・・になっているようだったので、早く届けた方が良いかと思って…。それと、先ほど職員室に行ったら職員会議が始まりそうでしたけど、教頭先生は参加されないんですか?副校長先生が探されてましたよ」
「ぐっ……おい、おい!そこのお前。次もし校章を付けてなければ、今度こそ部活動はさせんからな」

自分より上の役職を出され、教頭の顔色が変わる。まだまだ言いたいことはあったのだろうが、保身のために諦めたらしい。捨てゼリフを吐いていった教頭の後ろ姿を眺めながら、名前は最後まで小物の悪役のような人だったな、なんてことを考えた。

教頭の姿が完全に見えなくなった後、今まで黙ったままだった流川が、後ろから名前の袖を引いた。

「先輩」
「あ…流川くん、突然割り込んでごめんね。教頭先生、時折ああいうことがあって…。2・3年生は慣れてるんだけど流川くんは知らないよね。何か他に嫌なことされなかった?」
「されてねー」
「そっか…良かった」
「これ」
「え?」

名前が胸を撫で下ろしていると、流川が徐に校章を差し出した。流川の手に収まっていると、随分と小さく見える。どうやら彼は、先ほどの名前の嘘がわかっていたらしい。

「自分の物じゃないってわかってたんだ」
「校章失くしたんで」
「失くした!?」

入学してそう経たないのに、もう失くすなんて…。流川は名前の思っている以上に大物なのかもしれない。名前はくすくすと笑いを溢した。

「ふふ…じゃあ、それあげる。私も2年生の頃に失くしたと思って新しいのを買ったら、次の日に見つかったの」
「…いいんすか」
「うん。どうぞ」
「アザス」

ぺこりと律儀に頭を下げた流川は、直立の姿勢に戻ったかと思うとしばし固まった。その姿を眺めながら、名前は流川がマイペースな性格であることを汲み取った。だからこそ「傍若無人」なんて言われたのかもしれないが。名前が流川の次の言葉を待っていると、ようやく答えが出たのか、流川は名前が抱えていた資料の束を奪い取った。

「え?」
「これ持ちます」
「い、いいよ流川くん!部活あるでしょ?」
「ちゃんと礼しねぇと(部活の)先輩に怒られる」
「怒られちゃうの?」
「ハリセンで」
「ハリセンで!?」

流川の言葉に、名前は彩子がハリセンを持ち流川の頭を勢いよく叩く様子を思い浮かべた。確かに、あの溌剌とした彼女ならやりかねない。それどころか、妙に似合っているような気もする。流川の言い分を無碍にもできず、名前は申し訳なく思いつつも流川を頼ることにした。幸い、社会科準備室はすぐそこにあるので、そこまで負担にはならないだろう。名前が歩き出すと、流川も黙って着いてきた。隣に並んだ流川の横顔は今日も変わらず綺麗で、まつ毛には美しい翳りが見える。名前は入学式の日に流川を知ってから、もう何度も同じことを思ってきた。流川の類稀なる容姿は何ひとつ変わっていないのに、今ではこうして隣に並んで会話をするような関係になっている。

(最初は関わらないでおこうって思ってたのに…いつの間にか関わっちゃってたな)

世話焼きの名前は流川のことを放っておけない――由美の言う通りだった。
程なくして2人は社会科準備室にたどり着き、資料を教室前の棚に置いた。

「流川くん、ありがとうね。助かっちゃった」
「うす」
「これ、先生からもらったんだけど…手伝ってもらったから流川くんもどうぞ」

名前がサブバッグから半分ほどお菓子を掬い上げる。それを受け取った流川は、チャックが開いたままの通学カバンに無造作に突っ込んだ。かと思うと、短く礼を告げてすぐに踵を返して去って行く。その背中を呆気に取られたように眺めていた名前は、はっと我に帰り遠くなる後ろ姿に呼びかけた。

「もし部活に遅れたこと怒られそうになったら、私の手伝いしてたってちゃんと言ってねー!」

返事はなかった。やっぱり一刻でも早く部活に行きたかったらしい。それでも先輩の言いつけを守った流川は、変なところで素直だ。

(あの流川くんだって、先輩に怒られたくないんだ。…そうだよね。だって、みんなと同じ高校生なんだから)

そう気づいた時、名前は気持ちが軽くなるような気がした。胸を満たす新緑の香りが、より一層爽やかに感じられる。流川に感化されたように、名前もいつもより速い歩調で部活に向かったのだった。




今日の部活も無事に終わり、完全下校時刻まであと数分。部活着から制服に着替えた流川を見て、彩子は目を丸くする。

「あれ?流川アンタ…校章失くしたって言ってなかった?」
「貰いました」
「貰ったぁ〜?誰に?」
「先輩」
「先輩?」
「上着の」
「上着の…、え!?名前先輩!?アンタ、また迷惑かけたのォ!?」

アチャー、と頭を抱える彩子を横目に、流川は早々と体育館を後にして帰路を辿る。アップテンポの洋楽を聞き流しながら、涼しい夜風を切る道すがら。ふと、頭に浮かんだ人の顔。流川が知っているどの先輩よりも、柔らかな雰囲気のその人。彼女は流川が困っている時に現れて、いつも助けてくれる。今日だってその華奢な背中で流川を庇ってくれた。流川が彼女を認識したのはつい最近だけれど、今や流川にとって彼女は――絶対的な味方でいてくれる人になっていた。

『ふふ…じゃあ、それあげる』

あの時、小さな口元が綻ぶのを流川は確かに見ていた。それに釣られるかのように、流川の口元には微かに笑みが浮かんでいたけれど、当の本人は気づいていなかった。


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