小説 | ナノ


▼ 銀さんに退路を塞がれる(ag)


それは宛ら檻のようだった。わたしを閉じ込めるようにして、男の大きな体が寄り添っている。左手は大きなそれに覆われてキッチン台に縫い付けられ、右手からはするりと包丁が抜き取られて、あるべきところに戻された。背中に沿う体温は、胸なのか腹なのか分からない。振り返る勇気もないからーーでもそこにいるのは、確かに。

「だーれだ」
「ーーあ、っと……。な、何やってるんですか。銀さん……」
「おー。せいかーい」

銀さんは長身を屈めて、わたしの耳に唇を寄せていた。笑ったときの吐息が耳殻を掠めて、背筋に微弱な電流が走る。

「見ないふりはもうお終いにしようや、なあ」

この緊急事態に、どうすればいいかなんて分からなくて、わたしはただ固まった。こんな脈絡のない、あまりに突然のことでーー

いや、そうでもなかった。思えば予兆は、いろんなところに転がっていたのだ。それをわたしが、正面から見据えるのが怖かっただけで。
それは、昼下がりの通り雨。あるいは飲み会の帰り道。あるいは、みんなで食卓を囲んでいるときに、ふと触れ合った小指と小指。

銀さんはとても優しい人だ。でもその実、他人を踏み入れさせない心の奥深くの境界線もしっかりと持っている。銀さんがわたしに向けてくれる目は、その線を少しだけ銀さんの方へと近づけてくれているようでーー他の人よりも僅かでも、わたしを信頼してくれているようだった。
でも、そんな僅かな予兆で自惚れてしまうほど、わたしは幼い気持ちにはなれなかったのだ。ただ臆病で。だから、今も。

「何言ってるんですか。いいから座っててくださいよ、神楽ちゃんと新八くん帰ってきちゃう」
「帰ってこねーよ。今日は妙のとこに泊まらせた」
「えっ?」

その言葉に、思わず振り向く。今日は三人のためにご飯を作って欲しいと言うから、食材担いで万事屋まで来たのにーー文句の一つでも垂れようとしたところで、赤い瞳がまっすぐにわたしを見つめているのがわかって、語気が削がれた。

「……あはは。それなら、作った料理タッパーに詰めて、わたしたちもお妙ちゃんの家に厄介になりますか」
「おまえはそうしたいの?」
「え……っと、まあ……」
「ふーん。ならそうすっか」

重ねられていた左手が離れていく。ほ、と小さくため息をついたとき、肩と腰に手が回されて、ぐいっと身体を反転させられた。銀さんは眉ひとつ動かさず、底冷えするような目でわたしを見ていた。恐ろしくて、背後のキッチン台に乗り上げるように体を逸らす。

「何、逃げんの?おまえがしたいようにしてやるって言ったろ」
「だって、銀さん……怒ってますよね?」
「怒ってなんかいねーよ。ただちょっと……そうだな、今日の銀さんはSっ気強めってことで、ここはひとつ」
「嘘でしょ、銀さん、近……」

必死で逃した上半身も、銀さんの鍛えられたそれが追ってくる。キッチン台に腰から上を付けてしまいそうになって、すんでのところで踏みとどまった。日頃使わない腹筋がぷるぷる言っている。せめてもの抵抗に胸板を両手で押そうとすると、軽くひとまとめにされて自身の頭の上に押さえつけられた。片手で。大きな掌が、完全にわたしのふたつの手を重ねて握り込んでいる。

「……おふさげも程々にしてください。馬鹿でかい声で叫びますよ」
「おーおー、まだ抵抗するってか?いいけど程々にしろよ、気の強い女ほど屈服させなきゃ気が済まないからね、銀さんは」
「ぎゃっ!わ、わかった!わかりました!抵抗しませんから!一体何なんですか!?」
「物分かりが良すぎんのもそれはそれで心配になるな……。まいいや。そんでおまえ、いつまで見ないふり続けんの?気付いてんだろ」

銀さんの空いている方の手が頬をなぞって、首筋へとかけられる。先ほどよりも距離を詰めた赤い目には、おまえなんてどうにもできるんだぞ、という意志さえ感じてしまう。銀さんは優しいから、わたしを傷つけるようなことはしないのに。それでも恐ろしくて、わたしはすぐに従順になった。

「俺は興味ない女が傘忘れて出かけたのを、ハチ公よろしく軒下で待ってなんてやらねーよ。どうでもいい女に家上がらせて、飯作らせる趣味もねえ」
「でも銀さんは、誰にだって優しいじゃないですか……」
「その優しい銀さんが、おまえにはこんな意地悪してんの」

ガキじゃねえんだから、そろそろ察しろよ。そう言葉を続ける銀さんは、何かを我慢しているように、余裕なく片側の歯を見せて笑った。心臓が先ほどから、大きな声で泣き喚いていてうるさい。自然と涙目になるのを、顔あけーぞ、と銀さんが余計なことに言及した。

「ちゃんと言葉がないと安心できないんです!!銀さんはおじさんですけど、わたしはまだ20代前半なので!まだ少女のままなので!」
「おじさんではねーだろ!!そりゃ銀さんだって言葉で伝えられてーよ?ほら言ってみ、銀さん愛してるー、わたしのものになってー」
「それただの銀さんの趣味でしょ!」

そこまで言い合って、銀さんは、あーもう、と苛立ったように口にする。それを合図に、銀さんの身体が、最後の隙間も無くすようにこっちにがばりと倒れてきた。ふわふわした頭がすぐ右横に擦り寄せられる。薄い唇が頬を掠めていった。

「そろそろ黙れよ。ーーそんで、銀さんのこと受け入れんの、受け入れねーの」
「う、だからそれは、言葉を……」
「はいはい、真面目だねえなまえちゃんは。あんまり頑ななままだと、悪い大人に流されちまうぜ」
「わっ、ちょっと!」

わたしの背中と腰のあたりには、いつのまにか銀さんの逞しい腕が回っていた。よっ、と気の抜ける声と共に、身体はがばりと宙に浮く。軽々とわたしを肩に担いで、銀さんは何のこともなしにキッチンを出て行く。わたしの静止の声なんて耳に入っていないらしい。
わたしもこの家によく出入りしているから、銀さんがどこに向かおうとしているのか何となく察しがついた。彼が足で器用に襖を開けると、暗い畳の部屋には万年床がどかりと中心を占めている。慌てて暴れるも、半分投げ出されるように、布団の上へと下ろされた。すぐに銀さんの身体も迫ってくる。大きな両手がわたしの両横にどん、と付かれて、わたしはもう、何も言えなくなった。

「好きだよ」
「うっ」
「てめーのものになってやる。……ここまで言わせたんだから、おまえも銀さんのものになるってことでいいんだよな?」

暗い部屋でも銀さんの赤い瞳が爛々と輝いているのが見える。だって、こんなに距離が近いーーそんなことを考えているうちに、薄くてかさついた唇が降ってきて、そっと唇を奪われた。あんなに雑なことを言ってきたくせに、すごく優しいキスだった。

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