▼ にくめないおとこ
その日わたしはめちゃくちゃ機嫌が悪かった。
後輩に頼んであった仕事が全く手付かずだった事とか、そのせいで上司に部下の教育について怒られたりだとか、だったらオメーも教育出来てないってことじゃねーかハゲ、とか。口に出すと、きっと雅治に女の子がそんな言葉使っちゃいかんぜよ、とか言われそうなので心の中でとどめておいたが、とにかく機嫌が悪かった。それはもう目線でハゲ上司の残り少ない希望を焼け野原にできるのでは? ってくらいには、見た目にもめちゃくちゃ不機嫌さが現れていた、らしい。同僚談。
なにも仕事で嫌なことが溜まってイラつきはじめた訳ではなく、そもそも女性に月に一度くるアレのせいで、わたしは朝から機嫌が悪かった。
これが全ての発端である。
月に一度じゃないこともあるけれどまあそれは置いといて、特に今朝は酷かった。ズキズキと身体の中で何かが暴れ回るような内臓の痛みと、それに伴う腰の痛みで、支度を済ませて出かける直前までずうっとリビングのソファで横になっていた。
「やば、昨日の夜洗濯物干したままなの忘れてた……」
「あーあー俺がしまうからなまえは寝ときんしゃい」
いつもわたしよりも少し後に家を出る雅治が、起き上がろうとするわたしを嗜めてベランダに出た。外の風が一気に部屋に入ってきて、わたしのテンションはまた下がる。寒い。行きたくない。行きたくないが仕事には行かなければならない。
「姉貴もよう唸っとったが、なまえもそんなに痛いんか」
「そりゃ個人差はあるけど今日は特に無理」
ほいほいと雑に洗濯物をしまいながら、雅治がふうん、と興味無さそうな相槌を打つ。とにかくお腹が痛すぎて、あとはきっとホルモンバランスとかそういうもののせいで、いつもは絶対思わないのに、雅治のそんな些細な態度にもめちゃくちゃ腹が立ってしまった、
ので。
「……俺が止めてやろうか?」
と、朝っぱらから何考えてんだか分かんない顔で聞いてきた雅治に向かって、クソヤロウ! と吐き捨てて家を飛び出してきたのだ。
◇
「で? それは惚気? あたしがあげた薬効いた?」
呆れたわ、と呟いた同僚がずず、と紙パックの野菜ジュースを啜る。彼女に貰ったバファリンは少し前から効いてきたのか、若干の眠たさはあるが今朝に比べればかなり症状は落ち着いていた。
「惚気じゃない、薬は効いた、呆れないで」
「あたしからしたら立派な惚気だよ」
お互いパソコンから目は離さずに、手も動かすけれど口も動かす。終業時間はもうすぐだった。
「イケメンの彼氏と同棲生活、羨ましいことこの上ないわ」
「そんなにイケメンがいいなら奴の部活仲間紹介してあげるよ。性格はともかくみーーんなイケメンだから」
「いや、性格もある程度大事かなあ……」
でも桑原くんはもう結婚してるからだめか。懐かしのテニス部のみんなの顔を思い出すと、なんかすこしだけお腹の痛みも和らぐような気がした。気がしただけだけれど。
イケメンの彼氏なのは認めるし、同棲生活がそれなりに幸せなのも……まあ認めてはいるが、今朝の話は決して、断じて、惚気ではない。愚痴だ。立てないくらい痛い時だってあるのに、それをふうん、の三文字で流した挙句、今どきヤンキーだって使わないようなセリフを吐きやがって。見た目は昔からずっとヤンキーみたいではあるけれど。
いつものわたしなら、笑って流して何言ってんの? で済んだだろうし、お酒でも入っていたならば、本当に? ってベッドまでお誘いされたかもしれない。でも今朝は無い。あれはマジで無い、いくら雅治でもありえない。
「まー、ツラいのは分かるけどさあ」
飲み終わった紙パックを捨ててデスクに戻ってきた同僚が、上司に隠れて帰り支度をはじめる。
「あくまで冗談で、なまえがそんなに怒るなんて思わなかったんでしょ。それくらい許してあげなよ」
この上ないド正論を突きつけられてエンターキーを押す手が止まる。
「来月も言われたら、やれるもんならやってみな! とでも言えば?」
「……それはいいかも」
思わぬ提案に二人でくすくす笑ってたら、向こうのデスクの上司がくるりとこちらを振り返った。もう帰る気か! と彼女に向かって怒り出したので、ごめんねと思いつつ、せっかく愚痴を聞いてくれたけれどざまあみろとちょっぴり思った。
デスクトップに隠れて笑いを堪えながら残ってた事務処理を終えて、恨めしそうな同僚を横目にわたしは堂々と帰り支度をはじめる。どうやら何かしらの仕事を押し付けられたようだった、ご愁傷さまである。
「お先に失礼しまーす」
定時を数分すぎた頃、ちょっと前までの不機嫌が嘘みたいに、雅治に『いまから帰るよ』とメッセージを送る。会社を出て電車に乗る頃には既読が着いて、変なスタンプと一緒に『おれも』とだけ返事が来ていた。何だかその三文字がしゅん、と申し訳なさそうにしているように見えて、帰りにスーパーでちょっといい牛肉でも買って帰ろうかなあなんてマスクの下でちいさく笑った。
◇
「お、来たな」
最寄り駅に着くと、わたしが行こうとしていたスーパーの袋、ではなく、近所のコンビニのビニール袋をぶら下げた雅治が改札で待っていた。わたしより職場が近いからか、家で着るようなスウェットに着替えている。だる着なのにこのまま外に居ても全然違和感がないので、イケメンは本当にずるい。
「仕事、はやかったね」
「今日は定時ぴったりじゃ。……腹、まだ痛いんか」
今朝からのいまなので、多少ぎこちなく話しながらも、アパートまでの道を歩く。子どもが悪いことしたみたいに気まずそうに聞いてくるので、こっちまでばつが悪くなりそうだった。
「朝より平気…………ごめんね。今朝、機嫌悪くて」
「ん、ええよ。俺も冗談言ってすまんかった」
どうやら雅治は何としてでもわたしより先に帰ろうと、定時で上がってすぐ家に帰り、コンビニに寄ってわたしの帰りを改札で待っていてくれたらしかった。どうせ帰る家は同じなのに、駅で待つところが雅治らしいというかなんというか、昔から結局何をされても憎めなくなってしまうところの一つだ。
「でも何でコンビニ?」
そう言うと、雅治は今度はいたずらっこみたいな顔をして、わたしの目の前までぐい、とビニール袋を持ってくる。反動で少しわたしの頬に冷たいものが当たって、思わずつめた、と声が出た。
「なまえのために買ってきたんじゃ、ハーゲンダッツ。クッキークリームと抹茶」
外は風がつめたい季節で、そしてわたしはお腹が痛くて、でも目の前にあるのは普段食べないちょっといいアイスクリーム。と、これは絶対喜ぶじゃろ、みたいな顔をした雅治。
今朝のわたしならたぶん怒り狂っていただろう。なんで冷やすもん買ってくるんだ、とか、時と場合を考えろ、とか。でもわたしの機嫌はあくまで悪かった、のであって、今はすこぶる良い。ちょっといいアイスクリームと、わたしの好きな味を知っていて、それさえ渡せば機嫌が直るだろうと思っている雅治と、一応話を聞いてくれた同僚のおかげである。
たぶん今日の夜もわたしのお腹は痛いままだろうな、そしたらまた怒るかもしれない。そう考えて、めんどくさい彼女でごめんね、と言ったら、そんなとこもすきじゃ、と返ってきたので、明日は堂々と惚気けてやろうと思った。