12.結わえた言葉をひとさじ

今日は外で体育があったせいだろうか、昇降口にはいつも以上に砂が溜まっている。名前は何度もホウキを動かしちまちまと砂を集めては外に捨てているけれど、なかなか終わりが見えなかった。腕時計を見ると、掃除時間はあと5分ほどしか残っていない。隅々までキレイにするのは諦めるのが賢明だと、名前はその下に砂が溜まっているであろうすのこを見下ろしてため息を吐いた。

「苗字、もう終わろうぜってあいつらが」
「あ…うん、そうだね」
「俺ついでに片付けてくるよ。貸して」
「ありがとう!」

そう言ってくれるクラスメイトの厚意に甘えようと、名前が掃除道具を渡そうとした時だった。名前の二の腕が後ろから引かれて、傾いた背中は誰かの胸あたりにぶつかった。名前も驚いたが、それよりも目の前のクラスメイトがあんぐりと口を開けているのに気を取られる。誰だろうかと上を向いた名前の視界に、つんと尖った美しい顎が映った。

「流川くん?」

静かにクラスメイトを見据えていた視線が、ついと名前の顔に落ちる。

「居た」
「…私のこと探してたの?」

ぽつりとこぼされた一言に名前が尋ねると、流川は鷹揚に頷いた。とりあえず腕を離してもらい、話を聞くために名前は流川に向き合う。すると流川は、徐に右腕を差し出して握り締めていた手を開いてみせた。ころり、大きな手のひらの上で転がるのは小さな丸。真ん中に校章が刻まれたそれは制服のボタンだった。

「取れました」
「あら」

名前が流川の制服を眺めると、なるほど確かに、並ぶボタンの中にひとつぽっかりと空いた合間がある。それは奇しくも一番心臓に近い位置のもので、卒業時には女生徒が渇望するのだろうなと名前は他人事に思った。

ボタンが取れたなら付ければ良い。単純な話だけれど、流川には難しかったのだろう。流川の生活力の低さが垣間見えるようだ。取れたボタンを握り締めたまま名前を探してさまよっていたのかと思うと、名前は流川のことが年相応に可愛らしく見えてくる。心做しかその表情もしょげているようで、名前は思わず笑みをこぼした。

「ボタン、直そうね」
「うす」

幸い、掃除時間が終わってから帰りのホームルームが始まるまで数十分の空き時間がある。名前は相変わらずぽかんと呆けているクラスメイトに掃除道具をお願いしてから、流川を連れて特別教室棟に向かった。

お目当ての家庭科室は既に掃除が済んだようで施錠されてしまっていたけれど、名前には関係ない。制服のポケットからカギを取り出すと、慣れた手つきで南京錠を外す。そんな名前の様子を見ていた流川は、不思議そうに問いかけた。

「先輩、カギ…」
「あれ…流川くんには言ってなかったかな。私、家庭科部だからカギを持ってるの。これでも部長なんだ」

誰もいない家庭科室は静まり返っている。名前が扉の横のスイッチを押すと、教室の前方から順番に白い電灯が点っていった。流川を適当な椅子に座らせた名前は、戸棚から自身のソーイングセットを取り出した。縫い針に糸を通して準備する名前の白い指先を、流川はじっと見つめる。その視線は焼き付きそうなほどあまりにも熱烈だけれど、それは恋情を含んでいるというよりもむしろ無垢な子どものように純粋な興味からだった。

「ふふ…流川くんも中学の時家庭科の授業で習わなかった?玉結びとか玉止めとか」
「習ってないです」
「ウソ。中学では必修だもの」
「…知らねー」
「覚えておいたら将来役に立つんだよ、今日みたいな時にも」
「先輩がいるからダイジョーブ」
「え?」
「…」
「もう」

びっくりした名前は思わず流川の顔を見たけれど、その表情はいつもと変わらず凪いでいた。名前が先輩としてずっと流川の側にいることはない。少なくとも1年後には名前はこの学校を卒業する。同じ学校という接点がなくなれば、名前は流川とたちまち会わなくなるだろう。それは流川も分かっている筈なので、可愛い冗談だと名前は笑った。名前が軽く受け流したことに、流川は何も言わなかった。

「流川くん、上着貸してくれる?それからボタンも」

名前の頼みに頷いた流川は、目の前で学ランを脱いだ。黒い布地の下から姿を現した白いワイシャツが、電灯の明るい光をレフ板のように反射し、流川の整った顔立ちをより一層強調させる。学ランを脱ぐ、たったそれだけのことで流川がいつもの流川ではないように見えて、名前は狼狽えた。ようやく見慣れてきた筈の美貌が、また牙を剥いてきたのだ。名前は視線を背けて流川の存在を無理やりにでもシャットアウトさせようとしたが、腕の中の学ランに仄かに残る温かさがそれを阻む。もうどうしようもなくなって、名前は火照った頬を隠すように俯いた。流川がその様子に気づいていないことだけが、名前の救いだった。

前立ての部分を上にして学ランを膝の上に広げると、体格の違いから名前の脚はすっぽりと隠れてしまう。床につかないように袖や裾をどうにか上手く手繰り寄せ、名前は手早くボタンを縫い付けた。

「…はい、どうぞ。多分大丈夫だと思うけど、一応着て確認してみてね」
「あざす」

学ランを羽織りいつもの姿に戻りつつある流川にホッと息を吐いた名前は、縫い針や糸を片付けながらその様子を見守る。

「ちょっと頑丈めに縫い付けたから、簡単には取れないと思うよ」
「ン」
「でも女の子たちには怒られちゃうかも。みんな卒業式には取りに行くだろうし…」

名前は去年の卒業式の日を思い出していた。名前の1学年上にはとてもモテる先輩がいたのだが、彼の卒業時には学年入り乱れて彼の元に殺到した女生徒が学ランのボタンを取り合ったのだ。流川はその先輩を超える人気ぶりなので、2年後はもしかしたら地獄絵図かもしれない。そんなことを思い名前が苦笑いをこぼすと、ボタンを留めながら流川は口を開いた。

「これぐらいで良いす」
「本当?良かった」
「それに」

不自然に言葉を切った流川に名前が顔を上げると、するり、流川の細長い指が付けたばかりの第二ボタンのふちを優しくなぞっていた。ゆうるりと向けられた視線が、名前を射止める。

「これはオレのなんで」

いつも冷涼なその瞳が、知らない熱を灯していたような気がして、名前は何も言えなかった。


back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -