16.君がすきだと叫びたい

気怠さで虚な瞳が、名前の姿をようやく捉えた。彼の世界に映る自分の姿は、一体どんな風なのだろう。名前はその答えが知りたくてたまらなくて、けれどその感情を抱いてしまった時から、同時に同じくらいの恐ろしさも感じていた。
はくりと息を呑むように、薄い唇が微かに動く。風邪でこもる熱さとともに、零された言葉は。

『……先輩、――』

途端、部屋に鳴り響いた甲高い音に名前ははっと我に帰った。気づいた時には辺りに焦げ臭さが充満していて、名前は慌ててタイマーを止めると、恐る恐るオーブンを覗き込んだ。天板に並んだクッキーは見るも無惨な姿に変わり果ててしまっている。お菓子作りが得意な名前には珍しいミスだった。

部屋の換気をしなければと、名前は重い腰を上げて家庭科室の窓をいっぱいに開いた。初夏を思わせる風がクリーム色のカーテンを揺らす。西に傾いた太陽は夕方というにはあまりにも鮮やかで、その余りの眩しさに名前は目を細めた。校庭では、白いユニフォームを着た野球部員たちが土まみれになりながらノックを受けている。野太い声出しは校庭中に響くほどだというのに、名前の耳はなぜかそれよりも遥かに小さい音――フローリングをキュッと擦るバスケットシューズの音ばかりを拾っていた。無意識に吸い寄せられた視線は、体育館の方向へと向かう。

11番を背負う広い背中、人より少し長い襟足。思い浮かぶその姿は、やがて部屋で横たわる流川の姿へと変わる。

『先輩、スキ』

流川が零した言葉の意味は、一体何だったのだろう。あの日から、名前の頭を占めるのはその事ばかりだ。誰かに相談したくても、何かと話題になりやすい流川の事を下手に同級生に話すわけにもいかない。何より、勘違いや何かの間違いだったらと、名前は由美や彩子にすら相談できずにいた。

――そもそも、流川が自分のことを恋愛的な意味で好きになることなんてあるのだろうか。せいぜい姉や母親のように、甲斐甲斐しく面倒を見てくれる親鳥のような存在だと思っているのではないか。

きっと、由美や彩子が聞いていたら強く否定していたであろう想像も、今の名前にとっては真実のように思えた。いや、真実にしたかったのかもしれない。

名前は怖かった。流川の言葉を嬉しく思う自分がいることが。期待して、勘違いだと言われることが。もうとっくに、名前にとって流川はただの後輩ではなかった。最初の出会いこそ良いものではなかったかもしれない。それでも、バスケに直向きな姿や、高校生らしい等身大の姿、そして名前を見つけた瞬間に微かに綻ぶ彼の瞳が、名前の心を捉えて離さないのだ。

気づいた時には、名前は、流川に恋をしていた。

そしてその想いは、もはや隠し切れないほどに熟れ切っていて、このままだと名前は胸を焼き焦がして死んでしまうのではないかと思った。だから、予防線を張った。風邪の最中の人寂しさ故に溢れ出た言葉で、深い意味なんてない。ただ単に先輩として好ましいという意味なら、嬉しいじゃないかと。

(…本当に?)

そう問いかけてくる自分の声をどうにか無視をして、名前は頬杖を解いて片付けに取り掛かった。焼け焦げたクッキーを処分しながら、いつか自分の気持ちもこんな風に捨て置かなければならないだろうなと、名前はぼうと考えた。頬に一筋流れた雫に気付かぬまま。

「先輩」

その時、不意に投げかけられた声があった。この数ヶ月で、聞き慣れてしまった声だった。名前は弾けるように顔を上げる。

「、流川くん」
「ウス」

窓の外には、練習着姿の流川がいた。外周中だったのだろう、前髪や襟足が汗で肌に張り付いている。いつもと何ら変わりのない澄まし顔で話しかけてきた流川に、やはりあの時の言葉に特別な意味なんて無かったのだと、名前は笑った。笑うしかなかった。

「お疲れさま。体調はどう?良くなった?」
「ヘーキ」

流川の顔色はすっかり元に戻っており、その言葉には嘘はないようだった。どうやら体力を回復させるために外周を命じられたようで、周囲には他の部員の姿はない。

「良かった。でもまだ無理しないようにね、病み上がりだから」
「でも早く試合してー」
「はいはい」

そのまま他愛もない話を交わしていると、不意に流川の頬にこめかみから汗が伝った。名前はそれを流川が首にかけていたタオルで優しく拭ってやった。考える間もなく、体が勝手に動いていた。

「ちゃんと汗拭かないとダメよ。早くバスケしたいなら尚更、ね」

放って置けないのだ。名前は、流川のことを。どうしたって。名前は諦め混じりに微笑む。
頬をくすぐる感覚が気持ち良かったのか、擽ったかったのか、流川は片目を閉じた。どこか猫のような仕草が可愛らしくて、堪えきれなかった笑いがくすりと溢れる。そうして名前がそっと手を離そうとした次の瞬間、流川が徐に名前の手を掴んだ。その手は、名前の想像以上に熱かった。もうとうに、熱など引いてしまっているはずなのに。

「先輩、スキ。オレの彼女になって」

冷たい炎を燃え上がらせた、意志の強い瞳が名前を見つめている。名前は口をぽかんと開けたまま、信じられない気持ちで流川を見つめ返していた。先程まで大きく聞こえていたはずの野球部員の声達が、今は随分と遠くに聞こえた。二人の間に沈黙が降りる。見つめあった間は、数秒か、数十秒か。そうしてようやく言われた言葉の意味を理解した途端、名前の頬が真っ赤に染まった。

「え?ほ、本当に?」
「ホントす。……この間も言った」

心外だとでも言うようにムッとした流川に、名前は慌てる。思わず口をついて出た言葉に後ろめたさを感じて、俯きがちに口をもごつかせた。

「その、あれ、何かの間違いかと思って、」
「間違いじゃねー」
「そ、そっか」
「ダメすか」
「ダメ、とかじゃなくて…ちょっと待って、」

迫り来る無言の圧に、名前は及び腰になる。その時、流川が突然腕を引いたものだから名前はよろけて窓枠に手をついた。そして顔を上げて、はっと息を呑む。名前はそこで初めて、流川の瞳を真正面・・・から捉えた。流川だけがグラウンドにいるという状況が偶然にも、二人間の身長差を埋めていた。

(……あ、)

流川の瞳は、光の届かぬ宇宙のように深く黒く、けれど今は名前へのただひたすらに真っ直ぐな思慕を湛えて輝いていた。

「……どうして、」
「?」
「どうして、私のことを好きになってくれたの」

ぽつり、零した声は思いの外弱々しい。嬉しかった。好きだと言われて。それでも、まだ名前が素直に受け入れられないのは、名前が先輩だからで、流川が後輩だからだ。流川が名前に心を開いたのは、彼にとって「良い先輩」だったから。バスケをしたい直向きな気持ちを尊重し、自分の行く道を邪魔しない存在だったから。憧れと恋情は遠いようで近い。いつの間にか気持ちのすり替えが起こっていたっておかしくはない。名前が流川のことを恋愛的に好きだとしても、流川の気持ちが全く同じである保証はないのだ。それは、名前にとって何よりも恐ろしいことだった。
そうして、名前は自嘲する。「先輩として好ましいという意味なら嬉しい」、そんなこと建前でしかない。同じ気持ちを返して欲しい。名前は、流川のことが愛おしくてたまらないから。

名前のその弱々しい声に、流川はほんの少し目を見開いて、考え込んだ。何だか名前は泣きそうで、そして同時に納得もしていた。

「ほら、ね。流川くん、その気持ちは恋愛としてじゃないのよ。きっと刷り込みみたいになっちゃったんだね。今まで通り私、流川くんのことなんて言うか、気にかけるし面倒だって見、」

名前はそれ以上、言葉を紡げなかった。薄い唇から伝わる熱が、妙に熱くてたまらない。名前の額を流川の前髪が擽る。驚きで見開いた名前の視界には、美しく目を伏せた流川のかんばせだけが映っていた。

「……どあほう」

ようやく唇を離した流川が、息の交わる近さで呟いた。

「どーしてとか覚えてねー。けど、オレが名前を呼んだ時の先輩の顔が頭から離れねー。笑ってる顔見てるとココが苦しくなる」
「る、」
「先輩がオレを見てる時のがスキ。オレの名前呼ぶ時の、やわらけー声も」

普段とは異なり、まるで別人のようにスラスラと答える流川に、名前は真っ赤になる。もうやめてくれという思いで見つめるも、流川の勢いは止まらない。

「恋愛じゃなけりゃ、こーゆーことしねー」

また強引に掠められた唇に、名前はキャパオーバーで泣き出しそうだった。

「先輩が俺にくれるモン、それ以上を返したいす。…それじゃダメすか」
「るかわく、」
「スキです」
「ちょっと待っ、」
「先輩、スキ」
「待って!」
「もっかい……」

またもや顔を寄せてきた流川に、名前はついに白旗を上げた。予防線なんて、流川の前ではもはや意味などなかった。
名前はようやく自身の勘違いに気づいた。流川は名前を好きな理由が思いつかなくて考え込んだのではない。むしろ、ありすぎて何から話すべきか口下手な流川なりに考えていたのだ。

「わ、わかった!わかったから……!」

間近に迫る美しいかんばせをどうにか必死に抑えて、こくこくと頷いた名前。隠しきれない名前の顔の赤さに、流川は微かに口角を上げる。

「ナマエ先輩、スキっす」

名前の手は、無骨で大きな手に絡め取られる。ようやく抵抗を諦めた名前は、「……私も好きだよ」それだけ呟くと、そっと目を閉じた。

校舎の隅、夕日に照らされた二人の影が重なる。この日、名前と流川の関係は、「先輩と後輩」から「彼女と彼氏」に変わったのだった。


back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -