13.指先が踊る

「名前、名前」
「なあに?」

授業間の10分休み。名前がクラスの友人―同じ家庭科部に所属しており、親しい間柄だ―と他愛もない話を交わしていると、机の上で伏せていたはずの由美から名前を呼ばれた。その子に断りを入れて由美の元へ向かうと、何やら微妙な顔をしているものだから名前も気になる。

「アレ」

由美が指差す方向を見て、名前はなるほどと苦笑いをした。教室の開放された窓越し、そろそろ見慣れてきてしまった人の姿が廊下にある。そこで2人組の女生徒に捕まっていたのは、流川だった。いつもなら他を寄せ付けないほどのオーラを放っている流川に話しかける猛者なんていないのだが、今日は状況が違ったらしい。彼女たちを見下ろす流川の表情は恐ろしいほどに真顔だけれど、それを知ってか知らずか2人は浮かれた様子で話し続けている。

「名前に用事があったんじゃない?」
「うーん…」

暗に「助けてあげたらどうだ」と由美は言っていて、名前はもちろんそれがわかっていた。流川がこの教室を訪れるのはきっと名前に用事があるからだし、今の状況のように彼が赤の他人に干渉されることを好まないことだってわかっている。けれど、教室へ案内してあげたりカーディガンを貸してあげたりと散々世話を焼いてきた名前でも、あれを邪魔するのはさすがに…と思った。流川がそのアピールや想いをどう思っているかは関係なく、第三者である名前がむやみに彼女たちの恋路に介入するのはなんだか野暮だし無粋に思えるのだ。困ったように微笑む名前に、由美は肩をすくめると「マア、あたしはどっちでもイイのよ」とだけ残して再び眠りの体勢に入ってしまった。

とはいえ、名前も気にならない訳はない。流川の歯に衣着せぬ物言いが炸裂しなければ良いけれど、と若干ズレた心配を抱えたまま遠目に見守っていると、不意に流川が視線を上げた。名前を視界にとらえたオニキスの瞳が、きらりと瞬く。そのあまりの真っ直ぐさに、名前は思わずドキリとしてしまう。固まった名前をよそに、逡巡して流川は小さく呟いた。

「――ナマエ先輩」

その言葉を聞いた名前は、呆然としたまま胸元のシャツをきゅうっと握りしめた。そうしていないと迫り上がってくるなにかが抑えきれそうになかった。こちらを見つめたままじっと待っている流川に、そっと駆け寄る。いつの間にか女生徒たちの姿はなくなっていた。

「流川くん…、私の名前覚えてたの?」
「トーゼン」

それは些か流川の強がりだったかもしれない。けれど、名前はその言葉を疑うことはしなかった。流川が名前の名前を呼んだ、そのことだけが彼女にとっての真実だった。今まで「先輩」としか呼ばれないものだから、てっきり流川は名字も覚えていないのだろうと名前は思い込んでいた。それが、まさか下の名前で呼ばれるなんて。むず痒げに唇を尖らせた名前を、流川は相変わらずじっと見つめていた。

「…あ、そうだ。私に何か用事があった?」
「英和辞典…」
「英和辞典?」
「貸してください」

流川の頼みに名前は快く頷いて、自席から少し分厚い英和辞典を持ってきた。学校生活を共にして3年目に突入したからか、ところどころ付箋が折れ曲がっているのが不恰好に見えて、名前は慌てて綺麗にしわを伸ばした。教科書よりも幾分か重いその本を、流川は片手で簡単に受け取ってしまうものだからさすがだなと思う。

「勝手に書き込んでいいからね」
「アザス」
「…そういえば、他のクラスの子に借りた方が楽だったんじゃないかな?」
「借りれるやついねー」
「えっ」

今さらだけどと名前が少し笑うと、流川はそう呟いた。それを聞いて、思わず名前は目を丸くしてしまう。そうして、数日前バスケ部の手伝いをした時に覚えた、数人の1年生の顔を思い浮かべた。彼らを頼っても良いだろうにと思ったけれど、流川は至って真剣な様子だったので名前は何も言わずに曖昧に頷いておいた。こうして自分を頼ってくるうちは、可愛い後輩なので甘やかしてやりたいと思ったからだ。

「授業中寝ちゃだめよ」

名前の言葉を流川は黙って聞いていたけれど、うんともすんとも言わずにただ一度だけ小さく頭を下げて教室を出ていった。その姿を見て、名前は思わず吹き出してしまう。あの様子ではきっと寝てしまうのだろう。変なところで素直な流川が可愛くてくすくすと笑いが止まらなかった名前は、のちに目を覚ました由美に訝しげな目線を送られたのだった。



「名前、帰りましょ〜」
「あ、うん!ちょっと待ってね」

ホームルームの後、ひと足先に帰り支度を終えた由美に声をかけられ、名前は片付けの手を早める。明日の時間割を確認しながら教材整理していたところで、名前はようやくあることに気がついた。

「やっちゃった…」
「どうしたの?」
「流川くんに英和辞典貸したままだ」

流川に辞典を手渡した時、名前は今日中に返して欲しいと念を押すのをすっかり忘れてしまっていた。いつもなら翌日でも構わないのだが、生憎今日に限って長文読解の宿題が出てしまっている。名前は少しの間悩むと、由美をそろりと見上げて両手を合わせた。

「由美ちゃん…、私流川くんから辞典受け取ってくるから、先にカフェ行っててもらっても良い?ごめんね…」
「オッケー、じゃ先に行ってるわね」

さして気にした様子もなく由美が頷いてくれたので、名前はもう一度お礼を告げ、駆け足で体育館へと向かう。きっと今日もギャラリーは大賑わいだろう。入学してしばらく経って、流川の人気は益々熱を帯びているのだ。もし囲まれていたらどうやって声を掛けるべきだろうかと考えながら走っていた名前の目に、偶然、外でビブスを干している彩子の姿が映った。

「彩子ちゃん!」
「アレっ、先輩!どーしたんですか?」

声を掛けると嬉しそうに抱きついてきた彩子を、名前も微笑ましい気持ちで受けとめる。それとなく事情を伝えると、彩子の麗しい顔に縦筋が浮かんだ。名前としては困っているだけで怒ってはいなかったので、自分のことを慮ってくれた彩子に擽ったい気持ちになりつつも、慌てて彼女を宥める。

「私も伝え忘れちゃったから、流川くんをあまり怒らないであげて」
「でもアイツ、カーディガンに続き2回目ですよぉ!?」
「う、うーん」

そう言われると名前も強く出れずに苦笑いを浮かべるしかなかった。ビブスを手早く紐に掛けた彩子は、どこから出したのか大きなハリセンを手に持つと、ズカズカと体育館の中に踏み込んで行き練習中の流川の後頭部を思い切り叩きつけた。小気味良く響いた音に、名前は思わず目を丸くする。そして、流川が以前言っていたハリセンで怒られるというのはこれかと、驚きと謎の感動を覚えていた。

「…なんすか」
「『なんすか』じゃナイっつーの!流川、あんた名前先輩に英和辞典借りたまんまでしょーが!」
「…!」
「先輩がわざわざ来てくれてんだからお礼言いなさいよ」

前触れなく鋭い視線が自分に向けられて、名前は思わず肩を跳ねさせた。途端、流川の不機嫌そうに細められていた瞳が、きゅるりと光を帯びて丸まったように見えた。その変化に名前はどうすれば良いか分からず、知らず知らずのうちに一歩足を引いていた。それを拒むように、流川はすかさず名前の目の前へと近寄った。

「…先輩」
「こ、こんにちは。流川くん」
「ナマエ先輩」

名前はまだその呼び方に慣れていなかった。なんとか俯いて、火照った頬を隠した。そんな彼女の心情を梅雨知らず、再度確かめるように名前の名前を零した流川は、上から下まで名前を眺めると何か納得したようにひとつ頷く。そして急ぎ足で姿を消すと、数十秒経たないうちに英和辞典を片手に戻ってきた。(ちなみにこの時の流川は、母親からの『借りた物を借りっぱなしにしない』という言い付けを破らないためにやや必死だった。)

「アザした」
「あ…ううん、私こそ何だか急かしちゃったみたいでごめんなさい。余計に暑いよね」

練習中の汗も拭わず辞書を持ってきた流川に、名前は申し訳なく思い、気持ちだけでもと手で風を送った。そこに流川がぐっと顔を寄せてきたものだから、名前は感心した。ほんの少しの風も心地よく感じるくらい、随分と熱心に取り組んでいたのだろう。火照った身体を覆う熱気は、そばにいる名前までをも浸食しそうだった。幾重もの汗が流川の米神を流れ落ちてゆくのを、名前はなんとなしに眺める。鬱陶しげにリストバンドで雫を拭った流川は、少し落ち着いたのかようやく名前に辞書を差し出した。名前は礼を言って受け取ろうとしたが、なぜか流川が手を離さない。

「どうしたの?」
「英語、得意なんですか」
「得意…という訳じゃないけど、好きではあるかな」

突然の問いかけに驚きつつ、名前はそう答えた。もしかして辞書のいたるページにラインマーカーや付箋があったからだろうかと名前は見当をつける。それきりムンと黙り込んでしまった流川を名前が見つめていると、その会話を聞いていた木暮が人好きのする笑顔でこう話した。

「苗字は成績上位者の張り紙にいつも名前があるから、英語も得意のうちだと俺は思うけどなぁ」
「エ!そーなんですか!?」
「確か2年の時の学年末考査は5位以内だったな」

目を輝かせた彩子に赤木も同意する。勉強は嫌いな事ではないけれど、こうして友人達に大袈裟に褒められるようなことでもないように思えて、名前は何だか恥ずかしくなる。困ったように笑い横髪を耳に掛けた名前の肩を、彩子が力強く握りしめた。

「先輩、次の定期考査の時、バスケ部のベンキョー会に参加してくれませんか!?」
「え?」
「ホラ、うちは問題児ばっかりで…ネ?」

彩子に勢いよく肩を叩かれた流川や遠くで肩を跳ねさせた桜木を見て、名前は妙に納得してしまった。これは彩子達も苦労するだろう。しばし悩んだ名前だったけれど、最終的には勉強会への参加を承諾した。縋るような彩子の視線も理由のひとつだったけれど、もうひとつの理由は流川だ。先程口をつぐんで言葉には出さなかったけれど、きっとあの時流川も、英語を教えて欲しいと思っていたのではないかと名前は感じたからだ。いつもなら頼ってくる流川がなぜ言わなかったのか、名前はそこまでの理由はわからないけれど、可愛い後輩達の困っている姿は放って置けなかった。名前の返事に、彩子はもちろん赤木や木暮も思った以上に喜んでくれて、名前はきちんと役目を果たそうとひとり気合いを入れ直したのだった。
そして、そんな名前の横顔を、流川は自分でも気づかないうちに、瞬きもせずに眺めていた。


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