05.バニラアップルをひと振り

ふと、どこか甘やかで爽やかな匂いが鼻をくすぐったような気がして、流川はぼんやりと意識を浮上させた。薄色の葉が日差しを遮り、木陰はちょうどよい暗さになっている。春は睡眠にとって最高の季節だが、心地良さのあまり少しだけ・・・・眠りすぎたようだ。
いまだ回らない頭のまま体を起こすと、流川の体から何かが滑り落ちる。地面につく前に咄嗟に拾い上げたそれは、見覚えのないカーディガンだった。

「…」

流川は徐に手の中のカーディガンを広げる。同時に甘やかな匂いがふわりと漂った。先ほど感じた好ましい香りの正体は、この服のようだ。それにしても、自分の着ている服よりもずいぶんと小さい。そのサイズから、流川はこの服の持ち主が女生徒であるということは理解したが、肝心の「誰の物であるか」という部分はとんと見当がつかなかった。部活動を除き、社交性を持たない流川が持ち主を特定するのは至難の業だ。そのために労力を費やすより、1秒でも1分でも長くバスケをしていたい…なんてことを流川は思う。

しかし、流川の脳裏にはある日の母親の顔がよぎった。それは中学2年生の時のことだった。流川が友人から借りたカセットテープを長らく放置していることに気がついた母親は、いつもの穏やかさを忘れたように流川を厳しく叱り、お詫びの品を持たせると友人の家に謝罪に行かせたのだ。貸した友人自身はあまり気にしていないようだったが、流川は帰った後に母親から再度釘を刺された。人との貸し借りはきちんとしないとトラブルの元になる。それは子どもだからなど関係ないのだと。
あの日以来、流川は借りた物はきちんと返すようになった。ひとえに、母親の思いが届いたから…というよりも、母親の怒り顔が頭から離れないからではあるが。しかし、きっかけがどうであれ、借り物を放置することに比べると遥かにマシである。

流川はしばし固まり、そのカーディガンを一旦教室に持ち帰ることにした。他にどうしようもなかった。部活カバンの1番上に入れられたそれはかなり異質で、クラスメイトたちは密かに騒ぎ立てた。あの流川が、女子のカーディガンを持って帰ってきたと。中には相手は誰なのかと邪推する者も大勢いたが、誰もその持ち主を特定することはできなかった。流川は誰とも喋らなかったので。
やるべき事を終えて満足した流川は、机に伏せて眠りについた。そうしてそのまま放課後までノンストップで眠り続け、ホームルームが終わるや否やのっそりと起き上がり部活へと向かった。その頃には、流川の頭からカーディガンのことはすっかり抜け落ちてしまっていた。



「おう流川ぁ、早いじゃん!」
「チワス」

流川が部室の扉を開けると、彩子の明るい声が飛んできた。富中の先輩である彼女は、高校に入っても変わらず目をかけてくれている。流川が頼れる数少ない人物のうちのひとりだった。

「ロッカー整理しといたから、今日からここ使いな」
「うす。アザス」

流川はいつも通り着替えようと、部活カバンを地面に置きチャックを開けた。すると、1番に出てきたのはクリーム色のカーディガンだった。固まってしまった流川とは正反対に、彩子は興味津々で問いかける。心なしかにやにやした表情だ。

「なによぉ流川、もう彼女できたってー?」
「違います」
「じゃあ誰のよ」
「知らねー」
「はぁ!?」

驚きの表情に変わった彩子は、流川を問い詰める。どうしようもなかった流川はしぶしぶその経緯を語って聞かせた。話を聞くうちに、彩子は呆れてしまったらしい。授業サボって寝るな、と至極真っ当な答えと共に手刀が飛んできた。

「それにしても、どーすんのよカーディガン」
「ム、」
「最終手段は落とし物ボックスだけど、借りた物はちゃんと直接返した方がイイわよねー」

その手があったかと豆電球を浮かべる流川を尻目に、彩子はカーディガンを広げてタグを確認し始めた。残念ながら記名がなかったようだが、その時ふわりと漂った匂いに彩子の動きが止まる。

「…これ…」
「?」
「もしかして名前先輩のじゃない?」
「誰すか」
「アタシの委員会の先輩。絶対そうよ、先輩のだわ。流川、アンタ明日ちゃんと返しなさいよ!」
「クラスも顔も知らねーす」
「モー、わかったわかった!明日の朝アタシがクラス連れてってやるから」
「アザス」

バシバシと背中を叩かれながら、流川は素直に頷いた。母親に叱られずにすむだけで一安心だった。名前先輩とやらが誰かは知らないが、明日にはこの匂いがなくなってしまうと思うと、流川はほんの少しだけ残念だった。


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