14.そして僕はささやいた

ガタンゴトンと揺れる電車に身を任せながら、名前は手持ち無沙汰に外を眺める。今日は雲も少なくさっぱりとした晴天だ。朝の天気予報では、九州地方が梅雨入りしたと発表されていた。名前はじっとりとした梅雨の時期が好きではないので、この心地良い気候がなるべく長く続くようにと密かに祈っている。
少し経って、車両内に駅名を告げるアナウンスが流れた。名前は白い紙袋を胸元に大切に抱き抱え、なんとか人の合間を通り抜けて電車を降りた。改札を通り抜けたところで腕時計を確認すると、待ち合わせの数分前を指している。ちょうど良い頃合いだ。

「せんぱーい!」

程なくして聞こえてきた声に、名前は顔を上げた。にこやかに手を振る彩子につられて、名前も頬が緩む。いつも通り抱きつこうとした彩子は、名前の腕に紙袋が下がっているのを見ると、少し残念そうな顔で留まった。

「おはよう、彩子ちゃん」
「おはよーございます!今日はホンットにありがとうございます!」
「こちらこそ、お招きいただいてありがとうございます」

両手を合わせて拝む彩子に、冗談めかして名前も丁寧にお辞儀を返した。そうして二人でくすくすと笑う。学校が休みである土曜日、名前が彩子と会っているのは他でもない、赤木の家で開催されるバスケ部の勉強会に参加するためだった。

「名前先輩がいてくれるだけで百人力…イヤ、百万人力です
「そんな大げさだよ…でも少しでも力になれるなら良かった」
「先輩って女神サマだったりします?」

彩子に連れられて歩くこと数十分、閑静な住宅街の一角に赤木の家はあった。彩子が手慣れたようにインターホンを押すその後ろで、名前は慌てて装いを整える。なんせ、同級生の男の子の家に訪れる機会なんてそうそうないのだ。

『はーい!』
「オッハヨー、彩子でーす」
『あっ!いらっしゃい、カギは開いてるのでどうぞ!』

機械越しに可愛らしい声が聞こえてきて、名前はきっと話に聞くハルコちゃんだろうと見当をつけた。もともと赤木に妹がいることは聞き及んでいたが、最近その彼女に桜木花道がお熱なのだと彩子に聞いた。名前は直接晴子と関わったことはなかったので、今日会えると聞いて密かに楽しみにしている。

「オジャマしまーす」
「お邪魔します」
「オウ彩子、苗字、よく来たな」
「おはよーございまあす!」
「おはよう、赤木くん。今日はよろしくお願いします」
「無理を言ってスマン。今日はウチのバカどもをよろしく頼む」

名前と彩子の来訪を聞きつけたのか、リビングにいた赤木はわざわざ玄関に出向いてくれて、相変わらずの真面目さだと名前は感心する。そうして、そんな真面目で責任感の強い赤木が頼るなんて、よっぽどの状況ではないかと名前は少し心配になった。
赤木の背を追い、踏み入れたリビングには既に何人かの姿があった。その内の一人は、部屋に入ってきた彩子に目ざとく気づくと、喜びの声を上げる。

「アヤちゃん
「アレ、リョータ早いじゃん」
「そりゃダンナに…「――先輩、」

彩子と、彼女に話しかけた男子――宮城リョータの様子を名前が立ち尽くしたままぼんやり眺めていると、不意に後ろから声がかけられた。振り向き仰ぎ見たそこには、心なしか眠そうな目の流川の姿がある。名前たちが到着してすぐに流川もこの家に辿り着いたらしい。初めて見た私服姿の流川に、名前はどこか面映い気持ちを抱えつつも口を開く。

「流川くん。おはよう」
「オハヨーゴザイマス」
「今日も自転車で来たの?」
「?うす」
「ふふ、前髪が乱れてるから」

名前が笑ってそう指摘すると、流川は少しの間思案して、ぐいと名前の方へ顔を寄せた。

「ン、」
「えっ」
「見えねー」

その近さに名前がたじろいでも、流川はまるで気にしていないようだった。それどころか名前が前髪を直してくれるまで頑なに待っているので、名前はその熱心さに負けてそろりと手を伸ばす。その時だった。

「なにこんなトコでつっ立ってんだ、退け退け」

突然掛けられた声に反応する間もなく、流川が不自然に体勢を崩した。どうやら、その男に後ろから軽く蹴られたらしい。つんのめった体を起こし不服そうに睨め付ける流川を気にも止めず、からりと笑った彼はようやく名前の存在に気づき、分かりやすいほどにギョッとした。

「うお!?苗字名前…!?」
「アレ?三井先輩、名前先輩と知り合いですか?」
「いや知り合いっつうかなんつうか」

ちらりとこちらを見やった男――三井に名前が不思議そうに首を傾げると、三井はサッと気まずげに顔を逸らした。実のところ、名前がバスケ部の手伝いに行ったのは三井の復部前だったので、直接の面識はないのである。しかし、相手にとってはそうではなかったらしい。しかもフルネームで知られているなんて、自分が気づかないだけで実は交流があったのだろうかと名前が考えていると、木暮がにこやかに爆弾を落とした。

「三井、一年の頃苗字さんのこと可愛いって言ってたからな」
「おい!」
「えっ」
「え!?」

三井が慌てて木暮の口を押さえるも時すでに遅し。彩子の興味津々な視線が三井を貫く。当の本人である三井は耳を真っ赤に染めていて、それだけでみな話の真偽を察した。
じわりと、這い上がってきた熱さに名前はどうして良いか分からず、咄嗟に顔を俯かせる。好意的に言ってもらえること自体はそう少ないことではないのだが、名前はいつまで経っても慣れないでいた。そうして、名前が手の甲で頬を冷ましたまま顔を上げられずにいると、まるで三井からの視線を防ぐかのように、二人の間に流川が立ち塞がった。

「見ないでクダサイ」
「は?」
「先輩が減る」
「オイなんなんだよ!」
「まあまあ流川、三井も。とりあえず席に着いたらどうだ?赤木もそろそろ戻ってくるだろうし」

困惑し切っていた三井も、ようやく冷静さを取り戻したようで名前のことをどこか気にしつつ席に着いた。流川はまだ不服そうだが、桜木を連れて戻ってきた赤木に促され、しぶしぶ腰を下ろす。その間も流川がこちらをじっと見つめてくるものだから、名前はあとで話しかけてみようと密かに思った。

「すまない、苗字と木暮は三井に教えてやってくれ」
「はっ!?」
「なんだミッチー、メグミさんに教えてもらえるなんてゼイタクじゃあないか!」
「彩子は宮城だ。晴子、お前は流川に教えてやれ。そしてお前はオレが教える…桜木」
「鬼!!フコーヘイだ!!!!」

地団駄を踏み泣き喚く桜木に、赤木はゲンコツをひとつ落とす。そうして強制的に勉強会を始めた。
先ほどの話もあり名前は少し気まずく思ったが、既に他のメンバーは勉強を始めていたし、木暮も一緒に教えるからと一旦開き直ることにした。斜め向かいから感じる大変不服そうなオーラに、これはあとでご機嫌を伺わないと、なんて思いながら。

「…よろしくね、三井くん」
「オ、オウ。ヨロシクお願いシマス」

こうして始まった勉強会は、各々が想像以上に問題を抱えており、あちらこちらで怒鳴り声や素っ頓狂な声が飛び交っていた(前者は主に赤木だった)。かく言う三井も酷いもので、赤色だらけのテスト用紙に名前と木暮は顔を見合わせて苦笑いを零した。かなり力を入れる必要がありそうだ。
二人は三井のためにかなり噛み砕いてわかりやすく教えようとしたが、何分なにぶん三井がグレている間ちゃんと授業を受けていなかったことが響いて、一問一問理解するまでにかなりの労力を要していた。

「うーん」
「あーーーーっわかんねー!これホントに高3の内容かよ!」
「…木暮くん、私範囲絞った方が良いと思うな」
「ああ…オレもそう思うよ」
「私が出そうなところ大方絞ってみるから、とりあえずそれが終わるまで木暮くんは赤木くんを手伝ってあげて」

名前はちらりと対角線上の席を見やった。ハイになっている桜木、そしてそれを叱りつける赤木。あそこが一番の鬼門だと名前は考えている。
バスケ部で急成長中の桜木は、全国大会を目指す上で今や欠かせない存在になったのだと、勉強会前に彩子が話していた。そのためにも、今回の定期考査は何とか赤点を免れてもらわなければならない。心優しい木暮は三井と名前を二人で残していくことを少し心配していたけれど、それよりも今は赤木と共に桜木をどうにかする方が良さそうだと判断し、席を移動して行った。

三井に少し休憩をとってもらい、その間名前は教科書の中でも特に重要な部分だけにラインを引いていく。その様子を、向かい側で頬杖をついた三井がぼうっと見やっていた。

「なあ、」
「なあに?」

口を開いたのは三井なのに、名前が問い返しても何も返ってこない。不思議に思って顔を上げると、目が合った三井は真っ直ぐ名前を見つめていた。

「お前、流川と同中?」
「私?違うけど…」
「マジで?」
「?うん、」
「げぇ、それでアレかよ…」

ハハハ、と空笑いする三井を気にも留めず、名前はせっせと手を動かす。そうして大まかに書き込みを終えた教科書で、いつの間にか机に伏せていた三井の頭をぽんと叩いた。

「いて」
「もう。痛くないでしょ」
「まァな」
「休憩おしまい。はい、今線引いたところ中心に読んでからプリント埋めてみて」

名前は机の上に転がっていたシャーペンを手に取り、三井に渡そうとした。しかし三井は、渡されたシャーペンを握ったまままたもやじっと名前の顔を見つめてくる。また何か言いたいのかと名前も見つめ返したが、何も言葉はかけられないまま時間が経つものだから、何だか少しだけ居心地が悪くなる。そわついて思わず目を伏せた名前の瞼に、焼け付くような視線がなおも突き刺さっていた。

「私の顔に何かついてるの?」
「イヤ。やっぱイイオンナだなと思っただけだ」
「煽てても答えは教えてあげないからね」
「ハハ、ダメか」

三井とそこまで親しいわけではない名前には、彼の言葉が本当なのか、それとも揶揄っているのかを判断するのは難しかった。名前にしては珍しく、ほんの少し睨みつけるような表情をして見せると、三井は楽しげに笑う。そして、満足したのかようやく教科書に向き合い始めたので、名前はバレないようにこっそり息を吐き、休憩のため席を立った。


「るっ、流川くん!眠っちゃダメよ…!」

程なくして戻ってきた名前の耳に最初に飛び込んで来たのは、そんな可愛らしい呼びかけだった。どうやら流川が勉強を教わっている最中に寝てしまったらしい。真向かいの晴子の声にも微動だにしない様子だったので、今度は彩子が声を掛ける。それでも起きない流川に、彩子は両手を上げて降参した。

「ダメだわ、起きない。これは最終手段を使うしか…」
「最終手段…?」
「名前先輩、コイツ起こしちゃってください!」
「えっ、私?」

彩子に指名されて、名前は肩を跳ねさせる。先程手土産を渡した際に会話を交わして仲良くなったばかりの晴子も、不思議そうに名前を見つめていて、名前はいたたまれない気持ちになった。何せ、晴子は流川に気持ちを寄せているようだったので。そんな名前の心情を知ってか知らずか、彩子は名前の肩を掴むとやや強制的に流川の隣に腰を下ろさせた。
名前は困り切った顔で流川の様子を伺った。スヤスヤと寝息が聞こえてきそうなほど気持ちよく眠っている。ここが勉強の場でなければ微笑ましく見守ってあげられたのに、と思いながら、名前はやんわりと声をかけた。

「流川くん。…流川くん、起きて」
「――ん…」

ふるり、微かに震えた瞼がそっと開かれる。流川の瞳に再び光が宿るその瞬間を、名前はただ惚けて見つめていた。胸に湧き上がった思いを言い尽くす言葉を、彼女は知らなかったから。誰の声でも起きない流川がたった一言、名前の頼りない声で目を覚ました――その事実がいかに名前の心を揺さぶったのかなんて、流川は知らないだろう。本当にずるい子だ、と名前は思う。

起き抜けのはっきりとしない意識の中、流川は名前を見つめている。そうして一度二度、緩やかに瞬きをしたかと思えばぽつりと「…先輩、」と呟いた。動揺を隠すように、名前は何とか言葉を絞り出す。

「…お、おはよう、流川くん」
「る、流川が起きた…!?」
「天変地異の前触れか!?」

周囲が戦慄しているのを気にも留めず、流川は欠伸を零している。あまりのマイペースさに、呆れ顔の彩子が勢い良くその背中を叩いた。

「チョット流川、ちゃんと起きて勉強しなさい!」
「…す」
「まったく…。苗字、すまないが流川を見張ってくれないか。お前の前なら流川もしっかり勉強するだろう。三井はオレと木暮が見る。晴子、お前は桜木に教えてやれ」

名前は戸惑いつつ頷いて、流川の向かい側に腰を下ろした。それだけで流川はどこか満足そうだった。

「流川くん。ちゃんと着いてきてね」
「うす」

それからというもの、流川は眠っていた姿が嘘のように、熱心に名前を見つめていた。先ほどの三井よりも何十倍も、何百倍も強い視線は名前を戸惑わせたけれど、名前はなんとか気づかないふりをした。
教科書とワーク、それから各教科担当の教員が作ったプリント、その往復。名前は一年生の頃の記憶を思い返し、要点を絞って流川に伝える。流川の覚えは決して良くないが、話を聞いている姿勢だけは満点だ。

「ここは助動詞の活用が問われやすいから…、」

名前が教科書に目を落とした時、不意に横髪がはらりと頬を滑り落ちた。その髪を自ら掬い上げるよりも早く、名前の視界の端を影が横切る。

「あ、」

思わず漏れた声はきっと二人にしか聞こえていない。少し硬い指先が、こめかみを、耳の後ろを通り過ぎてゆく。すり、耳の縁をくすぐった熱に、名前は弾かれたように顔を上げる。視界に捉えた流川の顔は――笑っていた。よく見ないと分からない、口角だけがゆるりと上がった流川だけの笑い方。時が止まる。そんな笑い方するなんて、名前は知らなかった。自分よりも年下の筈の流川が、ずっと大人に見える。胸の奥がきゅうと音を立てる。名前は、目の前の流川から目を逸らすことができなかった。

「ッだーーーっ!なにやってんだオマエはァ!」

刹那、突然三井が立ち上がった。その顔は驚くほど真っ赤だ。きょとんと固まっていた名前は、三井の大声でようやく現実に引き戻された。周囲は名前たちの様子を目撃していなかったのか不思議そうにしているし、赤木に至っては三井は頭がパンクして暴走し始めたと思っているようだった。

「なんすか」
「『なんすか』じゃねーだろ、オマエ自分の行動振り返ってみろ!」
「先輩はいつもそーしてる」
「そりゃ苗字ほんにんはな!」

詰め寄る三井に素知らぬ顔で返す流川。小競り合いの横で、名前はずっと俯いていた。三井の比にならないほど赤くなった頬が、バレてしまいそうだから。もう隠し切れないほど実ってしまった感情が頭をもたげ、今か今かと名前の心を喰らい尽くそうとしている。どうかこれ以上大きくならないようにと、苦しい胸を押さえて名前は祈った。

その後も続いた勉強会だったけれど、名前の気はどこかそぞろだった。流川の触れたところが、ずっと熱を持っているような気がしていたから。それにも関わらず、流川は何食わぬ顔で名前を見つめて続けていて、名前は少しだけ流川を憎らしく思った。

「先輩」

だから後日、テスト結果を持って誇らしげに見せに来た流川のことを素直に褒めてやらないのは、名前のちょっとした意趣返しだ。

「…ナマエ先輩、」
「…もう」

結局絆されてしまうのは、いつだって名前の方だけれど。


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