▼ 本音はマスクが食べました
もう何の合図をすることもなくなった万事屋の引き戸に手をかける。ガラリと開いた音に反応したのは定春だけで、元気のいいお出迎えにわたしはにっこり微笑んだ。家主達と違ってわたしには手荒な愛情表現をしない定春は、両手を塞いでいた荷物のひとつをくわえて先に奥へと向かっていく。履物を脱いで、ついでに脱ぎ散らかしてある黒いブーツも端っこに揃えて定春の後について行けば、普段以上にやる気のない目をした銀時とだらりとソファに沈む神楽ちゃん。ここ数ヶ月で閑古鳥すら鳴かなくなった殺風景なリビングには、江戸に蔓延するウイルスのニュースと彼女のお腹の音が鳴り響いていた。
「銀時、神楽ちゃん」
「……おー、なんだなまえか」
「なんだとはなによ、せっかく――」
ぐー、ぎゅるるる。
「食べ物のにおいアル!」
挨拶がわりに鳴ったような彼女のお腹の音は、わたしの言葉を遮った。定春がくわえた荷物と、わたしが手に持っている包みにはどちらも万事屋のみんなの為のおやつやお惣菜が入っていて、まさに鼻が利く神楽ちゃんが一目散にわたしに飛び付いてくる。
「わっ、待って、まだ手洗ってない……」
「早く洗ってくるヨロシ!」
帯を崩さんばかりにわたしの背中をぐいぐい押す神楽ちゃんに負けて、一度洗面所へと向かう。家から此処までの往復だけなのでどこにも触ってはいないのだが、一応このご時世だ。節約のために少々水で薄めた万事屋の石鹸がウイルスをちゃんと退治してくれるかどうかは、ちょっとわたしには分からないけれども。
「何、食いモン?」
「なまえが持ってきたアル!」
「マジか」
わたしが手を洗う間のほんの少しの時間で、居間に戻った頃には既に包みが開かれていた。神楽ちゃんは目を輝かせながら涎をたらしている。銀時もわたしには目もくれず、持ってきたお重のうちのひとつに釘付けだ。
「新八くんは?」
「家アル!」
「こんなご時世だからあんまうろつくな、って言われて暫く……あっテメッ、神楽! それ食うな!」
わたしの問い掛けに銀時がちらりとこちらを見る。その一瞬の隙をついて神楽ちゃんがこれでもかとおはぎを口に詰め出すので、早速戦争が始まった。甘党の銀時のために少し多めに作ったものではあるけれど、別に神楽ちゃんも新八くんも食べていいんだから、食うな、はちょっと大人気なさすぎるぞ、社長。
醜い争いを横目に、大人しく座り込む定春にも彼用のご飯を差し出せば、わふ! と大きな尻尾を振って黙々と食べ始めた。こちらの方がいくらかお利口さんである、喜んでいるようで何よりだ。
「しっかし、もごご、じゃんねんアル〇△×%※」
「食ってから喋れ」
「んぐふっ!」
「神楽ちゃんお茶、お茶っ」
銀時に取られまいと詰め込んだおはぎで苦しそうな神楽ちゃんに慌ててお茶を差し出す。何度見てもその体のどこに入っていったのかと不思議に思う、夜兎族の胃袋はブラックホールか何かなんだろうか。
新八くんの分、無くなっちゃったな。すっかり空っぽになったお重の一段を眺めていたら、ようやく落ち着いた神楽ちゃんが湯呑みをことりと置く音がした。
「残念アルな。新八はなまえの料理食べられないネ」
「食べられないっていうか……それはちょっと違うような……」
「いーんだよ、アイツにはダークマターがあるから…………やべェ何か悪寒がする」
「大丈夫? 噂のウイルス?」
「多分それよりも強力アル」
「?」
食べられないように君が食べたんでしょ、と思ったものの、自分の作ったものをたくさん食べてもらえるのは悪い気分ではない。特に神楽ちゃんはいつも美味しいと言ってくれるし、また新八くんが来る時を聞いて彼の分を作ってあげよう。
残りのおかずが入ったお重にも神楽ちゃんが手を伸ばすので、流石に嗜めて台所に持っていく。今日の晩ご飯や明日以降のために結構たくさん作ったつもりだったけれど、このぶんだと多分今日の夜にはなくなるな……。
「じゃあそろそろ行くね」
「なまえ、もう帰るアルか?」
「うーん、最近あんまり外に長居しないようにしてるから。今日はこれ持ってくるだけのつもりだったし」
「つまんないアル」
不貞腐れて呟く神楽ちゃんには大変申し訳ないが、勤め先からあんまり出歩かないようにと言われている手前、万事屋といえども罪悪感を覚えてしまう。
泊まって行くヨロシ! と大きな瞳をぱちぱちさせる神楽ちゃんに呼応するように、定春も元気に吠えてばさばさ尻尾を振る。こんなに期待されるとそっちにも罪悪感が芽生えてしまって、咄嗟に銀時、と呟けば、ポリポリ頭を掻いた銀時は一人と一匹にそれぞれチョップをかました。(一匹の方はその腕を噛んだけれど)
「なまえも忙しいンだよ、駄々こねんな」
「銀ちゃんはこんなに暇なのに……」
「酢昆布もう買ってやんねーぞ」
「給料出してから言えヨ」
メンチの切り合いが始まったところでそろそろと玄関の方に向かうと、神楽ちゃんを宥めてくれたのか、後ろから銀時がついてくる。
「送ってく」
「え、まだ明るいよ?」
「危ねーかもしれねェだろ」
「……ありがとう、ちゃんとマスクしてね」
「へーへー」
マスクを取りに猫背がちにリビングに戻る銀時の背中を眺めていたら、入れ違いに神楽ちゃんからもお見送りの言葉が飛んできた。
「なまえー! 明日も来るアルー!」
「ワン!」
「それは無理かもー!」
「オラ、行くぞ」
ぽん、と背中を叩かれて弾かれるように立ち上がる。伸びた前髪と気だるそうな目元しか見えない銀時は、超健康体なのにすごく具合が悪そうに見えて、可笑しくて笑ったら思いっきりデコピンされた。痛い。
◇
もうすっかり手を繋いで歩くなんてことのなくなったなまえの隣に並ぶ。手が触れるか触れないかの微妙な隙間は、積み重ねた年月がそうさせるのか、世間を騒がせているウイルスの所為か。……後者だと思いたい。
「おはぎ、美味しかった?」
「おう」
神楽みたいに素直に飯の感想も言わず、その代わりまだ明るいかぶき町を『危ないかもしれない』なんて言って隣を歩く。付き合いたての思春期男子じゃあるまいし、とは思いつつも、結局上手い言葉が出るわけもなく袖に手をしまって腕組みをした。
「よかった、じゃあまた作るね」
「ん、よろしく頼むわ」
そう言って笑うなまえには俺の意図が伝わっているといい。というより伝わってなきゃ困る。
大体、アレだ。俺もこいつもお互いもういい歳でそれなりの長い付き合いを経ているワケで、それを今更飯が美味いとか心配だとか、こんなご時世でなかなか会わねェから少しでも――とか、兎に角、言うまでも無いのだ。うん。そりゃあもう今や町中で付けてない奴は居ないくらいのマスクと同じ、当たり前の事であって。
悶々としながらも足はなまえのペースでゆっくり進む。特に何の会話が無くとも、この無言すらどこか心地良さがあるなんて、新八や神楽の歳の頃には考えつきもしなかった。
「銀時?」
「あ? なに」
「いや、もうわたしの家着くよ?」
万事屋からそう遠くない場所に住んでいるとはいえ、あっという間にたどり着いたなァなんて考えていたら、なまえは不思議そうに俺を見上げて呟いた。
「変な銀時」
「喧嘩売ってんのか? コレは変じゃないの、天然パーマって言って――」
「その話じゃないってば」
右手で忌々しい天パの束をひとすくいすると、可笑しそうに笑いながらその手をやんわりとなまえが払う。そしてなまえがその手と反対の腕を上げて、手、とまた呟いた。
「もう着くから、離して?」
「……」
小さな右手と連動する俺の左手。
ちゃっかり指が絡まったその手を立ち止まって見つめる。いつこうなったのか全く記憶に無い。ぱちぱちぱち、自分の瞬きの回数までやけにはっきりとカウント出来た。
テレビでは毎日ウイルスの危険性やら、アイドルが感染しただの濃厚接触だのそんな話ばっかりで。仕事は減るわ外出は減るわ、出費は減らねェわなまえと会うのはめっぽう減るわ。そんな日々が続いていることもあって、確かにまァ色んな意味で触れ合う機会は確かに少なかった、けれども。
「……コレは、ほら、アレだよ……お前が先に繋いで来たんだろーが」
臍の奥からぐちゃぐちゃの感情が脳みそまで駆け抜けて、訳わかんねェことを呟いて繋がった指に力をこめた。
目の前はなまえの住む家。路上で手を握ったまま立ち止まる男と女。数少ない通行人が不思議そうに俺達の横を通り過ぎていく。なまえは繋いだ手をそのまま下ろして、未だに瞬きを繰り返す俺に笑いかけてそのまま自宅の方に足を向けた。
「ふふ、うん、最近会えなくて寂しかったから、玄関まで来てね」
「……オウ」
嬉しそうに目を細めるなまえの半歩後ろを無言でついていく。部屋は二階にあるから、階段も一段後ろを登る。正直めちゃくちゃ気まずい、誰だ心地良いなんて言った奴、イカれてるぜ。
「送ってくれてありがと」
「……ん」
「またおはぎ持っていくね」
鍵を取り出すために、すっと離された手を何だか名残惜しく思って、マジで思春期男子かと心の中で溜息をつく。……何だかもう、どうでもよくなってきた。
鍵のあく音がすればそれは同時にお別れの合図になるワケで、フリーになった左手でなまえの手をもう一度とる。驚いたような目をこちらに向けた顔のマスクを下げて、自分の物も急いで顎までズラして屈む。力の抜けたなまえの手から鍵が落ちる音がして、俺の名前を呼ぼうとする口をもう一度塞いだ。
「ちょっ……、」
「なァ、コレ濃厚接触になんの?」
「……バッカじゃないの」
凄みの無い目で俺を睨みつけるなまえは、落ちた鍵を拾って俺のマスクを思いっきり顔に被せるようにずり上げた。
「次の休みは明後日だからね」
世界一可愛くない照れ隠しの言葉を残して、俺の返事も聞かずにバタンと勢い良く扉が閉まる。ワンテンポ遅れて内側から鍵の閉まる音がして、試しにコンコンとノックをすれば内側から同じようにノックが返ってきた。トイレか。
「明後日な」
ドアの向こうに聞こえるようにそう言えば、またコンコンとノックが返ってくる。
やっぱり何も言わなくても分かってるってモンなのよ。マスクの下でにんまり口角を上げて、軽い足取りで階段を降りていく。きっと言葉にしなくても十二分に伝わっているだろうけれど、そうだな、明後日は美味いくらいは言うべきかもしれねェな。