はなかご*続3



暖かい陽気な陽射しが部屋に差し込む。
***はいつも通りの時間に起きると厨に立った。朝食を作って食べて、終わると掃除をする。そして空いた時間は帳簿の整理をしていた。
拐かしに遭う前はそれなりのお店でお金に関する仕事を任させれていて、そういう事には詳しい。たまたま楼主が帳簿を広げてつけていたのを横で覗いたら「興味あるの?」なんて聞かれて頷いたらあっさり見せてくれた。
帳簿はお店の根幹。とても大事なものだ。それを簡単に見せてくれるとは思っていなくて、思わず断るもくしゃりと頭を撫でられて帳簿を手に押し付けられかけられた言葉を思い出す。
「今日からお前の仕事な」
どういうつもりなのかは分からないけれど、信頼されてると思えた。
仕事があると気が紛れる。それも以前関わっていた仕事と同じことが出来ると、楼主に会う前の穏やかだった日常を思い返して気持ちも穏やかになれた。

それからひと月ほどした時だ。
「外に出るからついてこい」
それだけ言われて急いで準備をした。
なんの用事だろうか。買われてからも、夫婦になってからも一緒に見世の外に出たことなんてなかった。巾着を手に玄関に向かう。
見世の門扉をくぐると緊張してきた。

「楼主さま、どちらにお出かけですか」
「…、外。たまには出ないと息詰まるだろ」

目的は特にない。そんな思わぬ返しにぽかんとしてしまう。

「言ったろ、出かけていいって」

なんで仕事ばかりで外に出ないのか。そう言いたげな楼主に返す言葉に困ってしまう。
買われて自由がないのが当たり前になってて、外に出ようなんて思わなくなっていた。

「今日は、天気がいいですね」
「そうだな。…***、手、貸して」

差し出される左手に、何かと思って同じように左手を出して触れた。と、ぺちと弾かれる。

「逆の手な」

意図が分からなくて左手をとりあえず引っ込めて右手を差し出す。と包み込むように大きな手に握られた。

「逃げんなよ」

そんな言葉と一緒に手を引かれて歩き出す。
どこに向かうのか分からなかったが少しだけ心は浮ついていた。

ぶらりと2人で昼の花街を歩く。店の前で立ち止まることなく、ゆったりと楼主は歩くと***の手を引いてある場所まで来た。
大門。塀で囲まれた花街の唯一の出口。
***の足は思わず止まっていた。
女衒に引き摺られるようにしてくぐった門が目の前にある。
引き摺られて色んな見世の戸を叩き、年増は要らないと断られる度にほっとして、また次の見世で舐められるように見られて。最終的に足を無理やり開かされて楼主の手に検分された時の痛み。あの時の感情を思い出して目眩がした。
ふらりとよろめいた体を楼主の手が支えてくれる。でも腹の奥底から這い上がってくる言葉で表しきれない感情。隣にいて支えてくれる存在が自分を物として買った人だと思い出すと冷水をかけられたかのように頭の中が冷えて体が震えた。
仕事を与えてくれて、信頼をしてくれているんだと思って浮かれていた気持ちが萎んでいく。
先程逃げるなと言われた言葉の意味が分かった。
花街の外に出るから逃げるな。そう言いたかったのだ楼主は。

「楼主さま、わたし…」

帰りたい。このまま大門をくぐると握られた手を振りほどいて逃げ出してしまいたい気持ちが大きくなっていく。
でも逃げたって絶対に捕まる。捕まったら折檻される。

「天気いいんだろ。俺は歩きたいからついてこい」

楼主さまは私を試そうとしているの?
逃げるか、逃げないか。

そんなことを考えていると手を引かれて楼主が大門に向かっていく。
ほとんど引き摺られるような形だった。来た時と同じように、大門を出ていく。
何も言葉にならなかった。なんの感慨もない。来た時も出る時も、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

「***、止まるな。それとも疲れた?休憩するか」

そう言って笑う視線の先には2階建ての茶屋があって背筋が冷える。出合茶屋だ。震える足を前に動かした。
何をしているのか、どこを歩いているのかも定かではなく、ただ足元を見て楼主の手に引かれるままに歩く。
人にぶつかりそうになって楼主に握った手を引かれると巾着が手から滑り落ちる。拾いに戻ろうとした拍子に握った手を離していた。

「***」

名前を呼ばれてはっとして人の流れに落ちた拍子に遠くまで飛ばされた巾着を拾うと戻ろうとする。も足が固まった。このまま戻らないとどうなるんだろう。逃げられるだろうか。
顔をあげれば人通りは多いが、楼主との距離はそう遠くない。それに、楼主は立ち止まってじっと見つめてくるだけ。
やっぱり試されている、そう思った。
固まった足を前に出して楼主の元へ戻ろう。そう思った時だった。ぐいと手を引かれて体が傾く。慌てて転けないように足を踏み出して引かれるままに走っていた。


* * *


「楼主様、お願いがありんす」

相談がある。そう1人の女に言われたのは今朝方の事だった。
この見世では一二を争う稼ぎ手にそう言われれば無下にはできず話を一通り聞いて溜め息をつく。

「それ俺がやんないといけないことか」
「当たり前でありんす。他に誰が出来ると思っていんすか」
「若い衆」
「だめでありんす。それも楼主様の仕事でごさんしょ。いつまでもそのままでいいと思いんすな」

強い口調でそう言われれればなんとも言えなかった。


***を連れて花街を出て楼主は、やっぱり失敗したと思った。
大門を見た時の態度。ふらついた体を支えた時に見せた表情は怖いものを見た時のそれだった。一度通ったきり、それも拐われたと言っていた。どんな思いで潜ったのか。それを出て、また戻らないといけない。
無理やりに引き摺るように門を潜ったが、そこから***の表情は暗くなり俯いたままとぼとぼとついてくるだけになった。心ここに在らず。
このまま連れて歩くのは***にとって良くない。やはり花街に戻ろう。
そんなことを考えて前から歩いてくる人にぶつかりそうになった***の手を強く引く。ぼんやりとしていたその手から巾着が落ちて人混みに流された。
あっ、と思う間もなく手が離れて巾着を追う背に名前を呼ぶと巾着を拾って立ち上がった***がこちらを見た。
不安そうな表情をして手の中の巾着をぎゅっと握っていた。駆け寄ったら逃げられてしまいそうな空気を感じて足が止まる。
逃げるな、戻ってこい。
時間が長く感じられた。人混みも喧騒も遠くに感じる。
人混みが楼主から***を一瞬隠す。その一瞬後だった。彼女が背を向けて走っていく。人混みの中にあっという間に消えていった。


目の前を背を向けて走る男に、***は混乱したまま足を動かしていた。
誰、なに、私になんの用があるの?
聞きたいのに言葉が出てこない。
走り出した時にほんの一瞬、楼主の顔が見えた。
怒りとは少し違う、焦ったような表情。足を止めて楼主の元に戻ったらどうなるのだろうか。
腕をいきなり引かれて抵抗しようがなかったと、話を聞いてくれるのだろうか。私の言葉を信じてくれるのだろうか。
それに逃げ出したいと思った気持ちに嘘は無い。
そう思うと誰か分からない存在に手を引かれていても足を止めることが出来なかった。
前を行く男は大通りから狭い小道に入って何度も道を曲がって、来た道が***にも分からなくなるくらい進むと足を止めて振り返った。

「──ちゃん、」

肩を掴まれ顔を覗き込まれる。そこでこの男が誰なのか分かった。
精悍な顔つきをした、人の良さそうな笑顔を浮かべるその男は、***が拐われる前勤めていた店の仕事仲間だった。

「ああ、よかった、やっぱり──ちゃんだった」

肩に置かれた手が背中に回ってぎゅうと抱きとめられる。
懐かしい響きの名前だった。楼主に宛てがわれた名前ではない、***の本来の名前。

「仕事に急に来なくなって、店のおかみさんは君が不義理をして勝手にいなくなっただけだって言い出して、でも僕は君はそんなことしないって。ずっと捜してたんだ」

じわりと冷えた心が暖かくなる。
心配してくれている人がいた。捜してくれている人がいた。嬉しかった。
背に回った腕が離れると聞きにくそうに言った。

「どこにいたの?」

どくんと、心臓が跳ねる。
拐われて遊女屋に売られて楼主に飼われている。
なんて答えられない。唇を噛んだ。

「…いや、いいんだごめん。君が無事だったならいい」

優しい言葉に何も言えないことに申し訳なさが募っていく。

「帰ろう」

目の前に差し出された手が一条の光に見えた。
この手を取ったらまたあの大門を潜らずにすむ。
楼主さまの傍にいるのは辛い。
帰りたい。普通の女に戻りたい。

「…、***!」

なのに名前を呼ばれると差し出そうとしていた手が止まる。
姿は見えないが呼ぶ声が聞こえてきた。

「──ちゃん、どうしたの…?」

声が近づいてくるとばくばくと心臓が鳴る。
建物の角から楼主の姿が見えると息を切らして駆け寄ってきた。
差し出したままの手に楼主の視線が刺さった気がして引っ込めようとするも、その手を塞ぐように掴まれて肩を抱き寄せられた。

「***、来い」
「ぁ、…っ」

楼主さま。そう言いそうになるのを飲み込んだ。

「言い訳はあとでゆっくり聞いてやる」

肩を抱く腕に力が込められて固まる体を押されると、ふらりと足が前に出る。
視線が思わず縋るように男を見ていた。

「ちょっと待て、!あんた──ちゃんを」
「──?悪いがこいつは***だ。人違いじゃねェか」

振り返ってさらりと流すように返す楼主の言葉に困惑したように男は楼主の肩に伸ばした手を止める。だがその手をぎゅうと握って拳を作ると人の良さそうな顔を顰めた。

「あんたの隣にいる時の彼女の表情、見た事あるのか」
「……人の女の顔を盗み見るなんざ趣味が悪ィんじゃねェの」

肩を抱く手が顔まで上げられると袖で顔の前が覆われる。視界は楼主の着物の色でいっぱいになる。

「僕は彼女のそんな顔を見たことがなかった」
「人が違うんじゃ顔つきも違うもんだろ」
「彼女に何をした!」

じとり。楼主の視線が***を見る。
何かを確かめるかのようなその視線に背筋が冷えた。
咄嗟に腕が楼主の着物の襟を掴む。
何をしたか言わないで。どんな関係なのか言わないで。そう零れそうになる唇が震えて音にならない。
知られたくない。昔を知る人の記憶の中でくらい普通の女でいたかった。

「人の良さそうな坊ちゃんには分かんねェよ」

着物の袖で遮られていた視界が暗くなる。楼主の手で視界を塞がれていた。

「ぁ、…っん」

ぐいっと顔を上向かされて柔い感覚が唇に触れる。
あ、くちづけられてる。ひどい、私が何を言いたいのか分かっているくせに。楼主さまはひどい。
視界を塞がれているせいで触れてくる感覚を強く感じてしまう。
ちゅ、と優しく啄むように触れてくると、噛み締めて拒む口唇を舐められた。

男は***の紅を引かれたくちびるに楼主が触れるのを、吸い寄せられるように見てしまっていた。
可愛いと思っていた。帳簿に向かって真剣な顔をして仕事をこなしていく彼女が。話しかけるとその顔をふにゃりと緩めて笑いかけてくれる彼女が。
だから暇があれば探していた。どこに行ってしまったのか。
そうしたら男に手を引かれて、今にも倒れてしまいそうな顔をして通りを歩いていた。それを隣にいる男は気遣う様子は見られなかった。
手にした巾着を落として彼女が男から離れる。不安そうな顔をして拾った巾着を握りしめる彼女の姿にいてもたってもいられなかった。

彼女の唇に噛み付いて無理やり開かせると、見せつけるようにじゅぷりと舌を差し込む。口を大きく開けさせて舌を絡ませて、たらりと彼女の口元から唾液が伝った。
かあっと全身が熱くなる。目元を隠されていて表情は見えなかったが、甘い吐息がうっすら聞こえてきて、すごく淫靡だった。
そんな男を笑うように、赤い紅を自分に移して横目に薄く笑って視線を投げてくる楼主の姿に触発されるように動いていた。


* * *


男の手が楼主を***から引き剥がそうと掴みかかってくる。
***を一時腕から離すと、男の腕を掴み捻りあげて近くの建物に押し付ける。花街は悪い酔いする客も多い。荒事には慣れていた。

「人の女に変な気起こしてんじゃねェよ」
「なにをっ!…」

唸る男の耳元でそっと声を落とした。

「おっ勃てといて何言ってんだ。刺激が強かったか坊ちゃんには」

当たっていたのか男の顔が赤くなる。

「どうしても気になるなら柳の元に来い」

柳。花街には柳の木が沢山植わっている。
男は何を意図する言葉なのか分かっていなかった様子だが、見世の名前を告げるとその体を突き飛ばす。

「折花攀柳。この意味が分かって覚悟が出来たら来いよ」

口に着いた紅を着物の袖で拭うと茫然と立つ***の手を引いた。



「楼主様、お願いがありんす。花がみたいでありんす」

今朝方の女の言葉が蘇る。

「花?見たいならその辺のでも見てろ」

よく分からない言葉にその真意を探るのも面倒で適当に返した。

「お客さんが、外界の桜が綺麗だと仰っていて話が分からなければ会話も続きんせんでしょう。代わりに見てきてくれんせんか、***と」

***。その言葉にぴんと来た。

「楼主様には分からない風情もありんしょう。あの子なら外界のことに詳しいでしょうし、お願いしたいのですがだめでありんしょうか」

ふふと、妖艶に口元を扇で隠しながら笑んだ。
仕事ばかりに明け暮れて、碌にまともな額の給金を貰えない***の姿を見かねた元姉からの進言だった。

「俺が頷くと思ってんの」
「あらあらまあまあ、お客さんが離れて困るのはわっちだけではありんせんよ」

花の話くらいで客が離れるか。ちゃんとお前が上手に繋ぎ止めてろ。

「なんでお前がそんなこと気にするの。お前が突っ返して来たんだろう。面倒見きれねェって」
「なんの話しでありんすか。わっちは花を見てきて欲しいと頼んでいるだけでありんす。それとも楼主様はいち遊女の頼み事は聞いてくださらねえのでありんしょうか。ああ、悲しゅうござりんす」

美しい女が本心を隠して笑む。
そこには凄みがある。

「ちっ、なに。***と出かければいいの」
「そうでありんす。給金も碌に渡してないそうですし、美味しいものでも食べさてあげておくんなんし」
「何が目的…?」
「言いんしたよ。お話がしたいだけでありんす」

それはお客との話しか、***との話しか。

「***は愛らしい遊女になっていたでありんしょうに、楼主様が全て台無しにしたんでありんしょう」
「愛らしいね。愛想もねェ女が愛らしいか」
「どの口が言いんすか」

無理やり夫婦になったのに、愛らしいという気持ちがなかったわけがないでしょう。そう言いた気に女は目を細めて笑った。

「それ俺がやんないといけないことか」
「当たり前でありんす。他に誰が出来ると思っていんすか」
「若い衆」
「だめでありんす。それも楼主様の仕事でごさんしょ。いつまでもそのままでいいと思いんすな」


花を見て来いと言われたから連れ出したのに、最悪だ。昔の***を知っている人に会う。一番恐れていたことが起きてしまった。
少し後ろを着いてくる***の表情は大門を前にした時よりも青くなっていて、繋いだ手から震えが伝わってくる。
このまま帰ってももっと悪化するだけだと思った。
茶屋を見繕うと入った。
建物の2階に上がりこじんまりとした部屋へ入ると、遠慮もなく色っぽい布団が枕をふたつ並べて敷かれてあった。そういうことが目的の茶屋だ。入口でそれを目にした***が体を震わせた。

「入れ。そこ座って」

それを手を引いて隅に積まれた座布団を持ってきて座らせると同じように対面する形で楼主も座布団に座る。

「何から聞こうか」

顔を青くして冷や汗が滲む***の顔に、茶屋が用意をしてくれていたお茶を煎れて目の前に湯呑みを置いた。
それに少し驚いたように顔を上げて小さい声でお礼を言うと、急須を両手で抱え***は口をつけた。こくん。少し飲み込み、緊張でカラカラだったであろう喉を潤す。少しだけ気が緩んだのだろうか、ほっとした息を吐く音が聞こえた。

「あの男は誰」

少し落ち着いた様子に、気になって仕方の無い事を口にした。

「……昔の知人です」
「どんな関係だったの」
「よく、仕事で顔を合わせる間柄でした」
「そう。この長い間、お前を捜していたようだけど、仕事だけの関係ね」

楼主も湯呑みを手にお茶で喉を潤す。
かちゃりと茶托に置くと、視線を逸らし心ここに在らずな***の様子にまた言葉を重ねた。

「くちづけは?」

目の前の俺にではなく、何に心を奪われている。

「…え、?」

一拍置いて、***が困惑した表情を浮かべる。

「あの男としたの」
「し、しません!仕事が忙しくて、時々ちょっとだけお話しするだけで…、人のいい方でした。だから私の事も気にかけて放っておけなかっただけだと思います」
「そうだな。人の良さそうな顔してた。捜して貰えていてさぞかし嬉しかっただろう」

言葉に詰まったようで、***の口が引き結ばれる。
言いたくない。らしい。

「あの男に連れられて、俺が捜してるって分かった時は?」

落ち着いてきていた***の顔色がまた青くなってきていた。

「俺のお前を呼ぶ声、聞こえてただろ」

ぎゅうと湯呑みを握って俯く***の手からそっと湯呑みを奪い取ると横に置く。

「それとも俺があの男に言ったみたいに、自分の名前は***じゃないって言うか?」
「…やめて、…やめてください」
「あの男の差し出していた手、俺が迎えに行かなかったら取るつもりだっただろう」

厳しくではなく、ゆっくりと***の首を締め上げるように言葉を選んで問い詰める。

「手を取っていたら、今頃俺じゃなくてあの男と茶屋でこうしてたかもな」
「やめてっ!」
「気がついた?人が良さそうなだけじゃなくて、あの男お前に気があったぞ。俺がお前にくちづけしてる間、俺が自分だったらって置き換えて見てた」
「楼主さまっ!」

耳を塞いでしまおうとする***の手首を掴んで押しとどめる。

「人がいいんじゃねェんだよ。お前をそういう目で見てた。花街にくる男達となにも変わらねェ欲望丸出しの顔で」

***のあの男への“人がいい”という幻想を丁寧に砕いてやる。

「…、ひどい」
「酷いのはあの男だろう。お前に期待させて、こうやって地獄に突き落としてんだから。可哀想にな、***。俺が慰めてやろうな」

掴んでいた手を離すと背中に腕を回す。
そのまま引き寄せると腕の中に閉じ込めた。
肩口に***の顔を押し付けるとじわりと濡れてくるのが伝わってくる。嗚咽しているのが聞こえてくるとぎゅうと着物を掴まれる感覚があった。
花街に帰ってもあの男の存在が頭の片隅にでも光として***の中に居座ることを避けたかった。外に出れば逃げる場所があるかもしれないなんてことは許さない。

「で、どっちがどっちの手を引いて逃げたの」

一瞬。ほんの一瞬人影に飲まれて背を向けていた。
前をほとんど見ていなかった***が知人の顔を見ているはずもない。男の言動からしても、***を見つけて手を引いたのも男の方だろう。
でも***の口から聞きたかった。本当の事を言うのか、それともあの男を庇うのか。

「…、楼主さま、お願い…」
「なんだ」
「あの人には、何もしないで。悪いのは手を振り解かなかったわたしです…っ」
「……へえ、庇うの。悪いのはお前でいいの、***?」

背に回した腕を解いて体を離すと顔を覗き込む。
問うように目を真っ直ぐ見た。

「お前の都合を考える事もなく自分勝手に独りよがりで行動した男のこと庇うの」
「あの人は、何も知りません。何も知らなくていいんです!」

あの男に何も知られたくない。
あの男の記憶の中の綺麗なままでい続ける自分にまで触れないで欲しい。
そう訴えられている気がした。
気に食わない。

「…いいよ、あいつには何もしない。その代わりお前には罰を受けてもらう」

罰。その言葉に身体を震わせる***に宥めるようにもう一度引き寄せる。

「でも今は違う、その時が来たらとびっきりの罰をくれてやろうな」

折花攀柳。意味が分かればあの男は告げた通り見世に足を運ぶだろうか。
いや、きっと来る。人通りの多い中から顔を俯かせた***を見つけたのだ。きっとその想いは大きいのだろう。
だが人はそう簡単な生き物ではない。花を手折りに来るのか、それとも落籍しに来るのか。どちらにせよ***には指一本触れさせるつもりは欠片もなかった。



♭2024/05/11(土)


<<前
(3/3)




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -