終末カーニバル
私以外のヒーロー免許持ちの化学教師は見つからなかったらしい。私は雄英高校の教師になってしまった。
母校はどこも新しく綺麗になっていて懐かしさを感じさせない。昔と同じ点を探す方が難しい。
始業式で紹介された新人は私だけじゃない。今年はあのオールマイトが雄英高校の教師になった。
誰もがずっとオールマイトに注目していて、私に興味を持たれずに済んだ。私の横にいるオールマイトは頑丈で大きな体格のせいでパイプ椅子が窮屈そうだ。
式が終わってから「よろしくね」と、差し出された手は大きくて反応が遅れた。
「こちらこそよろしくお願いします」
笑顔でオールマイトの握手に応える。
大勢の人を守ってきた手で、これからも大勢の人を救う手は温かくてしっかりしていた。
あのオールマイトと握手するなんて考えてもいなかった。
オールマイトは優しくて、ナンバーワンに相応しいヒーローだ。ファンサービスもする方で、きっと握手したいと言えばしてくれる。
そんなナンバーワンになりたくて、なれなくて、握手したいとは言えなかった。
憧れと羨望でぐちゃぐちゃになれるなんて、私は未だに未練があるらしい。
化学準備室に配達された荷物の確認をするためにひざまずくと涙が頬を伝った。
まっさらな白衣と新しくて綺麗な教科書を持った生徒たちが化学室に集まった。
私が初めて教えることになるのは、一年生の化学だった。
みんな『割と普通』に慣れたらしく変な期待はされなかった。
ヒーロー名は紹介せず、本名を紹介する。他の先生同様に苗字プラス先生の呼び方は受け入れられた。
一人だけ、私のことをじっと見つめている生徒がいた。緑谷さんだ。授業が終わってからも化学室から出ていくか迷っていた。
私には緑谷さんが授業内容について質問しようか悩んでいるように見えた。
授業と授業の間は短い。化学室から教室まで、もしくは別の場所まで移動するのは時間がかかる。
緑谷さんは私と時計を交互に見ていた。
「質問があったら遠慮なく聞いてくださいね」
私が話しかけると、緑谷さんはビクッと震えた。
「あっ、いやっ、何でもな、ないです……」
緑谷さんは顎を低くして、見た目にも分かるほど汗をかいていた。
「質問はいつでも受け付けてるからね」
「はい! 失礼しました!」
緑谷さんは言い終わると勢いよく化学室を飛び出して行った。
お昼休みが終わる五分前に緑谷さんが職員室を訪ねた。
職員室の扉から相澤先生を呼ぶ。
私は職員室を見回して彼がいないのを確認して、ここにはいないことを告げる。
「そうですか……。学級日誌が見当たらなくて」
緑谷さんは手で学級日誌の大きさを示した。私はそれがどんなものか知っている。入り口から相澤先生のデスクの方を見ても、流石に何が乗っているのかは分からない。
「A組だよね。一年の」
「はい。そうです」
「相澤先生が戻ったら伝えとくね」
感謝の言葉を述べる緑谷さんはまだ何か言いたいことがあるようで職員室から離れようとしなかった。
「あの……聞きたいんですけど、相澤先生と仲、いいですよね……? 朝も一緒に通勤してますし……」
緑谷さんが首を傾げると、私と緑谷さんの間に日誌が差し込まれる。
「同じ電車なだけだ」
日誌を緑谷さんに渡しながら相澤先生は言った。
「あっ日誌ありがとうございます。相澤先生」
緑谷さんは日誌を受け取った。
私はそれで『私と相澤先生の仲』について、もう触れられないと思っていた。
しかし、緑谷さんを見ると手を口元に持っていき、緑谷さんにとってまだ話は終わっていないように見えた。
「もしかして、相澤先生と山田先生みたいに同級生だったりするのかな、って思ったんですけど……」
「同級生じゃないよ。私はただの――」
「チャイム鳴るよ」
私が適当に説明しようとすると、相澤先生は時計を指差す。ちょうどその瞬間にチャイムが鳴った。
「わっ、本当だ。ではこれで失礼します!」
緑谷さんは一礼すると早歩きで戻っていった。
緑谷さんの背中を見送っているうちに段々と静かになって、授業を始めた教師の声が聞こえた。
どこかの教室から響く椅子を引く音に紛れて小声で呟く。
「……わざわざ迎えに来てるのだーれだ」
学校まで徒歩十分のアパートに住んでいるから、私は電車に乗る必要はないし、乗らない。
「遅刻するだろうが」
「……誰にも言わないでね。面倒だから」
「誰が言うか。合理性に欠く」
わざわざアパートの階段を登って迎えに来るのは合理的だと思えない。私はそれを言わずに職員室のデスクに戻った。指摘するのはきっと、『合理性に欠く』。
ある日突然ぱったり教師を辞めてしまったら怖い。
賃貸アパートに、割り箸と使い捨てのカトラリー。マグカップしか洗うものがないアパートは簡単に引き払える。
それらがいつでもやめられると主張しているようで、また突然いなくなるのではないかと思ってしまう。前みたいに、ヒーローを休止して急に誰とも連絡を取らずに引きこもってしまうみたいに。
減らない食器用洗剤は名前を引きとめてくれない。
玄関を開けるたび、少し汚れた鏡と昔から使っているであろう日焼けした時計がゆらゆら揺れた。
鏡に少しずつ付着する汚れはたまに拭き取られて綺麗になる。時計は落とすのか傷が増えていく。名前が鏡を掃除して、落ちた時計を拾っていると分かると生活感に安堵した。
チャイムを押すと「準備できてるから」の声と同時に玄関の扉が開く。
ほんの少し見える生活の欠片たちの存在が確かにそこに人が住んでいると証明していた。
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