15.眠りに落ちるその前に

扉を開けると、手元にひんやりとした空気が流れ出してくる。冷蔵庫の2段目で艶々と輝くレモン色に、名前はほっと安堵の息を吐いた。バットごとガラス瓶を取り出して、仕上げにミントを飾る。独特の香りや風味がするハーブ類は好き嫌いが分かれるけれど、彩りのためにも欠かせない。届ける前に、と小さめに作っていた味見用のゼリーを一口食んで、広がった甘酸っぱさに名前の顔は思わず綻んだ。

「名前ちゃん、できてたー?」
「うん、バッチリ!ちょっと届けてくるね。あっ、これお裾分け」
「ヤッタァ、ありがとう!いってらっしゃい!」

同級生の部員にもいくつか渡し、名前はクーラーボックスを肩にかけて家庭科室を後にした。

昨夕から朝にかけて雨が降っていたせいか、中庭の木々は水滴を纏いいつも以上に瑞々しく見える。渡り廊下に差し掛かると、屋根から時折雫が零れ落ちていた。ぴちょん、と跳ね返る水滴で足先が濡れてしまわないように、名前はつま先立ちで廊下を走り抜けた。

体育館の入口には、幸いな事にまだ見学の生徒の姿はなかった。扉の窓越しに中を伺うとちょうど木暮と目が合ったので、名前は小さく会釈をした。重い扉を軽々と開けた木暮は人好きのする笑みを浮かべている。

「木暮くん、お疲れさま。部活中にゴメンネ」
「お疲れ。いや、大丈夫さ」
「彩子ちゃんいますか?」
「モチロン。おーい彩子!苗字さんが来てるぞー」
「ハーイ!チョット待ってくださーい!」

駆け寄ってきた彩子に挨拶をして、名前は2人の前にクーラーボックスを差し出した。

「これ、差し入れです。彩子ちゃんと前に約束しててチョット遅くなっちゃったんだけど、良かったら」
「ワ!マジですか!ありがとーございます!」
「一応人数分作ったんだけど、レモン苦手な人は無理しないでって伝えておいてね」
「勉強会でも力を貸してもらったのに差し入れまで…ありがとう」
「ううん、私も作るの楽しかったから」
「モー、先輩だいすき」

その後、部長の赤木の声掛けで、バスケ部は一時休憩に入ることになった。各々体育館の床に腰を下ろし、レモンゼリーを食べている様子を見た名前は、やはり男の子が持つと瓶がものすごく小さく見えるとくすりと笑った。

「おいし!」
「ふふ、ありがとう」
「先輩、レシピ知りたいです!」
「えっとね、材料は…ゼラチンとレモンと蜂蜜と…」

名前が指折り数えていると、突然とすりと背中に重みが加わった。やや遠慮のない重さに名前はきょとんとする。目の前でゼリーを食べていたはずの彩子もあんぐりと口を開けていた。さらりとした黒髪が視界の隅に映り、名前はまさかと後ろを伺う。

「…流川くん?」
「………先輩、」

確かに、いつもなら一番に寄ってくるはずの流川の姿がないなとは思ったけど…なんてことを思いながら、名前は目を白黒させる。何しろ、こんなに近過ぎる距離に流川がいることなんて初めてだったから。自転車に乗せてもらった時も、屋上で肩を貸したときも、防波堤のように名前は少しの間を空けていたというのに、今は背中にぴたりと流川の身体が寄り添っている。というよりも、寄りかかっている。視線が集まるのを感じて、名前は頬が熱くなった。心做しか、背中まで熱を発しているようだった。そこまで考えて、名前ははたと気づく。

「…待って、」

流川の重さを支えながら何とか身体を捻り、名前は流川の額に手を添えた。

「やっぱり…。彩子ちゃん、流川くん熱あるみたい」
「エッ!?」
「体温計あるかな?」
「持ってきます!」
「ム、どうした」
「赤木くん。流川くん、熱があると思うの」
「なにッ」

バタバタとその場が慌ただしくなる。赤木に手伝ってもらいながら流川を壁沿いに座らせ、名前は彩子から受け取った体温計を手渡した。

「流川くん、熱測ろうか」
「…いらねーす。それより練習」
「測るだけでいいから。ね?」
「…」
「流川くん」
「…ン」

名前に優しく嗜められ、流川は大人しく体温計を脇に挟んだ。程なくして計測終了の音が鳴る。ディスプレイを確認した名前は苦笑いを溢し、同じくして覗き込んでいた彩子は「あちゃー」と声を漏らした。

「38.5℃…高熱じゃない。あんた、もう今日は帰りなさい」
「いい。ヘーキ」
「平気じゃないから言ってんの!」
「…知らん」
「チョット!流川!」

見るからに体調が芳しくないのに意地を張る流川に、心配から声を荒げる彩子。雲行きが怪しくなった2人を見て、名前は慌てて間に入った。

「待って!彩子ちゃん、心配してくれてるんだよね。流川くんもバスケしたい気持ちはわかるよ。…でも、今回は彩子ちゃんが正解。流川くん、今日はもうお家に帰ろう?」
「…ヤダ」
「もし今日無理したら、しばらく熱引かないかもしれないよ?そうしたら流川くんの好きなバスケもちゃんと出来ない。今日我慢して明日からいつも通りたくさん練習できるのと、今日無理して数日間動けなくなるのどっちがいい?」
「…」
「ね。お願いだから今日は帰ろう」

逡巡してようやくこくり、と頷いた流川の頭を優しく撫で、名前は「ありがとう」となるべく柔らかい声色で告げる。彩子はほっとしたようだった。

「ご家族は今お家にいる?それともお仕事?」
「りょーほー夜までシゴト」
「じゃあお迎えにくるの難しいかな…」
「一人で帰れる」
「ダメ。こんなにフラフラしてるのに」

思い通りにならないのが悔しいのか、流川が名前の肩にぐりぐりと頭を擦り付けた。まるで愚図る子どものようだ。少し思い悩んで、名前は決意した。

「赤木くん、私が流川くん送ってくるよ。みんな大会前だろうし、私の方は融通がきくから」
「ム…それは助かるが…苗字に負担がかかるだろう」
「大丈夫。それにこのまま放って帰る方が心配なの」
「…すまない。この恩は必ず返す!!」

責任感の強い赤木のことだ、ここで引かないと一生気に病むのだろうと、名前はとりあえず頷いておくことにした。
木暮に付き添われて、流川はフラフラと覚束ない足取りで部室に向かった。数分後、流川が制服に着替えて出てきたので、名前はバスケ部に一旦別れを告げると流川の手を引いてゆっくりと歩き出した。

普段流川は自転車通学をしているが、もちろん病人に自転車など漕がせられない。先ほど彩子に尋ねたところ、流川の家の近くにバス停があるとのことだったので、名前は流川を連れてバスに乗り込んだ。数十分後、名前は自身の肩で眠る流川を優しく揺り起こし、バスを降りる。それから牛の歩みでようやく目的地に辿り着いた。

「流川くん、お家着いたよ」

流川に断りを入れて通学リュックから鍵を探り出すと、名前は流川家の玄関を開けた。家主がいない家の中はすっかり静まり返っている。いつもよりも数倍ゆっくりとした動きで靴を脱いだ流川の背中を支えながら、名前は二階への階段を上った。
廊下の突き当たり右の部屋、扉には『かえで』と書かれた古いプレートが掛けられている。申し訳なく思いつつ、名前はドアを開けた。中はやや殺風景で、床に転がったバスケットボールと壁に貼られたNBA選手のポスターが流川らしさを感じさせる。

「下からリュック持ってくるから着替えてお布団入ってね」
「ン」

熱で思考力が低下しているのか、やや幼なげな返事をする流川に名前はなんだか可愛いなと場違いなことを思った。
玄関に置いたままだったリュックを回収した名前が部屋に戻ると、言いつけ通り流川はスウェットに着替えてベッドに身体を横たえていた。

「寒くない?」
「…ダイジョーブ」
「水筒、中身まだ入ってるみたいだったからとりあえず置いておくね。体温計どこに置いてあるかわかる?」
「…知らねー…」
「冷えピタとかお薬は…?」
「…」

難しい顔をする流川を見て、そういえば洋服のボタンの付け方さえも流川はよく知らなかったのだと名前は思い出した。元から生活力が低い子だとは思っていたけれど、と苦笑いする。

「たくさん聞いてごめんね。私が準備しておくから流川くんはまずしっかり休もう」

名前はそう言って布団を掛け直してやった。流川は相当キツかったのか、こくりと頷くと数分も立たずに眠りに落ちた。
その間に、名前は看病に必要なものを揃えることにした。本来なら薬の前に少しでも栄養になるものを摂ってほしいけれど、さすがに人様の家の台所を勝手に使う勇気は名前にはなかった。幸い、流川の家に来る道中でドラッグストアを見つけていたので、そこで病人でも食べられそうなゼリーや風邪薬などを買い集めることにした。

名前が流川の部屋に戻ってきた時、流川は静かな寝息を立てていた。名前は安心して小さく息を吐く。熱が上がりきって暑くなったのか、ベッドの足元の方で毛布が乱雑に丸まっていた。名前は代わりのタオルケットを流川の体に掛け、ついでに冷えピタも貼ってやった。

名前がしばらく見守っていると、不意に流川がグッと眉根を寄せた。いつもは涼しげな相貌が歪んでいるのを見て、名前は何だか心が苦しくなる。少し悩んで、名前は汗で額に張り付いた流川の前髪を優しくかき分けた。表情が和らいだのも束の間、煙るようなまつ毛がふるりと震える。

「流川くん…ごめんね、起こしちゃったかな」
「…」

膝立ちになり覗き込んだ名前の顔を、流川はぼうっと眺めていた。

「もう少し寝たら、何かお腹に入れて風邪薬飲もうね」

眉を下げて微笑んだ名前。虚ろな瞳の流川が、何かを告げようとした。はくりと動いた薄い唇に、名前は首を傾げる。次の言葉はなかなか紡がれない。その場に沈黙が落ちる。幾ばくかして、ようやく流川の口から零された言葉。

「………先輩、スキ…」

名前は動けなかった。聞き間違いだろうとも思った。気づいた時には流川はすっかり眠ってしまっていて、名前は床から伝わってきた空気の冷たさで我に帰った。いつの間にか窓の外は日が落ちかけていた。その瞬間、心臓が今までにないほど大きく、強く名前の胸で暴れ出す。ここに留まっていたら、きっと自分は正気でいられない。名前はレシートの裏に『お大事に』とだけ走り書くと、自分の鞄を抱えて落ちそうになりながら階段を駆け下りた。

バスに揺られながら、名前は己の熱を冷やすように窓に頭を預ける。ガラスに反射する名前の顔は、あり得ないほどに真っ赤で、まるで流川の熱が移ってしまったかのようだった。

「…違う。寝ぼけてただけだよ」

苦しくて、嬉しくて、泣きたくて、幸せで。
名前は叫び出したかった。


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