▼ かわいいひと
※ゾロの出番がほぼありませんがゾロと付き合っています。
それは何気ない麦わらの一味のひとコマだった。
「あ」
「ん? どうしたんだいレディ」
ナマエが腕まくりをしたサンジの横に並んで、今しがた空になったばかりの大量の大皿を片付けていた時のこと。声の漏れた方へ視線を向けると、いたずらっぽく笑う白い歯がサンジの視界に飛び込んだ。
「ネクタイが曲がってますよ。コックさん」
「……!」
彼女がふと気になった小さな歪みを指摘すれば、『コックさん』の口は半開きになった。流しの中で皿を持ったまま、泡だらけの彼の手はピタリと止まる。
洗い終わった皿を片付けていたナマエの小さな手が、黒いネクタイのノットに触れる。されるがままのサンジは、眼下の光景を己の欲望――つまり鼻血――で汚すわけにはいかないとぐっと唇を噛み締めた。
「ん、直った」
きゅ、と締め直した結び目が多少苦しいことは伝えず、サンジはひとつ瞬きをする。自分の胸元を微笑みながら見つめる、可憐な女性。
たかが数秒のこの行為に対して、彼女のなんと満足気なことか!
スマートなお礼の言葉を頭の中で吟味することコンマ四秒、噛み締めた唇を離そうとしたところで思わぬ追撃が彼を襲う。
「やっぱりカッコイイね」
皿を割らなかったのは料理人としてのプライドだろうか。それでも男の威厳は噴き出した欲望とともにサニー号の床に沈んでいった。
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「アンタって本当に言葉足らずね」
「何が?」
「足らずというかタラシというか……」
そう言ってため息をついたウソップの横をチョッパーが駆け抜けていく。もはや飽きる程見たはずのこの場面でも、チョッパーだけはいつでも真剣にサンジの心配をしていた。
「カッコイイじゃん、スーツとかネクタイ」
「ああ……うん、そうねえ」
呆れ顔のナミが食後のドリンクに口を付ける。先程『言葉足らず』と呟いたナミは、そんなところばかり似た者同士だと目の前の彼女から目線を逸らした。
テーブルからやや離れたところで狸寝入りを決め込んでいる剣士の右目が薄らと開く。ナミと目線が合って、そのままゆっくり瞼が下りた。
『言葉足らず』も『言葉少な』なのも、ここまできたらさして大差ない。何故二人が意思疎通出来ているのか、ナミは不思議で仕方なかったが、そんな事情を根掘り葉掘り聞くほど無神経でもなかった。
「ま、サンジ君みたいな服装するヤツ、まずウチには居ないしね」
ナマエの言いたいことを汲み取って、そう発言するに留まる。結局、こうして言外に滲んだところを拾う人間ばかりだから、コミュニケーションが成立してしまっていることをナミは重々承知していた。
「そう! 勿体無いよね、着たら絶対カッコイイのに」
「ヨホホ、私も好きですよ! ジャケットやシャツやタイ!」
「ブルックはちょっと……、違くない?」
「ショック……!」
着たらカッコイイ対象が誰なのか名言しないまま、乙女の話は進んでいく。
そんなダイニングの均衡を破ったのは、意外にも楽しそうなロビンの一声だった。
「それなら、面白そうなイベントがあるわ」
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「何!? またドレスローバか?!」
「ドレスコードね、ルフィ」
「ドレスロードか」
「……もうそれでいいから早くサンジのとこに行ってきて。美味しいお肉が待ってるよ」
「オゥ! 肉!」
ドレスコード必須のパーティーをいつもの宴と似たようなものだと解釈していたルフィは、意味を理解した途端に一瞬でその興味を無くした。しかし、ナマエが正々堂々と『彼』のドレスコードを見たい為、そしてサンジが美女達との戯れを期待する為、二人の口車に一度乗せられてしまえば、誰がなんと言おうと船の進路は決まってしまう。
かくして、面白そうなイベント――どこかの物好きが主催したお尋ね者大歓迎の夜会に向けて、サウザンド・サニー号の船内は浮き足立っていた。
「さて、ナミー! 髪の毛やってよ!」
「五万ベリーよ」
「嘘!?」
「ホント」
「わたしからもお金取るの!?」
頬を膨らませた彼女の姿にクスクス笑うロビンが構えたのを見て、ナミが慌ててその名前を呼ぶ。
ロビンからしてみればどちらもまだまだ可愛い女の子であることに変わりはない。が、今日の軍配はしっかり者とも言える上の妹ではなく、怒り心頭な態度を露わにする下の妹に上がった。
「これでどうかしら?」
どこからともなく現れたロビンの手が、慣れた手つきで細い髪の毛を編み込んでいく。自分やナミとはまた違った系統のドレスに合うように、一束ひと束丁寧に。纏めた髪をアクセサリーで彩るのが楽しいということを、ロビンはこの船で初めて知った。
姿見に駆け寄っていく小さな背中を見て柔らかな表情を浮かべるロビンに対して、拗ねた口調とは裏腹にナマエと似たような顔でナミが話し掛けた。
「もう……せっかくの稼ぎ時だったのに」
「フフ。あら、それはごめんなさい」
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いつだったか、ウソップは一度だけ興味本位で彼女に尋ねたことがあった。
『好きなところ?』
『あんだろ〜、一つや二つや三つくらい』
ジョッキを持ったまま悩むナマエが話してくれればそれで良し、そうでなくても恥じらう様子やはぐらかすことがあれば、酒の肴にちょっとからかってやろうと考えていたのだ。
『……ところ、かな』
『え?』
しかしあっさりと返ってきたのは想像にもしていなかった返答で、思わず聞き返した彼に彼女がもう一度放った言葉を、ウソップはぼんやりと思い出していた。
豪華な会場を前にして、一味はそれぞれ自分の欲望に正直に行動する。筆頭は言わずもがな、船長と料理人だった。
が、ウソップはふと疑問に思う。
肉を目掛けた船長と、女性目掛けて進む料理人。普段ならもう一人、勢い良くとはいかないまでも、酒に向かってまっすぐ向かう剣士が居そうなものである。社交的な場に似合わない性格ではあるが、かといって怖気付くタイプでもないだろう。
「ゾロ、お前も」
行かねェのか、振り返ってそう言いかけた口を咄嗟に止めた。
「オイ、――ナマエ」
ウソップから少し離れた場所。彼女の名前を呼んで、正装のゾロが擦り寄っていく。呼ばれた本人はてっぺんからつま先までゾロを見たあと、その顔を見上げて嬉しそうに笑った。
「やっぱり似合うよ、ゾロ」
「そうじゃねェ」
「そうじゃないことない」
いや何の話をしてんだ。心の中でウソップは呟いた。
「……曲がった」
「? 何が?」
「締め方が分からねェ」
ン、とゾロが少し顎を持ち上げる。片手は刀の柄に、もう片方はポケットに突っ込んだままのいかにもオレサマな態度に、なんだか知らんが偉そうだな、と呆れたウソップはナマエの顔を見た。きっと自分と似たような呆れ顔をしているに違いない。
そう思った彼の目線の先には、にこにこと楽しそうな女の顔があった。そこでやっと、なんてことのない日常のひとコマを思い出す。
「ふふ」
「……ン」
「『ネクタイ曲がってますよ』、剣士さん」
狸寝入りしているとは思っていたが、まさかアレを気にしていたのか。ウソップの口がぽかんと開いた。
彼女のしろい手が、お世辞にも綺麗とは言えないネクタイの結び目に触れる。男が正装なら女の方も正装で、いつもより少し高い身長はいくらか手直しをやり易くしてくれていた。
そうして先程よりもきゅっと締められたネクタイに、ゾロは「……締めすぎだ」と一言呟く。
「そう?」
やってもらっといて文句言うな、なんて言葉は彼女の口から決して出ない。へらりと微笑んで、すぐに結び目に指を差し込む。
「ハイ、直りました」
ぽん、と胸元を叩いて微笑んだ彼女に、ゾロはようやくポケットから手を出して、そのまま薄いドレスを纏う腰に添わせる。じっと見つめたまま口を開かない『剣士さん』は、まだやることがあるだろと言わんばかりにその手に少し力を込めた。
厚い胸板に手を添えたまま、何も言わないゾロの心を読んだかのように彼女は笑う。
「やっぱり、カッコイイね?」
「……フン」
「あっ、ちょっとゾロ!」
男が満足したのかどうかは誰にも分からないが、ぐっとナマエを自分の方に抱き寄せてその小さな耳元に顔を寄せる。
「解くのもお前がやってくれるんだろ?」
「!」
ぼ、と一気に赤くなった顔を遠目に見て、ウソップはあれこれ考えるのをやめた。
やがて棒立ちの彼女を手放して、上機嫌なゾロがこちらに歩いてきた。仲間でなければ分からないかもしれないが、確かにその表情は楽しそうだ。
「なんだウソップ、一緒に行くか?」
「……ゴチソーサマ」
「は? 今から食いに行くんだろ」
きょとんとした、ガタイの良いスーツ姿の片目の男。これのどこが『かわいい』んだか、ウソップは一生分からないと思った。