▼ ガムシロップ
「そういえば、和葉も前に似たようなことやっとったなあ」
待ち合わせをしたコーヒーショップ。平次くんがくつくつと笑いながら不機嫌なわたしにそう言った。
「前に紹介した工藤、あいつと付き合うとるねーちゃん居るやろ?」
「……蘭ちゃんのこと?」
「せやせや。俺が電話でよう工藤と話しとったからな、和葉、あのねーちゃんが工藤っちゅう名前やと思って!」
わたしが何故不機嫌になっているかなどすっかり忘れたように、和葉ちゃんの話を始める平次くん。
話を止めたくて、咳払いをひとつして彼の名前を呼ぶと、大きな目をぱっちり見開いたあと、気まずそうに頭をかいた。
「あー……すまん。つい、」
「……いいよ」
氷がとけだして色が薄くなったアイスコーヒーに口をつける。味も薄い。今日はそういう気分だったのでガムシロップを一つ掴んで封をあけてグラスに注ぐ。どろどろどろ。底に沈んでいくそれはまるでわたしの今の感情みたいで、小さな氷がグラスにぶつかる音も憚らずにストローで勢いよくぐるぐるとかき回した。
平次くんがわたし以外の女の子と二人で歩いているのを見るのは、何も一度や二度ではなかった。それはもうぴったりと横に並んで歩いているのも、バイクの後ろに乗ってニケツしているのも呆れるほど見ている。それは九十九パーセント幼馴染の和葉ちゃんなのだけれど、今日は残りの一パーセント、わたしの知らない女の子だった。
和葉ちゃんとは対照的な短くて明るい髪の毛。けれどもお淑やかそう雰囲気で、指の先まで、可愛いよりも綺麗が似合う女の子。
大岡紅葉と名乗ったその女の子は、わたしを上から下まで凝視してから、にこやかな笑みを浮かべて言い放ったのだ。
「葉っぱちゃんの他にもこんな方が居ったやなんて、知りませんでしたわあ」
目だけはちっっっとも笑っていなかった。
「それで、あの大岡紅葉さんは一体誰なんでしょう」
「あー、なんや、ごっつ昔にかるた大会で知り合うたんやけど、ついこの前再会? してなあ」
「ふうん……」
ずず、ストローがアイスコーヒーの表面からはみ出て行儀の悪い音を出す。机に肘をついてジト目で彼を見るわたしも相当行儀が悪いだろう。
「お前を待っとる間にたまたま会うたんや。そんでちょこおっと、話をしてて……」
「『ちょこおっと』話をするだけで、あんなに腕を組まれて顔を真っ赤にするんだね、平次くんは」
「そ、れは……やなあ……」
西の高校生探偵という肩書きを豪語する割には、嘘がとても下手だよなあと思う。だから彼の今言っていることに嘘偽りはなく、大岡紅葉さんとは本当にたまたま会っただけというのは分かっている、のだが。
わたしが腹を立てているのは、どちらかといえばその彼女が平次くんの腕をぎゅっとつかまえて、その自慢の――自慢にしていると思われる――胸を押し付けていたことと、彼が顔を赤くして鼻の下を伸ばしていたことにあった。
「……むっつりすけべ」
「なっ……誰がやねん!」
「声大きいですよ」
はっ、と口を噤んだ平次くんは、キョロキョロと周りを見渡して愛想笑いを浮かべながら、わたしと同じく色の薄くなったアイスコーヒーを啜る。目線はわたしの手元のほうにやっていた。
やっぱり、わたしじゃダメかなあ。
口には出さないつもりだったのに、最後のほうがため息と一緒に漏れ出てしまったようで、平次くんが顔を上げてわたしを見つめた。
「ダメって、何がダメなんや」
「んー」
「……やっぱり、俺か?」
しゅん、と雨に濡れた仔犬のような顔をするので、今度はわたしが目を見開く番だった。
「違うよ。平次くんじゃなくて、わたし」
「お前があ? 何でやねん」
「そりゃあ……」
後出しジャンケンみたいな、ぽっと出の女だから。……と、言うのは流石に平次くんには言えず、うまい言い回しがないか考える。
両親の都合で高校から大阪に転校してきて、クラスに上手く馴染めなかったわたしを助けてくれた人。誰にでも手を差し伸べる優しさを勘違いして好きになってしまった人。たかだか一年ちょっとしか一緒に居ないくせに、すっかり夢中になってしまった人。遠山和葉ちゃんという幼馴染が居ることを知って、昔からまことしやかに噂されていることを聞いて、それでもなお、諦めきれなかった人。恋に時間は関係ないなんて大嘘だ、わたしはスタートが遅い上に、走った距離をちょろまかして先頭に並んでいるようなものだから。
「……平次くんって、あんまりわたしのなまえ呼ばないね」
「はあ? 何やそれ、今関係ないやんけ」
「あるよ。今もお前って言ったし」
「そりゃあ、お前……あ」
「ほら、また」
またしても気まずそうな顔になった平次くんに何だか意地悪をしている気分だが、そうでもしなければ自分の気持ちを堪えることが出来なさそうだった。自分勝手な人間だ。
さっき会った大岡紅葉さんも、きっとわたしよりもずっと前から平次くんのことが好きなんだろう。すう、と細められた目は多分わたしへの剥き出しの敵意で、それとなく和葉ちゃんと似ている。
けれどもわたしだって平次くんのことが好きだし、告白もしたし、付き合って欲しいとも言ったし、そしてそのクセ物分りのいい振りをする。わたしの知らない平次くんの十五年間に目を瞑り、誰と歩いていようとぐっと拳を握るだけ。……でもその代わり、デートにこぎつけてもこうやって彼を困らせるだけ。
「いっぺんだけちゃあんと言うたるからな、そっちも何がダメなんかはっきりせえよ?」
すっかり中身がなくなったグラスを持って、残った氷をくるくる回しながら平次くんが真っ直ぐわたしの目を見てそう言った。
「す、……好き、かも、しれん女の名前をぽんぽんなんべんも言うのは、アレや、恥ずかしいやろ」
「えっ」
途端にわたしよりお行儀悪く、氷をバリバリ噛み砕いてそっぽを向いた平次くんは傍目で分かるほど耳まで真っ赤になってそう言った。
かもしれない、だって。
困っている人はどんな時でも放っておけないような彼のその言い方は、少し残酷で、けれども確かに本心なんだなと伝わった。きっと彼はわたしの名前の千倍以上、今までに幼馴染の名前を呼んだことだろうけれど、その一億倍くらい価値のある言葉に聞こえた。なんて、ただの女の意地の張り合いみたいだけれど。やっぱりわたしは自分勝手で、ダメな奴だ。
「ほら、言うたで。そんで、お前は何がダメなんや」
「なまえ」
「?」
「お前じゃなくて、なまえがいいよ」
ガムシロップを入れすぎたかもしれないと思う。こんなにコーヒーを甘く感じるのは人生で初めてだった。
打って変わってにこやかになったわたしを見て、平次くんはどう思っただろう。嫌な女だな、とか思ったかな。確かに周りから見ればわたしはとても嫌な女に写っているのかもしれないが、彼が一言わたしの名前を呼んでくれるなら、何だかもうそれでもいいような気がしてきた。
「……なまえ、は」
「うん」
「何か、ダメなところがあるんか」
ダメなところだらけだよ。そう言ったらまた困った顔をされた。
「一番は、平次くんのことを好きすぎるところかなあ」
「なっ……!」
「ほらまた声が大きいよ」
グラスに残ったコーヒーを一気に啜る。時間が経って溶けきらなかったガムシロップが氷の谷をどろりと流れた。
わたしの言葉に反応して立ち上がりそうな勢いで驚いた平次くんは、茹でダコみたいに真っ赤だ。口を開けたまま固まる彼を余所に、お互いちょうど飲み物もなくなったし、デートの仕切り直しをしようとこれまた自分勝手に決定した。
「やっぱり平次くんってむっつりすけべ?」
「っお前な、」
「はいお前禁止です、なまえです」
「……なまえ」
「ふふ、うん。行こ、平次くん」
ぎゅっと握った手は、今は平次くんの左手の中にある。大好きだよ、と隣の彼に呟くと、返事の代わりにお店のドアベルがカランコロンと軽快な音を立ててわたし達を送り出した。