10.たなびく乙女の髪

5月に入り、木々の青さは日々増している。昼は心地よい日差しが降り注ぐけれど、朝晩はほんの少し肌寒い。名前はカーディガンの袖を伸ばすと、指先までを包み込んだ。
いつもよりゆっくりと家を出たせいか、通学路を歩く生徒の姿は少ない。それだけで見慣れた景色が違って見えて、名前は新鮮な気持ちで歩みを進めた。

横断歩道で信号待ちをしていると、名前のすぐ後ろで自転車のブレーキ音が鳴った。邪魔になっているだろうかと肩越しに目線を遣ると、そこには眠たげな瞳でハンドルを握る流川がいた。今にも眠ってしまいそうに見えて、名前は慌てて声をかける。

「流川くん、おはよう」
「……、先輩」
「…もしかして寝ぼけてる?」
「…寝ぼけてねー」
「そのまま運転してたら危ないよ」

流川はそう言うが、瞬きのスピードが常時よりも明らかにゆっくりであったから、虚勢であることはすぐにわかった。名前の嗜めをどう思ったか定かではないが、流川は素直に自転車を降りると名前の隣に並んだ。ひとつ、小さな欠伸がこぼれる。重たげに伏せられた瞼のせいか、いつも以上にまつ毛が強調されて見えて、名前は慣れてきたとはいえそのアンニュイな雰囲気にドギマギしてしまう。

「いつもこの時間なの?」
「イヤ」

信号が変わり、歩き出した名前を追うように流川も覚束ない足取りで歩き出した。時折、回転するホイールがカラカラと音を立てる。向こう側から歩いてきた2人組の女子高生が、流川と名前を見て何やらヒソヒソ話をしていたので、名前は少しだけ居心地が悪くなった。視線を落とすと、隣を歩く流川のローファーが視界に入る。自分と比べると随分大きいその靴にびっくりして、一体何センチなんだろうと名前が考えていると、不意に二の腕を引かれて名前はたたらを踏んだ。

「わ!」
「危ねー」

流川の肩に軽く頭をぶつけると同時に、名前のすぐ脇を別の自転車がすごいスピードで通り抜けて行く。思わぬ事故に巻き込まれるところだった名前は、バクバクと打つ心臓の辺りを抑えた。今の出来事で流川はすっかり目を覚ましたようで、冷涼な瞳で名前を見下ろしている。

「び、びっくりした…。流川くん、ありがとう」
「うす」
「流川くんにあんな風に言っておいて、私の方が危なかったね。気をつけなきゃ」

先輩ぶっておいて助けられるなんて、と名前はやや居た堪れない気持ちになった。いつも世話を焼く立場である名前からしたら、こうして後輩に頼りない姿を見られるのは何だか恥ずかしくも感じられた。照れを隠すように横髪を耳にかけた名前は、気を取り直して再び歩き出したが、細い路地に差し掛かったところで流川から再び腕を掴まれた。

「流川くん?」
「…」
「?」
「乗ってください」
「え?」

それだけ言うと、流川はいそいそとサドルに跨った。そして次は名前の番だとでもいうように、じっと見つめてくる。名前は流川と後ろの荷台を交互に見たが、流川の表情は変わらない。このこう着状態はきっと、どちらかが折れるまで続くのだろうが、流川が折れるなんて未来を名前は想像できなかった。それでも、男の子と二人乗りする度胸なんて名前にはなかった。

「い…いいよ、流川くん。私重いし、学校まで行くのは大変よきっと。流川くんはいつも通り乗って行って。私もちゃんと周りには気をつけて歩くから。ね?」

両手を合わせた名前はそろりと流川を見上げたが、何のリアクションもないまま沈黙が満ちる。そのまま数秒。最終的に折れたのは、やはり名前だった。

「…わかった。わかったから、そんな瞳で見ないで…」

熱心な瞳で見つめてくる後輩に、名前が勝てるはずもなく。ようやく決心がついた名前は、周りに同じ学校の生徒がいないことを確認して、そっと荷台に腰を下ろした。そして、恐る恐る流川の背中あたりの服を掴む。瞬間、流川が驚いたように後ろを振り向くので、名前は急いで手を離した。

「ご、ごめんね!痛かった?」
「――、」
「え?」
「…小せー」

上手く言葉が聞き取れなかった名前が聞き返すと、流川はぽつりとそう零し、徐に名前の手首を取った。まるで初めての物を観察する赤子のように、名前の手をじっと見ている。流川の目線に合わせられた腕がぷらんと揺れて、名前はその様子をどこか他人事のように見つめていた。手首から伝わる熱が、じわじわと名前の体に浸透する。熱くなった頬を誤魔化したくて、名前は明後日の方向を向いた。

「流川くんに比べたら、誰でも小さいよ…」
「ボールも掴めねーす」

いつも使っているバスケットボールを頭に思い浮かべたのか、若干哀れみの色を瞳に浮かべた流川に名前はきょとんとして、そして吹き出した。名前はプレイヤーではないから関係ないのだが、バスケ中心の流川からしたら大ごとらしい。何でもバスケに当てはめて考える後輩が、何だか可愛らしく感じた。いまだにくすくすと笑いをこぼす名前に、原因が自分の発言だと分かっていない流川は首を傾げて不思議そうな顔をしていたが、すぐにどうでも良くなったのか、掴んでいた名前の手首を自身の身体の前に持って行くと、ペダルに足をかけた。そのせいで前のめりになった名前の頬がぺたりと流川の背中につく。慌てて顔を上げると、流川は肩越しに名前を見下ろして言った。

「そんな小さい手だと振り落としそうなんで、ちゃんと掴まっててください」

動き出した自転車が、通学路を辿って行く。最初は慣れない二人乗りに緊張していた名前だったが、頬を撫でる風の心地よさに、いつの間にか笑顔になっていた。流川の襟足がさらさらと揺れているのを、名前は静かに見つめる。髪まで美しいなんて、神様はよほど流川のことが可愛いんだなと密かに思った。

「流川くん、いつもこんな景色見てるんだね」
「うす」
「私も春の間は自転車通学しようかな」
「後ろ乗ってけば」
「気持ちだけ貰っておくね。ありがとう」
「ム」

そのまま名前と流川が穏やかな会話を交わしていると、いつの間にか自転車が学校近くの駄菓子屋の前に差し掛かっていたことに気づき、名前は慌てて流川に声をかけた。

「流川くん!」
「うす」
「ここまでで大丈夫!」
「…」
「お願い、学校まで行くと誰かに見られちゃうから…!」

その言葉に、流川はとてつもなく不満そうにしていたが、名前があまりにも必死に頼み込むものだから、学校の三つ前の曲がり角あたりで名前を下ろしてくれた。ほっと息を吐く名前を、流川はまだ不機嫌そうに睨め付けている。苦笑いした名前は、流川の機嫌をとろうと顔を覗き込んだ。

「乗せてくれてありがとう」
「…うす」
「ごめんね。でも、流川くんにも迷惑かけちゃうから」
「メイワク…?」
「ホラ、3年の誰とも知れない先輩と流川くんが二人乗りしてた――なんて噂されたら困るでしょう?」

教室にいる名前の元を訪ねてきたくらいならばいくらでも誤魔化しようがあるが、二人乗りとなるとそうはいかない。ただの知り合い程度でする筈がないからだ。万が一噂になると、流川も煩わしいだろう。それに、名前も数多の生徒に追求されるに決まっている。それこそ、前の比ではないくらいに。名前がいくら流川を「みんなと変わらない高校生」だと認識したとして、周りがそう思っているとは限らない。それどころか、入学して1ヶ月経とうとしている今、流川の人気はますます鰻登りなのだ。

「いいっす」
「…え?」
「別に困らん」

それだけ言うと、流川は自転車を押して歩き始めた。その背中を呆然としたまま見送った名前は、流川の言った言葉の意味がわからないままだった。


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