小説 | ナノ


▼ セキさんが幼馴染にプロポーズするまで(pkmn)



あまりの緊張に乾いてしまいそうな目は、分厚い手のひらによってすっかり覆われてしまった。視界が真っ暗になる寸前、指と指の間から見える、薄暗いなかでも爛々と光る濃い琥珀色の瞳が印象的だった。
だらりと下ろしたままの腕は、無意識のうちに拳を強く握り込んでいた。わたしの目を塞いだ男は、もう片方の手をわたしのそれに重ねる。唇が触れ合った。たったその数秒があまりにも長く感じて、思わず体が小さく震えた。
「……、あついな」
小さな彼の言葉に、心臓がはやる。目元から外された手はわたしの頬を撫でて、そのあまりの熱さに、泣いてしまいそうだった。

**

「やっと帰ってきたか。毎度毎度、苦労をかけて悪いな」

セキの言葉に、リーフィアはこがねの身体を小さく震わせて鳴く。心配するな、とでもいうような仕草に、セキは思わず微笑んだ。
沼地を抜けて、リッシ湖から注ぐ水を海へと運ぶ大きな河を頼りに進んでいけば、コンゴウ団の集落はもうすぐだ。長旅の終わりを感じ、セキは小さくあくびをする。だいぶ疲れが溜まっているらしい。それでも、集落で待つ『彼女』に会えると思うと、疲れた足も自然と前に進んだ。

セキの脳裏をよぎるのは、自身が率いるコンゴウ団に籍するある女のことであった。セキよりいくつか年下の彼女は、セキ自身が前々から想いを寄せている人だった。時空の裂け目、神と呼ばれるポケモンたち、三つの団の諍いーーそれらの問題は、空から落ちてきた少年、テルの働きによって解決へと向かっていった。前々から、セキは、このヒスイを取り巻く様々なことが落ち着いたら、その女ーーなまえに、結婚の申し出をしようと考えていたのだった。
そして、セキがギンガ団からの協力要請を請けて遠方へ調査へ行くことになったのが数日前。出立する前日、ふたりで話をしていたときーーセキは勇気を振り絞って、なまえに自分の好意を行動でもって伝えたのであった。決定的な言葉こそないにしろ、ふたりはいい雰囲気のなか口付けを交わし、それをなまえも拒まなかった。これはもう、想いが実ったといっていいだろう、とセキは内心これからの生活に胸を躍らせていた。

見張りの団員が、セキさんお帰りなさい、とセキとリーフィアを出迎えた。はやる気持ちを抑えながら、何の邪な気持ちもありませんよ、という体を装って、なまえの居場所を訪ねた。今日は朝から集落にいるらしい。セキはなまえの家へと足をすすめた。近づくにつれーーあれ、と思う。一人暮らしのはずの彼女の家から、賑やかな声が聞こえてくるのだ。疑問に感じつつも、セキは家の戸を開けた。

「なまえ、誰か来てるのか?」
「あ、セキさん」
「ーーは?」 

思わず眉を顰める。セキはまじまじとなまえの姿を見た。お帰りなさい、と微笑むなまえは、いつも通りであったーー髪型と、その頭に掛けられた白いヴェール以外は。
ヒスイの習慣ではないが、それがなにを表すものかをセキは知っていた。大ぶりの白い花と、そこから垂れ下がる半透明の白い布。それが女性の頭部全体を覆っているのは、婚約の儀式までに悪いものから女性を守るためだとかなんとか。ーーなに、婚約?

「……まっ、まだ早えだろうが!!」
「セキさあん、すごい声出してどうしたんです?」

セキの怒声にも似た大声にけろりと返事をしたのは、座敷の奥からひょっこり顔を出したテルだった。その後ろから、ヒナツが髪結用の道具を持ってなまえのそばに座り込む。鼻歌を歌いながら、彼女の長い髪を華やかに結っていくヒナツを見て、セキは思わずため息をついた。一体なんだと言うんだ、この状況は。
「テル、おまえ、一体こんなところで何してんだよ」
「へへ、お邪魔してます。実はですねーー」

「なまえ!遅いぞ!」

テルが出てきたところよりも更に奥、セキからは完全に死角だったところから、ひとりの少年が飛び出してきた。そのまま中々の勢いで、ヒナツにいい様にされているなまえにぶつかったーー否、抱きついた。「ツグミくん」なまえも、勝手知ったる様子でその小さな身体を抱きしめ返す。この状況が理解できていないのは、セキだけのようだった。

「セキさん、この子なんですが、デンボクさんの親戚のツグミくんです。テルくんが面倒を見ていて、今日は遊びに来てくれてまして」
「……おう」

歳の程は六、七つと言ったところか。なまえの紹介を受けて、大きな瞳がセキをじっと見つめていた。勝ち気な印象から、デンボクの面影をなんとなく感じる。よく分からないことだらけだが、セキはとりあえず、ツグミというらしい少年の目線に合わせるために片膝をついた。

「ツグミ、よろしくな。オレはセキだ、ここのリーダー……長をしてる」

握手のために差し出されたセキの手を、ツグミはじっと見つめて、そして思いっきり険しい顔をした。挨拶に応えることもなく、なまえの腹部に顔を埋める様にして抱きつく。

「わあ、どうしたの?」
「…………。」
「すみません、セキさん。ちょっと人見知りなところがあるみたいで」
「ガキのことだ、別に構いやしねえよ。それよりなまえ、さっきからそのーー」
「ガキじゃない!!」

ヴェールの下で申し訳なさそうな顔をするなまえに、セキは何の他意もない返答をして腰をあげる。そうしたとき、突然、ツグミがセキの方へと振り返り、食ってかかった。

「ガキじゃないんだからな!じいさまには、大人よりも頼もしいってよく言われるんだから!」
「おう、そうなのか。気に障ることを言って悪かったな」
「そうだ!ポケモンも怖くないし、それに、それにーーおれは、なまえと結婚するんだから!」

軽く宥めようとしていたセキの身体が、びしりと固まった。動揺が顔に出ていたのがあまりに愉快だったのか、ヒナツとテルは顔を下に向け肩を震わせて笑っている。事の渦中にいるなまえはといえば、にこにこと笑いながら「嬉しいなあ」などと宣っていた。

ーーこんな子ども相手にムキになることなんてない。そんなことは分かっている、大前提だ。だからと言ってーー

「オレの留守の間に、勝手に結婚相手を決めちまうたあ、一体どういう了見だよ」
「えっ、セキさん怒ってるの?相手は子どもだよ」
「子どもって言ったってなあ、おまえ……」

なまえは、数刻前とは打って変わって静かになった自宅で、セキと向き合っていた。円座のうえにあぐらをかいているセキの両膝は、片方は自身の頬杖、もう片方は完全にリラックスしているリーフィアの頭で埋まっていた。こがねいろのふかふかな体毛に手のひらを埋めながら、セキはぶすくれた態度を隠さずに正面のなまえを見つめていた。
機嫌の悪さが十二分に表れたセキの声を受けて、なまえは目をぱちぱちさせる。砕けた口調は、周りに誰もいないからこそだった。

「なんだか懐かしい気持ちになるね。わたしとセキさんがよく遊んでたの、あのくらいの歳からだったよね」
「たしかにそうだったな。あんときはこいつらもイーブイで……。あ、」
「どうしたの?」
「おめえ、いつから……。いや、なんでもねえよ。忘れてくれ」

きょとんとするなまえに、セキは誤魔化すように掌を振ってみせた。
きっと気が付いたのも今更だ。昔から交流があったのに、いつからなまえは、自分を「セキさん」なんて、遠くから呼ぶようになったのか、なんて。
理由なんてものは分かりきっていた。何も考えなくてよかった、子どもの頃とは違う。男と女、集落をまとめるリーダー。いろんなものが複雑に絡み合って、時にセキの想いの邪魔をした。それでも彼女が、自分の想いを受け入れようとしてくれていることを、セキは一層あたたかく感じた。

先程テルにウォーグルの背に乗せられ帰宅したツグミは、数日前からテルの背中をついて回っているらしかった。それを偶然コトブキムラを訪れたなまえに出逢い、何の理由かは知らないが懐かれて今に至るーーということらしい。「おれはなまえと結婚する」という台詞は、初対面から何度も口にしているものらしく、セキの反応は新鮮だったとなまえは笑っていた。

「かわいいよねえ。今日のあのーーウェディングベールっていうんですか、イチョウ商会から買い取ったのを、わざわざ持って遊びにきてくれたんだよ」
「おめえ、あれが何なのか知ってんのかよ?」
「え?いや、なんとなく特別な日のものだろうなと……」
「あのなあ、あれは花嫁衣装だよ。ごっこ遊びだろうが、婚姻前に着るもんじゃねえだろ」
「あ、なるほど……」

なまえは納得した。セキがいやにあの男の子に拘る理由も、拗ねたように機嫌を損ねている理由も。そして、あの夕暮れのことも思い出したーー頬がほんのりと赤くなる。なまえが思っていることを察したのか、セキもバツが悪そうに目を逸らした。耳が少し赤らんでいる。

「オレの言いたいこと、分かったな」
「う、うん……。一応、わかった」
「一応って、おめえなあ……。まあ、分かったんならいいよ」

自分の言葉に、頬を紅潮させながら視線を逸らすなまえはいじらしい。なにか言葉に含みがあるような気がするが、深く詮索するものではないーーセキは準備していた言葉を呑み込んだ。
結婚する、と騒ぐ子供のことも、なまえが本気で受け取るわけはないだろうし(自分も断じて本気にしたわけではない、断じて)、それを口実に、こうして将来の話ができるなら、それもありなのではないかーーセキは頬杖を外して、その手をなまえの方へと差し出した。
ツグミと会ったことで、なんとなく、昔に帰ってみたいような気持ちになった。何も考えず触れ合っていたあの頃に。
自分の肌と比べて、水分の白い頬に触れるか触れないかのところまで持っていくと、なまえは生まれたてのイーブイのように自ら肌を擦り寄せた。それが相棒の昔の姿と重なって、セキは思わず笑ってしまった。

**

ーーああ、そうだよ。確かにそれで納得した。けどよ、それにしたって、さすがにこれはねえだろ。

腕組みをして思わず下を向く。はーあ、と長いため息を吐いた、そんなセキに、さすがのテルも憐れみの目を向けた。今日ーーというか、昨日もツグミをコンゴウ団の集落まで連れてきたのはテルであるのだが、それは置いておいて。
ここのところ毎日、ツグミはなまえのところへ通っていた。小さな手でなまえを先導し、リッシ湖や里山を駆け回る様子は、その名前とはかけ離れて随分騒がしいーーと、セキは思った。

「なんか今日はお疲れですね?」
「そう見えるか?」

テルの声かけに、セキは昨日のことを思い出すーー昨晩、ツグミはなまえの家に泊まっていたのだったが、セキはそれを知らないまま、彼女の家を訪ねていたのであった。
夜、日が暮れてからお互いの家を訪ね、眠くなるまで穏やかに語り合う。幼少の時からのその習慣だが、最近は、専らセキのほうがなまえの家へ足を運ぶことが常となっていた。コンゴウ団のリーダーとして、誰かが家を訪ねてくることもあるし、なまえが周りの目を気にして尻込みしてしまうのがおおよその理由だった。
したがって、昨晩もセキは、手土産を持ってなまえの家の扉を叩いた。中から、はあい、と間伸びした声が聞こえて、やがてなまえが顔を出す。目が合うと、ぽかんとしていた顔がすぐに緩んで、「セキさん」ふんわり笑った。

「湯上がりか?悪いな、遅い時間に来ちまった」
「そんなことないよ、ちょっと早めに入っただけだから」
「んなこと言って、髪、濡れてるぞ」

土間を上がって、吊り下げられたランプの灯りの下に並ぶと、セキは、なまえの髪がしっとり濡れたままだということに気がつく。思わず髪を一房手に取ると、季節もあって冷たくなっていた。なまえは、くすぐったい、と笑いながら円座に腰を下ろす。セキも家主に習って腰を下ろし、戯れに彼女の髪を指先でくるくる弄んだ。

「ちょっとお、セキさんってば」
「おめえ、手も冷え切ってんじゃねえかよ」

自身を退けるように伸ばしてきた白い手を、セキは軽々と掴む。髪が濡れている時点で予想はしていたが、随分と冷たくなっていた。それをそのまま自分の固い掌で握り込むと、なまえはもう片方の手もセキのそれに近づけてくる。照れ臭そうにしている彼女を見て、セキは思わず笑い、ご要望通り両方の手を自分の手でそれぞれ握ってあたためてやった。

「なあ、なまえ」

このときのセキは、心の中でひとつの決意を固めてきていた。それは他でもないーー彼女のこれからの人生を、自分と共に過ごしてくれないか、という誘いをかけるためである。地盤は固めてきたとはいえ、男としては一世一代の大勝負だった。なにより、自分のなかの憂いを吹き飛ばして、はやく自身を安心させたい気持ちがあった。
手のひらに置いていた右手を上へ流し、細い腕を掴む。華奢なそれを、そっとこちらへと引き寄せた。きょとんとしたなまえの目が、セキの感情を駆り立てる。思わず目線を逸らしてしまいそうになるのを、すんでのところで堪えて、ゆっくりとなまえとの距離を詰めた。

「大事な話がある。聞いてくれるよな」
「あ……」

なまえの目が揺らめくのが分かった。受け入れられたーーその色で、セキは確信した。昔からそうだ。なまえははっきりと自分の意思を言葉にすることは少ないが、態度にはーー特に、その大きな瞳には、彼女の気持ちが色濃く現れるのを、セキは知っていた。
あの日口付けをしたように、ふたりの顔が息のかかる距離まで近づく。なまえの背がぐっと後ろに逸らされるのを、セキは片腕を回して柔らかく抑え込んだ。こうして逃げるような動きをするのも、彼女のつむじ曲がりだ。ずっと準備してきた言葉を、ようやく吐き出そうと息を吸ったときだった。

「セキさん、だ、だめだよ」
「あ?……なにがだよ」
「だめなの、今は」
「なにがダメなのか、言ってみろって」

なんだか今日の彼女は、見栄っ張りが長い。というか、くどい。まあでも、人生に一度の結婚だ。緊張してしまうのも無理はないーーここはオレがバシッと決めてやらなければ。セキはそう短絡的に考えて、もっと彼女に体を寄せた。とうとうなまえは暴れ出す。ばしりと背中を強く叩かれて、セキは思わず、うおっ、と大きな声を出した。たまらず体を離す。

「はは、わ、わりい……。先走りすぎたな」
「いや、あの、違くて、その」

違う、と言いつつも、なまえはセキから大きく距離を取ってしまった。せっかち、短気、性急ーーそんな言葉を多くの人間にかけられながら生きてきたが、もっとまともに取り合っておけばよかった、とセキは心の底から後悔した。だって今の自分は、大事な人に拒否され、なんともかっこ悪いことに乾いた笑いを漏らすことしかできない。
何かしら言わなければ、と、セキがもう一度口を開いたとき、部屋の奥から軽快な足音と共に、「なまえー!」大きな声が聞こえてきた。

「お風呂でたぞ!」
「お、おかえり、ツグミくん!」

半分濡れたままの状態で居間に飛び込んできたツグミを、なまえは受け止める。セキに背を向けた、その耳は真っ赤になっている。
なまえに布で風呂上がりの体を拭いてもらってご満悦だったツグミは、ようやくセキの存在に気が付き、ぎゃあぎゃあと文句を言い始める。さっきのなまえの態度の原因はこれか、と、セキはようやく納得がいき、いそいそと彼女の家をあとにしたのだった。そんな、どうにも決まりが悪い事件があったのが数時間前のこと。今のセキは、テルの目から見ても、なんだかやつれていた。

「やっぱり、お泊まりは色々申し訳なかったですね……。明日からはあまりここに来ないようにうまく言いくるめられないか、頑張りますね」
「気を遣ってもらったとこ悪いけどよ、説得するにもなかなか骨が折れるだろうぜ」
「確かに……。セキさんと話してるとき、気が立ったニャルマーみたいですもんね!」
「……楽しそうで何よりだよ」

セキとテルが自分の方を見ていることに気がついたのか、なまえは足を止めて、二人に手を振った。思わずセキが口元を緩めて手を振り直すと、鋭い視線に貫かれる。もしかしなくても、その主はツグミだった。ここまで目に見えて敵意を向けられてしまれば、セキはただ困ってしまうことしかできなかった。それより、なんだか自分が悪いことをしたような気分だった。

それに、先日、ツグミと3回目に対面したとき、こちらを見て申し訳なさそうな顔をするなまえに対して、「オレのことは気にするなよ」と余裕のあるふりまでしてしまった。そこに関しては見栄を張ったところもあるが、まだ正式に結婚の申し入れをしたわけではないというのがセキのなかで大きかった。確かに口付けはしたが、あの一瞬で、この女はオレのものだと独占欲を剥き出しにしていいものかーーそれも年端も行かないガキ相手に。昨日、『その話』をちゃんと進めようと決めたけれども、うまくいかなかったこともある。きっとまだ、時期ではないのだろうーー最近のセキは深い溜息が癖づいてしまいそうだった。

「なまえ!明日はコトブキムラに来てよ」
「コトブキムラ?行きたいけど、うーん……」

少し離れたところにいるなまえとツグミが何やら会話をしている。少し雰囲気が変わったのを感じ取って、テルとセキはふたりのそばに近寄っていった。

「どうして!?あの日はなまえ、ひとりでコトブキムラに来てたじゃないか!」
「あっ待ってそれは大きな声で言わないで」
「なんでだよお!ひそやかスプレーとけむりだまを買い込んでるから大丈夫って言ってただろ!」
「へえ、そうなのか」

にっこりと笑みを携えて、セキが会話に入る。ツグミはすぐに不愉快そうな顔をしてなまえを見るも、彼女はセキに必死の弁解をしていた。
コンゴウ集落からコトブキムラまで、その道のりは決して短いものではない。特になまえはカンナギのふえも持たず、相棒のポケモンも戦いを得意とした個体ではない。そのために、コトブキムラに行くならば、自分か、ヨネやワサビに声をかけるようにーーと、なまえは日頃からセキにこんこんと言われていた。それでもなまえは、自分の用事に他人を付き合わせるのは気が引ける、と時々ひとりでコトブキムラへ出発してしまう。ツグミと出逢った日も、そういう経緯があったらしい。
嘘がバレた子どものように、違うんですこれは、と声高に訴えるなまえに、セキは腕を組み直してじとりとした目を向け、やがて、仕方がないといった風体で微笑んだ。

「……オレは何も意地悪してやろうってんじゃねえんだよ、んな顔すんな」
「えっ、それじゃあ、これから買い物がしたいときはコトブキムラに……」
「そりゃ話が別だな」

からからと笑うセキに、それを説得しようとするなまえ。ツグミはぐっと唇を噛んで、大きな声で主張した。

「セキの性悪!なまえといつも一緒にいなきゃ怒るなんて、コドモじゃないんだから!」
「ま、そうだな。心配なんだよ」
「もうセキはいいから!なまえ、明日来てくれるよねっ?危ないなら迎えに行くから、テルが」
「おれ!?いや、いいっちゃいいんですけど……」

急に話に巻き込まれたテルは、思わず声をあげる。ツグミは白い頬を興奮で赤くしていた。この雰囲気はあまりよくないんじゃないか、とテルはセキのほうを見る。セキも同じ考えをしていたようだが、かける言葉を決めあぐねているようだった。ツグミの要望を受けて、なまえは小さく唸る。少しだけ考えて、セキに、明日は何か予定はありますか、と尋ねた。セキが応えるより先に、ツグミの声がリッシ湖のほとりに響いた。

「なんで!?なまえだけに来て欲しいんだよ!」
「セキさんに心配かけられないから……。どの口がって感じだけどーー」
「いやだ!セキはいやだ、おれはセキのこと嫌いなんだ!」

ツグミはあまりにも大きな声で力強く否定する。テルは思わず、「あー……」とセキを憐れむ声を漏らしてしまった。さすがのセキも小さく笑ってしまう。一体何だってここまで拒否されなければならないのかーーとりあえずセキがこの場を離れようと考えたとき、なまえが動いた。ツグミの低い視線に合わせてしゃがみ込み、彼の両頬に手を添える。そして、力強く言い切った。

「わたし、行かないよ」
「えっ?」
「ツグミくんがひどいこと言うから、わたしは行かないよ。悲しい気持ちになったから」

数秒間が空いた。ぽかんとした顔のツグミは、やがて何を言われたのか理解したらしい。子ども特有の大きくて丸い目に、あっという間に涙の膜が張る。それはすぐに決壊して、両目から大粒の涙がぼろぼろ溢れた。いつも ぼんやりとしている彼女とはかけ離れた淡白な態度で、なまえはすぐに立ち上がりツグミに背を向けた。突然のことに呆気に取られているテルに、なまえはごめんね、と申し訳なさそうに眉を下げる。

「まあ、大丈夫ですよ!昨日おれのまんじゅう勝手に食べた仕返ししようと思ってたので」
「はは、それは許してあげてほしいかな……」

テルの軽口に応えるなまえからは、先ほどのさばさばした態度はすっかりなくなっていた。セキは数回目を瞬かせるーー昔から彼女とは一緒にいたが、いつもぼんやりしてばかりで、こうやって自分の思いを強く出す場面は初めて見た気がした。いや、ーー本当に?

なまえは振り返らない。今にも、分かった?もうしないでね、とかなんとか言ってにっこり微笑みかけそうなものであるのだがーーいや、ツグミはそれを想像していたのだろう。それでも、彼女はツグミのほうには目もくれなかった。
とうとうしゃくりあげて泣き始めたツグミの背を軽く押しながら、テルは呼び出したウォーグルに乗って軽々と帰っていく。あまりにもあっさりした幕切れに、さすがのセキも呆気に取られた。ウォーグルの雄大な姿が空の向こうへ消えていったのを見届けて、なまえは、大きな大きなため息をついたのであった。

ーー間違ったことは言っていない……と、思う。いくら子供とはいえ、ひとを非難する言葉を大声でのたまうのは誉められたことではない。だが、それは果たして、身内でもない自分が指摘すべきことだったのだろうか。それに、この癖は良くないから直さなければだめだ、とか、そんな考えがあっての言動ではなかった。ただ、衝動的にーー

「よう。邪魔するぜ」
「……セキさん」
「昼のこと、考えてるのか?」

夜もとっぷり暮れたころ、なまえは暖炉でめらめらと燃える火を見ながら、ぼうっと考えていた。そんなころ、戸口が開く音がして、セキが入ってくる。大きな猫目をやさしく細めて、セキはなまえの隣に胡座をかいた。大きな手でもって、彼女の頭を乱雑に撫でる。

「そんなに気に病むなよ。あんなに泣かれちゃあ心が痛むが、正直なところ、オレとしては悪くなかったぜ」
「え?」
「変な意味じゃねえよ。好きな女が、てめえのために怒ってくれたんだぜ」

嬉しくないやつはいないだろーーまあ、そういう問題じゃねえよな。
セキの言葉に、なまえは小さく笑う。それを自分を励ますための軽口だと受け止めた。冗談ではないんだけどな、セキはそう思いながらも、彼女が笑っているのだから、それでいいかと訂正するのをやめた。

「それにさ、ツグミをガキ扱いしてたら、ああいう言葉は出ないだろ。ちゃんと対等な一人の人間として見てる、あいつの想いに誠実に向き合ってるってことだよ」
「……あのね、ツグミくんは、わたしのこと、そういう意味で好きなんじゃないと思う」
「そりゃあどうして」
「うーん……女の勘、かなあ」
「はは」

セキの質問に、なまえはそうして言葉を濁したが、彼女には思い当たる点があった。ツグミは、自分の心を正直に表現しているように見えて、実のところそうではないように見えた。「わがまま」を装っているのではないか、と。
ツグミが自分の要望を口にするとき、すぐに周りの人の顔色を伺うような目をすることを、なまえは気が付いていた。それは自分が周囲に受け入れられるのか試しているーーいや、それを確認して安心しているようだった。それは、あの子から母親や父親の話を聞かないことにも起因しているのかもしれないーーあまりにも邪推が過ぎた、なまえはかぶりを振って、そんな考えを頭の中から振り払った。

「やっぱり明日は、コトブキムラに行くよ。ツグミくんに会いに行ってくる」
「そうか」

行ってこいよ、とセキはなまえの背中を優しく叩いた。なまえも、それに、うん、と返事をして、そっとセキの大きな身体に寄り添った。

そして、夜があける。なまえはヨネに送ってもらい、コトブキムラを尋ねた。
到着したのは、昼の12時を過ぎた頃であった。門を通って、ひとまずギンガ団のあの大きな屋敷へと向かっていると、大きな声で呼び止められる。その方向を見れば、イモモチを頬張りながら、こちらに大きく手を振っているテルがいた。

「来てくれたんですね!イモモチ食べます?」
「あ、うん。貰おうかな……」
「どうぞ!あと、ツグミなら、今日はまだ見てないですよ。おれがせっかくギンガ団まで迎えに行ったのに、もう出かけたあとだったみたいで!」

元来さっぱりとした気質のテルは、ぶつくさ口にしながらも、その表情はけろりとしていた。そして、わざとらしく声をひそめ、まるで内緒話をするかのように言う。

「でも、ここだけの話なんですけど……。ツグミのことをよく尋ねてくる子がいるみたいなんですよ、それも女の子!ほんと贅沢なやつですよね」

オレだってショウ先輩と……あまり関係なことをぶつぶつ続けだしたテルに、なまえはふと視線をよそにやる。コトブキムラの大きな通りを行き交うたくさんの人々ーーそのなかに、一際目立つ影があった。ふと目を止める。優しげな垂れ目の女の子。その子が向かい側の建物の影から、じっとこちらを見つめていた。なまえはなんだか目線を逸らすこともできず、暫しの間見つめ合う。その子は小さな歩幅でもってテルとなまえのそばに近づいてきた。
そのとき、テルは嫌な予感がした。こういうのをなんと言うんだったかーーそう、デジャブだ。自分以外の人には誰も理解できない言葉を思い出したところで、目の前の見知らぬ女の子の目がきりりと釣り上がったのを見た。

「おねえさんでしょ!!ツグミを泣かせた人!!」
「わあ、来たよ……」

テルのぼやきを横に聞きながら、なまえは、女の子に「どうしたの?」と声をかける。女の子は声高に、わたし見てたんだから、分かるんだから、と訴えた。

「おねえさんがツグミと今いちばん仲良しなの、知ってるんだから……。それなのに、ずるいよ……」
「あなたは、ツグミくんのお友達なの?」
「……うん、いつも遊んでた……」

その言葉に、テルが思わずと言った様子で、あ、と声を出す。それが予想以上に大きかったので、テルは慌てて自分の口を塞いだ。そして小さな声で、なまえに耳打ちする。どっかで見たと思ったんですよ、さっき言った子、この子ですよ。ツグミに会いに来てるーー
その話が聞こえたのか、女の子は着物の裾を小さな手で掴み、ぐっと下を向いた。そして、小さな声で言う。

「ケンカしたの……。ううん、そうじゃなくて、わたしが嫌なこと言ったから」
「嫌なこと?」
「知らなかったの!ツグミに、お母さんとお父さんがいないなんて……知らなかったの」

ーーわたし今度、お父さんにポケモンもらうんだ。ピカチュウがいいって言ったら、お父さんが捕まえてきてくれたの、調査隊だから!お母さんと、ちゃんとわたしがお世話するって約束したし。……ツグミくん?
ーー……お父さんにポケモンを捕まえてきてもらうなんて、変なの。おれだったら、ひとりでできるよ!
ーー嘘ばっかり!お父さんとお母さんと一緒じゃなかったら何もできないでしょ、だってわたしたち、子どもだもん!

「子どもじゃない!おれには、お母さんだってお父さんだっていない!自分ひとりで生きれるんだから!」
「さっきから変なことばっかり言わないでよ!お母さんもお父さんも、いないなんてわけないじゃない!いなかったら変だよ!」
「変じゃない!うるさいっ、もう話したくない!遊ばない!……、もういい……」
「わたしだって、……わたしだって、もう遊ばないんだから!ツグミくんなんて嫌い!」

女の子の目には、涙が滲んでいた。ぽつぽつと語られる話を聞きながら、なまえは言葉を失なった。子ども時代の、飾り気のない言葉たち。それは時々、互いを傷つけてしまうことを知っている。けれど。

「嫌いなんて、思ってなかったのに。遊びたくないなんて嘘なのに。いつもみたいに、楽しくおしゃべりしたいのに……」
「そっか。……謝りに行く?」
「でも、わたし……。ひどいことを言ったの。許してくれないかもしれない」
「そんなことないよ。もしかしたら、時間がかかるかもしれないけど……。ごめんねって、自分の思っていることを伝えたら、きっと分かってくれるよ」

自身の感情に素直な言葉は、時に相手を傷つける。けれど、子ども時代のそんな傷は、ほんの少しの歩み寄りで綺麗になることも知っていた。なまえの言葉を受けても、不安そうな顔をする女の子に、突然テルが大きな声で呼びかける。「おおい、ツグミ!」ふたりも慌てて振り向いたーーテルの視線の先には、確かにツグミの姿があった。
ツグミは思わず後ずさる。その場から逃げてしまおうとした小さな背を、ある影が支えた。

「そら、行ってこいよ」
「…………、どうして?」
「さあ、オレに聞かれたって分かんねえよ。な、リーフィア」

セキと、その相棒の声に後押しされて、ツグミは一歩、二歩と少女に歩み寄る。少女もまた、ツグミの方へと近づいた。ぽつぽつと、幼い心が、言葉に乗って流れていく。
ごめんね、いいよ。一見軽いそのやり取りが、彼らのなかでは大きな意味を持っている。それが分かるのは、きっと自分が大人であるからだ。
お互いの気持ちを伝え合ったふたりが、嬉しそうに笑っている。そんな光景を見て、セキとなまえは顔を見合わせて、どちらともなく微笑んだ。

「来てくれるって思いませんでした」
「最初は行かねえつもりだったよ。嫌われてるオレが行ったところで、事態をややこしくするだけだろうってな。だけどまあ、気になっちまったもんはしょうがねえよな!」
「……セキさんの」
「ん?」
「ううん、セキくんの、そういうところ、好きだよ。……昔から」

なんちゃって。そう小さく取り繕ったなまえに、セキは思わず笑った。そっと自身の右手を、なまえの左手へと寄せる。他者がいる空間だというのに、指を絡めても、なまえは嫌がらなかった。柔く握り返される感触に、セキはふと思い出す。

昔。自分が、まだ周りの目を酷く気にしていた、子どものころ。同じ集落の、少し年上の子どもに、不当な理由で攻撃されたことがあった。鋭い言葉に傷付いて、思わず口を閉ざしたとき、隣にいた少女が、自分を庇ったのだ。
ーーやめてよ。セキくんに謝ってよ。そんなこと言うなんて、ひどいよ。

そのときの、柔らかな手の温もりを覚えていた。どうして忘れていたのだろうーーあのときからずっと、彼女のことを想ってきたというのに。

「あの、ごめんね、セキ」
「おう」
「……セキが何したって、なまえは許してくれるでしょ。嫌われたり、しないでしょ。それが、ずるくて……」
「そうか。でも、そんなことねえぞ。おめえも見ただろ、ああして、愛想尽かされねえようにしねえとな」

ツグミの目が小さく揺れて、うん、と嬉しそうに頷く。
この子は、自分が受け入れられることを望んでいた。ただそれだけだったのだ。自分だってそうだーーセキは思った。
いつのまにか変わった呼び名。集落を歩くときの、ふたりの距離。口付けをしたとき、なまえの表情が、酷く不安そうに見えたこと。一体それの、何を憂うことがあっただろうか。

なまえの手を優しく離して、ツグミの視線に合わせて片膝をつく。そして、丸い頭を雑に撫でた。うわあ、と大きな声をあげるツグミに、からからと笑って、腰を上げる。

「ツグミくん、また遊ぼうね」

なまえはそう言って笑っていた。ツグミと微笑みを交わし合いながら、自身の右手をそっと、男らしく端くれだったセキのそれに寄せた。そして、控えめに指を絡ませる。それが少し震えているのが分かって、セキは、隙間がないようにしっかりと握り返した。

ーー今夜、もう一度、大事な話を伝えることにしよう。
これからの人生を、共に歩んでほしいと。いつまでも近くで、心の奥底で、あなたと繋がっていたいと。
昔からそうだった。それが、これからも続いていくだけだ。この手の温もりがある限り、ずっとーーそれが分かったから、きっともう、大丈夫だ。オレたちは。

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