SHORT | ナノ


▼ さらば眇眇たる我が人生

※いつか連載にしようと思っているものです


 特筆すべき点のない、月並みな人生を歩んできた。そこそこに遊び、そこそこに勉強をし、部活動に打ち込んでみたりクラスメイトに告白をしてみたり。将来を見据えないまま大学へ進み、周りに合わせて就活をしてまあまあ希望の条件に沿った会社で働いて。履歴書の資格の欄には、運転免許と昔取った英検漢検くらいしか書く事なんてなかった。
 そんなわたしの人生最大の過ちは、多分その入った会社があんまり良くなかったということだ。オブラートに包んでみたけれど、平たく言えばブラック企業である。昨今話題に上るほどの悲惨さでは無いかもしれないが、その日もわたしは終電に飛び乗ってほっとため息をついたところだった。
 今のところ電車に飛び込むほどではないが、それでも激務は激務だ。空いてる席に腰を下ろせば途端に押し寄せる疲労と睡魔。転職したくても、そんな時間の余裕も無いし新しく面接受ける為に休むのもな……と考える途中で、いつも半ば気絶するかのように意識がプツンと切れてしまう。終点近くの駅に住むことにして良かったなあ、と考えつつ、瞼の重力に逆らえずいつも通り膝の上に置いた通勤カバンをぎゅっと抱き締めた。

「――さん、お客さん! 終点ですよ!」

 車掌さんの声でハッと飛び起きた。
 まだ少しぼうっとした頭のまま、肩を揺すって起こしてくれた彼の顔も見ずに慌てて電車を降りる。とうとう今日は終点まで寝てしまった。もう蓄積された疲労で体が限界を迎えつつあるのかもしれない。
 歩くべきかタクシーを使うべきか、覚束無い足取りで階段を下りつつぐるぐると悩む。心做しかいつもより階段が長く感じて、ああやっぱり今日はお金がかかってもタクシーで帰ろうと思って定期をカバンから取り出す。
 ピンポン。改札の赤いランプが光った。

「おかしいな」

 定期の期限はまだ切れてないし、お金もいつも余分に入れているのに。今日コンビニでコーヒー買うのに使ったけれど、それにしてもまだ千円以上は残っている筈だ。
 試しにもう一度タッチする。ピンポン、無機質な音は変わらなかった。
 日付もとうに越した終点の駅。ガラガラとシャッターを下ろす音や、ベンチから一ミリたりとも動かない酔い潰れたサラリーマンを動かそうとする駅員さんの声が耳に入る。これはわたしも相当迷惑に思われるに違いない。

「すみません、何かタッチしても反応しなくて」
「あー……はい、じゃあ残高見ますね」

 仕方なく改札横の窓口に向かえば、何とも眠たそうなおじさんがひったくるようにわたしの手からパスケースを奪った。そんなに乱暴にしなくたっていいのに、わたしが来なければ早く帰れたってか。自分が不運な環境で働いているせいか、どうにも働く人に優しくなれない。
 奥の機械にパスケースを乗せると、ピピ、と音がしておじさんは首を傾げた。やっぱり残高が足りなかったのかな、だとしたらどこで使ったんだろう。疲れのあまり無意識にチョコレートとか買っていたんだろうか。

「お客さん、これ来る時は大丈夫だった?」
「え、はい」
「ちょっと機械が読み取れなくて……磁気不良かな?」

 機械で何度か試しているようだけれど、相変わらずピピ、と音が鳴ってはおじさんがうーんと低く唸る。退勤間際にこんな面倒くさいこと、申し訳ない。でもわたしも早く帰りたい。
 早く帰りたいのは向こうも同じなのか、わたしにパスケースを返すなり今日は通っていいよ、と改札の外を指さされた。

「いいんですか」
「もう遅いしね。今度自己申告ってことで」

 おじさん、さっきはむっとしちゃってごめんね。なんて優しいんだ。ただ面倒だっただけかもしれないが、それはそれでわたしにとってはラッキーだった。
 ぺこりと一礼して改札を通って、手の中のパスケースをまじまじと見つめながらタクシー乗り場の方に向かう。いつ磁気不良になったんだろう。こういうカードって電子機器とずっと一緒に入れておくと良くないんだっけ? スマホやタブレットなんかとは離したところに入れておいたつもりだったけれど、まあそういうこともあるか……、何て呑気に考えてふと目線を上げて絶句した。

「タクシー…………、はっ?!」

 タクシー乗り場であるべきところが、いつの間にか噴水になっている。人間本当に吃驚するとマジで『はっ?!』って出るんだな。真夜中に結構なボリュームの声を出したので、何人か通りすがりの人が振り返ったがまた元通り歩いていった。薄情な都会の縮図だ。
 いやいや、今朝はしっかりタクシー乗り場でしたよ。そんな何の予告もなしに一日で改修工事なんてする訳ない。疲れてたし改札でトラブルがあったし、ぼうっと歩いてて間違えた方向に来てしまったのかも。いつも使わない側の改札には噴水広場みたいなものがあったような気がしなくもなくもない。
 方向転換しようと後ろを向いて、ふと、本当に何気なく上を見てその駅名を見た瞬間にたしはまた絶句した。
 さっきの考えは訂正だ。人間本当に吃驚するともう声すら出なくなる。開いた口が塞がらないとは正にこのことだ。
 米花町。
 駅の看板には確かにそう書かれていた。

「べ、べいか? 米花町?」

 完全に眠気が吹っ飛んで瞬きを繰り返し、漫画よろしく目をこすって五度見くらいはした。まごうことなき米花町だった。

「どういうこと……」

 車掌さんに起こされてから一度も触っていなかったスマートフォンを手に取ってみる。いつもの終電の時間よりも幾らか早い時間を表示していたが、その電波は圏外だった。
 地図アプリも起動出来ない。エラーが表示される。ネットも接続できない。圏外だから。駅にはある筈のフリーワイファイも拾えない。これはもう原因が分からない。とにかく残りの五十パーセント程の電池が許す限り、明るく光る四角い板に成り下がっていた。嘘でしょ。

「嘘でしょ……」

 余りにも信じられなさすぎて頭で考えていたことが口からも溢れ出てしまった。右手にスマホ、左手にカバン、よれたスーツと化粧でシャッターの下りる駅を前に立ち尽くすわたしは、一体どうしてしまったというんだ。ここはどこ、わたしは誰。ここは米花町、わたしはみょうじなまえ。……そんなことある?
 電車に乗って眠ってしまったまま、夢の続きを体験しているだけだと思いたい。けれど頬を抓っても痛いし長時間のパンプスで浮腫んだ足も痛い。出来れば動かしたくない足をよろめきながら動かして、改札の横にひっそり佇む公衆電話に駆け寄った。スマートフォンが広まったこの時代、最後に使ったのは何歳の時だったか。
 震える手で財布を取り出して十円玉を握り締める。重たい受話器をとって確かに硬貨が飲み込まれたのを確認し、一番最初に思い付いた実家の固定電話をダイヤルしてみる。

「『おかけになった番号は、現在使われておりません――』」
「……うそ」

 無感情な案内の声に、思いつく限りの覚えている電話番号を片っ端から試していく。アプリやソーシャルネットワーキングサービスばかりのこの時代の弊害だ、記憶の中の番号もアドレス帳に入っている電話番号も底を尽きた。ついでに硬貨も無くなった。
 誰にも電話は繋がらなかった。

「いや、いやいや嘘でしょ。何これ。どうすんの」

 何だか一気に力が抜けて電話ボックスに凭れてずるずると座り込む。背中が汚くなろうがパンツが見えようが関係なかった。手元のスマホの電池は残り四十八パーセント。何回見ても圏外。周りを物理的に明るく照らすだけなんて、本来の役割の一パーセントも果たしてないよ。
 暗いアスファルトに落ちたわたしの影の向こうに、誰かの足が見えた。男物の革靴っぽい。そりゃあ終電が過ぎた駅の前に項垂れた女が居たら見ますよね、それが現実ならの話だけれど。

「大丈夫ですか?」

 どこか聞き覚えのあるその声は間違いなくわたしに掛けられたもので、ゆっくり顔をあげると綺麗な金髪が目に飛び込んできた。
 嘘でしょ。
 今度は口から漏れずに済んだ。う、まで出かけたから恐らく今すごく変な顔をしている。米花町の次は安室透? いや降谷零? この際バーボンでも何でもいいけれど、いよいよわたしの頭がおかしくなったかもしれない。だって寝て起きたら米花町に居て、携帯は繋がらなくて、電話は全部現在使われておりませんで、漫画の登場人物と会話している。

「大丈夫ですか? 立てますか?」

 顔を上げたまま一言も言葉を発しないわたしを不審に思ったのか、彼はもう一度問い掛けてきた。それどころかわたしが動けなくなったのかと思ったのか、一緒にしゃがみこんで手を差し伸べてくれた。ああ、綺麗なスラックスの膝が汚れてしまう。

「立てます、大丈夫です」

 上擦ったけれど受け応えが出来たわたしを見て、彼は一瞬安堵の表情を浮かべた。けれど一向に立ち上がろうとしないのをどう捉えたか、失礼、と一言言い放つとわたしの脇の下にぐっと両手を差し込んで無理矢理わたしを立たせた。力が強い、そしてちょっと脇が痛い。

「女性がこんなところでこんな時間に危ないですよ。……と言っても、男の僕では説得力が半減ですね」
「……はあ」

 街灯に照らされる金髪も、へらりと笑った顔も綺麗だ。

「宜しければタクシーを呼んできましょうか?」

 確かに初対面の男性にこんなところでこんな時間に話し掛けられたら、普通の女性はとても警戒するし、結構ですと言って自力で帰るかもしれない。勿論世の中には下心の無い優しい人は沢山居るだろうけれど、一目でそれを見抜けるような力は持っていないのだ。
 ただ、幸か不幸か、っていうか完全に訳が分からない状況なのだが、わたしの想像通りならこの人は多分下心の無い優しい人の部類に入る筈だ。そして初対面とも何とも言いづらい。

「タクシー……」
「僕が送っていく訳にはいかないですが、心配ですので。もし財布の中身がご心配でしたら、幾らかお貸し出来ますよ」

 この人、誰にでもこんなことするのか。凄い人だな。この状況を俯瞰するわたしがそんなことを考える。一方で、状況を飲み込めないながらも理解しようとするわたしが、そんなこと考えてる場合じゃないと警鐘を鳴らす。
 わたしの家、あるの?

「……お金は結構です。ありがとうございます」
「そうですか、ではタクシーを何処かで――」
「あの」
「はい?」

 タクシーを拾おうと膝の汚れを払った彼を呼び止めて、恐る恐る自分の住所を口にしてみた。

「この場所、此処から近いですかね」
「……初めて聞く地名ですね。調べてみましょうか、漢字はどうやって書きます?」

 知らなかった。
 彼が知らなかったら存在しないのではないかという不安が一気に押し寄せる。自分のスマホを取り出して、恐らく地図アプリを開いた彼はわたしの目を覗き込んでぎょっとした顔をした。目の前で見知らぬ女が突然涙を流しはじめたら、まあ誰だってそういう反応をするだろう。

「今の一万円札は誰ですか」
「……は?」
「一万円札、書いてある人」
「福沢諭吉ですけど……大丈夫ですか?」

 今日三度目の大丈夫ですか、に返事は出来なかった。大丈夫じゃない。
 ふくらはぎに力を込めて、あのちょっと、という目の前の彼の声も聞かずに一目散に走り出す。土地勘は無いけれど、とりあえず明るく光っている繁華街のような方。背中から呼び止める声が聞こえたけれど、彼の身体能力ならわたしを捕まえることなど容易いだろう。それをしないということは、そういうことだ。
 財布には確か一万円は入っている。彼は福沢諭吉と言った。今はそれを信じて、目に付いたネットカフェに駆け込もう。それから考えよう、そして一旦寝よう。寝て起きたら、全て夢だったかもしれない。ついでにスマホも充電して、それから、それから……、ああ駄目だ、何も考えられない。
 時刻はもう深夜の一時を過ぎていた。息を切らしてぼろぼろと泣きながら一万円札を叩きつけた女を見て、ネットカフェの店員はさぞかし驚いただろう。夜逃げか、男に捨てられたか。そのどちらでもないわたしはナンバープレートを受け取って、やっとパンプスを脱いで狭いブースに座り込む。

「…………どうしよう」

 兎にも角にも、わたしの住んでいた住所も、実家も、あんなに憎んでいた会社でさえ今は検索しても存在しないことが恨めしい。パソコンの画面を前にそう呟いただけでまた泣いてしまいそうだった。
 ここは東都、米花町。毛利探偵事務所の何とも簡素なホームページも見つけた。一体どうなってしまったというんだろう。……全部夢だといい。ブラック企業でも社畜でも何でもいいから今は戻りたい一心だ。あまりの衝撃で定期が入っていたパスケースを落としてきていた事にも気付かないまま、わたしは膝を抱えて声を殺して一晩中泣いた。

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