小説 | ナノ


▼ 元の世界に帰るのにデュースのこと忘れちゃった(TWST)


(監督生=夢主)


「エース、デュース、聞いて欲しいの」

ーー元の世界に、帰る方法が見つかった。

その言葉を聞いたとき、何かが喉の奥につっかえてしまったようで、なにも声が出なかった。エースが、やったじゃん、と監督生の肩を叩く様子が、ぐらぐら揺れる視界に映る。左胸にあるはずの心臓が、別の生き物みたいに存在を主張してきて仕方がない。

「デュース?」

何も言わない僕を、監督生が大きな栗色の目で見つめる。喉からは、小さく息が漏れる音だけがした。ダメだ。言ってはいけない。

「良かったな。おめでとう」

ーー行かないで。僕を置いて行かないでくれ、なんて。そんな言葉は、言えるはずがなかった。



監督生が元の世界に帰る日、それはあの話をされてから2週間後のことだった。そして、早くも1週間が経とうとしている。この最後の時間に、彼女に何かしてやれることは無いかとずっと考えてきたけれどーー僕の脳みそでは、いい考えなんて浮かぶはずもなかった。

思考にもやが掛かってきて、思わず空を見上げる。夜に替わろうとしているそれは、オレンジと青が混ざって、なんだかはっきりしない複雑な色だった。

「切るならあと一本だって、部長から」

背後から声をかけられる。振り返ると、ジャック・ハウルがなんだか微妙な顔をして立っていた。大きな耳が、居心地が悪そうに小さく震えている。それに大きく頷いて、重たい体を無理やり動かしたくて、スタート位置に向かって無意味に走った。

「俺も走る。ーーなあ、」

監督生のことを考えてるのか?

隣のレーンに入ってきたジャックの言葉に、心臓が固まるような心地がする。肯定の返事は、小さくて震えていて、みっともない声だった。

ーー僕は、監督生のことが好きだ。
彼女も同じく僕を好きでいてくれていたと分かったとき、全身の血が沸騰するような心地がした。嬉しいーーこんなに嬉しいことが、この世にあるのかと、半端者の自分が、こんなに幸せでいいのかと、そう思った。
僕に出来ることなら、何でもした。遅くなるときは必ず寮へ送って行ったし、休日はNRCの外へ、彼女がしたいことをしに行った。……いや、違う。彼女がじゃない。僕がしたかったんだ。僕は、彼女のためのことなら、何でもしたいと思っている。

それでも、監督生が元の世界に戻ることを祝福することだけは、どうしても駄目だった。
自分は嫌なやつだ。自分の好きな人が幸せになろうとしている、それをこれっぽっちも祝福する気になれないのだから。

僕を好きだと言ったじゃないか。それなら、元の世界に帰れるなんて笑うんじゃなくて、帰らないといけないって泣けばいい。そうやって僕を惜しんでくれたなら、きっと、少しくらいは、笑って送り出そうと思えたのか。

僕たちがふたりで走ると察して、先輩のひとりが合図を出そうと位置についてくれた。今は部活中だ。余計なことを考えるのはよそうーーそのときだった。

「スペード!待ってくれ!!」

背後から大きな声がかかる。驚いて、思わず振り向いた。サバナクロー寮所属の陸上部の先輩が、血相を変えてこちらに向かって来ていた。

「どうしたんですか?」
「スペード、お前、あの子と友達だったよな。オンボロ寮の、あの子!」
「えっ?」

ーー体育準備倉庫に、あの子が、倒れてる。

先輩の言葉を聞くが早いか、僕は脇目も振らずに駆け出した。監督生が、何で。ジャックも後ろをついてくる。言われた倉庫に行けば、陸上部のメンバーが何人か集まっていた。どいてください、と半ば叫ぶように声をかける。集まっていた人がはけて、そこにいたのは、冷たいコンクリートの床に横たわる監督生だった。

「なまえ……!」

そこから先は、あまり記憶にない。ただ覚えているのは、頭がぐらつく程に苦しい息と、喉の奥を満たす血の味だけだ。


**


医務室の窓の外は、すっかり暗い。時計は8時を回っている。監督生は、まだ目覚めない。
穏やかな寝息を立てる彼女の細い手を握り続けて、2時間は経っただろうか。ここに運び込んでから、ジャックも彼女の側に寄り添おうとしてくれていたが、僕が側にいるからと言って帰ってもらった。いい顔をして、その実は、ただ監督生と二人にして欲しかっただけだった。

控えめなノックの音が部屋に響く。保険医が帰って来たのだろうか。小さく返事をすると、無遠慮にドアが開いた。

「デュース。監督生、どう?」

そこに立っていたのは、寮服に身を包んだエースだった。言葉にしたくなくて、目線でもって眠ったままの監督生を指す。エースは小さく溜息をついて部屋に入って来た。そして、その辺の椅子を持ってきて、僕の隣に座る。

「ん」
「……いや、僕は」
「思い詰めんなよ。食わなきゃ、お前まで倒れるじゃん」

言い返す言葉が見つからなくて、エースからバスケットを受け取る。中を開くと、サンドイッチがたくさんと、大きめのカフェオレがひとつ。こいつなりに気を遣ったのだろうか。オレは食ってきたから、とエースは僕に食べることを促した。

「いくら運動場の近くに倒れてたって言っても、倉庫なんて部活中は近付かねーもん」
「……そうだな」
「それとも何?……お前と監督生、付き合ってるから、とか?」

サンドイッチを飲み込むフリをして、エースの言葉に押し黙った。そんな小細工が、妙に聡いこの男に通用するわけがない。エースは大きく溜息をついて、知ってたよ、と宣う。

「お前ら必死で隠してたみたいだけどさ、なんつうの、雰囲気が違うから……分かるよ。別に突っ込むことでもないと思って、言わなかったけどさあ」
「……悪い」
「謝ることじゃなくね?ついでにさ、今日のこれも、彼氏だからって気に病むことでもないだろ」

エースの言うことは最もだ。僕が彼女に関わる全てから守るーーなんて、傲慢にも程がある。僕が責任を感じることは、お門違いなのかもしれない。それでもなんだか、赤い瞳が自分を責めているように感じて、目蓋を閉じた。

そのときーー繋いでいた手がぴくりと動く。反射的に目を開いて、彼女の顔を見た。動いた、と小さく呟くと、エースが身を乗り出す。彼女の顔が僅かに動いて、瞳が、ゆっくりと開いた。

「監督生!」

思わず大きな声が出る。監督生のぼんやりした目が、僕たちを映した。目をぱちくり瞬かせて、まずエースの名前を呼ぶ。何が起きたのか分かっていない様子で、ゆっくりと上半身を起こした。

「お前、体育準備倉庫にひとりで倒れてたんだよ。ジャックとデュースが運んできた」
「え、……ジャックは?」
「ジャックなら、遅いから帰ってもらった。……痛いところはないか?」

声をかける。監督生は、きょとんとした顔で僕を見た。どうしてか誰も喋らなくなって、一瞬医務室が静かになる。監督生が、薄い唇を開いた。

「わたしを運んでくれたんだね、ありがとう。……きみが、デュース?」

ーー空気が固まったように感じた。
は、と自らの小さく息を吐く音だけが聞こえる。監督生の瞳には、なんだか色がないように感じた。鏡のように、ただ真っ直ぐに、僕を映している。

「何言ってんの、おまえ。いつものデュースじゃん。寝惚けてる?」
「いつもの……って。あ、もしかして、エースの友達?」

なんだよ。どうしてそんなことを言うんだ、どうしてそんな顔で僕を見るんだ。ぶるぶると手が震えるのを、ぐっと握り込んだ。訳がわからない。

「おい、冗談やめろ。こいつがどんな思いで、おまえをここに連れてきたと思ってんだよ」

エースが珍しく真剣な顔で詰め寄る。監督生は眉を歪ませて、心の底から困っているといったような顔をした。心臓が今にも口から飛び出して来そうで、どうしようもない。怖くてたまらなくて、その答えを彼女の口から聞きたくなかった。それでも、僕はみっともなく震えた声で、彼女に尋ねてしまった。

「監督生。僕のことが、分からないのか」

暫し時間を開けて、監督生がこくりと頷く。そして、ごめんね、と呟いた。違う、そんな顔をさせたかった訳じゃない。でも、そんな彼女を見つめる僕だって、きっと酷い顔をしているのだろう。
貧血になったときみたいに視界が暗くなる。どうして。彼女は1週間後には、もう僕のそばにはいないのに。

**

ーー監督生は、なぜか僕のことだけを、綺麗に忘れていた。彼女の中では、いつもエースとふたりで行動していたことになっているらしい。医務室の先生は、倒れていたことを加味して、何か魔法を施されて彼女の記憶をいじられたのだろうと言っていた。
でも、その魔法が何なのか解析するまでは、下手に手を出すことができない。だからしばらくは、そのままと彼女といつも通りの生活をして欲しいと告げられた。
……いつも通り。それができるのは、あと3日しかない。
 
「デュースくん」

今の彼女は、僕をくん付けで呼ぶ。理由を聞いたら、優等生っぽいから、と言って笑っていた。

今は昼休みだ。エースの姿はない。監督生の記憶を戻すために、僕たちは、ふたり交代制で情報収集をしていた。今はエースの番で、僕は監督生のそばにいる。倉庫で彼女を襲って来たやつが、また来ないとも限らないから。記憶をなくしたての監督生は、僕と二人きりになると不安でいっぱいの顔をしていたが、最近はそれもほぐれてきたと思う。

「デュースくんとわたしさ、どんな関係だったの?」

監督生が無邪気に聞く。口を開いて、一度閉じた。僕たちはマブだったんだ、そう答えると、彼女は、マブって何?と首を傾げる。

「マブ……えっと、マブダチ。ーー親友ってことだ」
「へえ!」

ーーわたしたち、仲良しだったんだ。デュースくん、優しいし面白いもんね。

今の監督生の口から出る"僕"は、なんだか僕自身じゃないようだ。優等生で、優しくて、面白い友人。監督生が僕を見てくれていないんじゃない、僕が見せたくないんだ。
拒否されるのが怖い。一度受け入れてくれたからと言って、それがまた僕自身を認めてくれる理由にはならない。だから今もーー僕たちは、もう友達なんかじゃないのに。

「デュースくん、ごめんね。わたし、頑張って思い出すから」

あと3日だぞ。たった72時間、それが過ぎてしまえば、彼女は帰ってしまう。僕のことなんて、覚えていなくても関係ない。
それでも、監督生は至って真剣に、僕のーーデュース・スペードという存在を思い出そうとしてくれる。彼女の、こんな真摯な姿勢が好きだった。

「わりー、デュース。向こうでおまえに用があるってやつがいてさ」
「あ、エースだ」
「よ」

そんなことを考えていれば、エースが戻ってきた。監督生には見えない位置で、後方を指差す。その先には、ポムフィオーレ寮生がひとり、柱に隠れるようにして立っていた。
エースがごく自然に、監督生の隣に座る。行け、と目配せされて、僕はその男のところへ急いだ。

「話をして欲しいって言われたんだけど、いかんせん俺も記憶がないんだ」

ポムフィオーレ寮生は上級生だった。彼と連れ立って、人気の無い空き教室に入る。彼は続けた。記憶はない、けれど何を忘れたのかは分かる。覚えていなくても泣いてしまうほどに強く恋をした相手を、忘れてしまったのだと。

「俺、ヴィル様の言いつけで毎日日記を付けてたんだよ。自分を振り返ることは、自分磨きに繋がるからな。それを見返したときに、少しだけ思い出したんだ」
「恋をした相手を、ですか?」
「それは……思い出せない。そういう契約なんだ、俺は、……売ったんだ。自分の恋心を」

彼の日記には、恋の苦悩が記されていたという。それが他人事のように見えてしまうほどに、その"契約"は強いのだ。 
ーー彼は、恋をしていた。しかしそれは叶いそうもなかった。ミドルスクールの同級生で、卒業式の日になんとか連絡先を交換して、細々とやり取りを続けるような、そんな小さな関係。
彼が二年生になる前の休暇で、いつも通り実家のある街に帰省した。そして、その人が、別の男と手を繋いで歩いているのを見てしまったという。その顔がとても幸せそうで、そこに入って話しかけることなんてできなかった。

休暇が終わり、NRCに戻ってきても、その光景は忘れられない。それと同じく、その人とやりとりを続けることもやめられなかった。相手は優しかった。彼氏でもない男のメッセージを茶目っ気たっぷりに返してくれる。それに希望を捨てられない自分が惨めで、諦めたくて、それ以上に、その人が大好きだった。

「それで、その恋心を買い取りたいってやつがいたんだよ。見返りはお金だった。お金で、苦しい気持ちが捨てられるならって、その取引に応じたんだ。もう誰を忘れたのか、思い出せないけど。そんな感じ」
「……教えてくれて、ありがとうございます」

デュースは深々と頭を下げた。ポムフィオーレ寮生は、いいって、頭を上げてくれよ、と狼狽る。
その契約の一部だったのか、彼は、一体誰と契約したのか覚えていないようだった。それでも、この話は大きな進歩だ。

ポムフィオーレ寮生が教室から出ていく。デュースはひとり、誰もいない教室に取り残された。
ーー買い取りたい。契約。その言葉に、確かに心当たりがある。



「デュースさん、お待ちしていましたよ。僕に話があるそうで」

広い空間。中央にあるソファーには、銀髪の男が腰をかけている。ーーアズール・アーシェングロット。デュースは、オクタヴィネル寮の、モストロ・ラウンジへ足を運んでいた。

にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべたアズールは、デュースに反対側のソファーへ座るように促す。警戒しながら、ゆっくりとそこへ腰掛けると、部屋の奥から双子の片割れがドリンクを持ってきた。ジェイド・リーチだ。デュースは、お客様として扱われているらしい。

「……監督生が、僕のことを忘れてしまったんだ」
「おや、それはそれは」
「僕たちなりに調べた。この学校で、人の恋心を奪う契約をしてるやつがいるって」
「それが僕だと?」

アズールは一瞬怪訝そうな顔をして、そしてすぐに隠そうともせず笑った。デュースはその表情に、不快感を露わにする。アズールは、失礼しました、と咳払いをひとつした。

「ご足労いただいたのに申し訳ありませんが、僕ではありませんよ」
「……」
「嘘なんてついていません。というか、その話は本当なんですか?聞いたこともないですが」
「おや、アズールは知らないのですか?」

ジェイドがきょとんとした顔をして話に入ってくる。アズールは僅かに眉を顰めた。それが愉快だったのか、ジェイドはまた笑みを深くする。

「同じクラスのうさぎの獣人の方が同じようなことを話していたのを聞きましたよ。まあ彼の場合は、随分こっぴどく振られたようなので、なんだかすっきりした顔をなさっていました」
「……待ちなさい、ジェイド、それはーー」

アズールは立ち上がる。ジェイドと連れ立って、部屋の奥へ消えていくのを、デュースは怪訝な顔で見つめていた。
あのポムフィオーレの先輩のほかにも、"契約"をした人がいるようだ。てっきりアーシェングロット先輩に心当たりがあると思っていたけれど、どうやら読みは外れたらしい。疑ってしまって、なんだか先輩には悪いことをした。 

10分くらい経って、奥からふたりが戻ってきた。にこにこと笑みを称えていることになんだか不信感を覚えるーー今に始まったことではないが。
デュースが帰ります、と立ち上がると、アズールに制された。

「まあまあ、待ってください。僕らにできることがありますよ」
「……え?」
「協力する、と言っているんです。話だけでも」

アズールは鋭い目を細めて、うっそりと笑う。デュースは上げかけた腰を、ゆっくりソファーに戻した。

**

「遅かったじゃん」

ーー何かあったの。
デュースがハーツラビュル寮にある自室に戻ったのは、門限に程近い時刻だった。
エースが自身のベッドに腰掛けながら待っている。彼の顔を一瞥して、デュースは一回深く息を吐いた。

「監督生から僕の記憶を奪ったやつを、見つけたんだ」
「マジで!?」
「ああ。それでーー明後日、アーシェングロット先輩の取引に同席する」
「……明後日?」

エースの表情が曇る。言われなくても分かっていた、明後日はーー監督生が、元の世界に帰る日だ。

「分かってると思うけど。最後の日くらい、あいつの側にいるのも、選択肢だと思う」
「それも考えたんだ。それにもうひとつーーエースに聞いて欲しい」

アズールとジェイドの心当たり。それは、ある生徒に魔法石の取引を持ちかけられたことだという。
その生徒は、金持ちでも無ければ、成績が優秀なわけでもない。もちろん何かのコネがあるわけでもない。なぜか最近になって、出所の分からない、多量の魔法石を持つようになったらしい。

ーー人の感情は、古来では何よりも魔法の種になると言われていました。ローカルですが、今日でも加工する方法は存在する。
疑う余地は十分にありますね。アズールはそう言って微笑んだ。

「それで、アーシェングロット先輩に言われた。……監督生が、自分から、恋心を売った可能性もあるって」

ーー監督生さんは、近いうちに元の世界に帰るのでしょう。もう二度と会えないあなたへの恋心を抱き続けるより、魔法でも使って消してしまった方が建設的と言えませんか。

「僕はそれを、否定できなかったんだ」

……監督生は優しいから。もしかしたら、そうやって忘れることで、僕を諦めさせようとしたのかもしれない。彼女を帰したくない、そんな醜い願望は、きっと監督生に見透かされていたのかもしれない。でも、それでも。

「だったらお前、諦めんの」
「いや、僕はーー僕は、諦めたくない」

エースの言葉に間髪入れずに返す。それを見たエースは、口角を吊り上げて笑った。

「優しくなくていい。酷い男でいいから、それでもーー俺は監督生に覚えていて欲しいんだ」

監督生の中の、デュース・スペードを取り戻す。それで彼女に恨まれたとしても構わない。酷い男、優しさのかけらもない男ーーそんな男が、きみを愛していたんだと、それさえ覚えていてくれたら、それでいい。

アーシェングロット先輩は、交渉材料を用意しておけと、そう言った。僕に出せるものはひとつしかない。僕のなかの、監督生への恋心。でもいいのだ、それを無くしてしまったとしても、僕はきっと、何度でも監督生に恋をする。そして、きみを思って何度でも涙を流すから。

「明後日、ハーツラビュルで、監督生のお祝いパーティーするから。遅れずに来いよ」

そう言ってエースが笑う。ーー大丈夫だ。きっと全てが、うまくいくから。

**

「来ましたね。デュースさん、あなたはここに」
「クローゼット、ですか……?」
「ええ。取引に部外者がいたら不審でしょう?監督生さんのことは、僕が聞き出します」

取引の日。アズールに言われるがままに、デュースは男が二人入っても余りあるような大きいクローゼットに入った。隙間から中の様子が見れる。
まずはアズールが、今から来る"客"に手の内を明かさせる。逃げられない状況にしてから、デュースに合図を出すという流れだという。……時間になった。

部屋の重厚な扉がノックされる。アズールの、どうぞ、という声が響いた。ドアが開くーー入って来たのは、見知らぬ一人の生徒だった。

「魔法石の取引とのことですが」
「ああ。ひとまず、手元にあるものを持って来た」
「……これですか」

隙間から覗いているであろうデュースには見えないだろうが、その生徒が取り出した魔法石は、どれも美しいものばかりだった。アズールは不信感を募らせる。やはり、この男は。

「素晴らしい!これほどの魔法石を精製したというのは本当でしょうか。材料はなんでしょう」
「作り方は言わないぞ。昔の方法だ、人間の感情を使ってる。……その中でも、恋心だ」

男は得意げに話す。
アズールは、口角が上がりそうになるのを堪えた。やっぱり、来た。そして、こうやって調子に乗って手の内をひけらかす様な人間は、どこかで事を急いている。

「恋心と言うと……人からそれを頂いている、ということですね」
「ちゃんと同意だよ。同意じゃないと、綺麗に抽出できないんだ。……こんな感じで」
「これはこれは、他のものと比べると随分と小ぶりですね。同意ではなかったということでしょうか」

男が袋から取り出したひとつの魔法石は、他のものと比べて、とても小さかった。しかしそれは、中に小さな粒子が輝いて、周りの光を吸い込んだように白く美しい。アズールは、デュースに伝わるように不自然にならない程度に大きく声を張り上げた。

「まあこれは……そうだな。オレが気を遣って、恋心を買い取ってやるって言ったんだ。なのにそれを無碍にしやがってーー女のくせに」

形は悪いし、大きさは小さいが、綺麗だろ。契約の手土産に渡してやってもいいーー男は鼻高々にのたまわった。アズールは笑みを深くする。ーーもう十分、いや、彼が我慢できなくなる頃だろう。

「今日のお話は無かったことにしましょう。僕は懲りたんですよーーあまり人から恨みを買うことはしないようにしようと心に決めましてねえ」
「はあ!?」
「その代わり、僕以外にあなたにお話がある方がいらっしゃいます。その方と今後のお話は、ご相談なさってくださいね」

一方的に言葉を叩きつけて、アズールは悠々と席を立った。男は素っ頓狂な声を上げて、アズールのあとを追おうとする。ーーその間に、第三者が滑り込んだ。

クローゼットから飛び出したデュースは、男の手首を強く強く握りしめる。男の顔色が悪くなっていくのが分かった。離せ、やら、どうして、やら喚く口を、デュースは力でもって黙らせた。

「無理矢理、奪ったのか」
「へ、……へ?」
「無理矢理奪ったのかって聞いてんだよ!監督生から!!」

怒気がびりびりと部屋を震わせる。隅に移動したアズールは、店舗まで聞こえていないだろうか、とぼんやり考えた。
男は惨めにぶるぶる震え、怒りに満ちたデュースの顔を見つめるだけだった。おい、と催促され、青白い唇を開く。

「だ!だって!オレの申し出を断るから!!金に変えてやるって言ったんだ、なのに、」
「もういい。もういいから、黙ってくれ」

こんなやつに、僕の恋心をくれてやる必要なんて、これっぽっちもない。
監督生は断った。僕への気持ちを抱えて、元の世界に帰るつもりだったんだ。惜しんで欲しいなんて、置いていかないで欲しいなんて、子どもだったのは僕のほうだ。彼女は、"僕"と一緒に生きていこうとしてくれていたのに。

「歯ァ喰いしばれ!!」

まずは、監督生の想いを取り戻す。それから、それからーー

離れてしまっても、気持ちがそこにあるのなら。きっと僕らは、ずっと一緒に生きていけるから。

**

あたりはすっかり夜だった。ハーツラビュル寮でのパーティーが終わって、監督生を鏡まで見送ろうと、リドル、トレイ、ケイト、エースの一行は連れ立って歩いていた。

「デュースちゃん、来なかったねえ」

ケイトがぽつりと呟く。エースは拳を握りしめた。何やってんだよ、口の中で誰にも聞こえないよう、小さく呟いた。

「……わたし、最後まで思い出せなくて。愛想尽かされちゃったんだと思います」
「きみが悔いることではないよ。全部事故なんだから、仕方がない」
「そー、寮長の言うとおり」

その場の全員が微笑んでいる。デュースが何かの理由もなしに、この場にいないわけがないと分かっていた。監督生の引くトランクの音だけが、夜空に響いていた。

ーーその時だった。

「なまえ!!」

大きな声が夜空を裂く。監督生が振り返った。ーー道の向こうから、制服姿のデュースが、こちらに向かって走ってくる。見送りに来てくれたんだ。デュースくん、監督生が彼の名前を呼ぼうとした時だった。

トランクを持っていない方の手を、強く引かれる。監督生の体が傾いた。デュースのもう片方の手が、彼女の後頭部に回る。そしてそのまま、ーー唇が重なった。

誰かが、あ、と呟いたような気がした。デュースは熱烈なキスをして、そっと体を離す。そして呟いた。ーー取り戻して来た。

「……え、あ……デュース……」
「思い出したか」

監督生はぶるぶると震えて、トランクから手を離す。デュースの言葉に、こくこくと頷いた。
ーー自分の胸の中に、熱い感情があるのがわかる。好きだ、この人が好きだ。どうして忘れていたのだろう。

「僕が分かるか……?」
「分かる。分かるよ、デュース」

デュースは監督生の手を強く握る。彼女は泣いていた。エースは気が抜けて、思わず声を出して笑った。

「リドル、……泣いてるのか?」
「えっ、嘘」
「泣いてない。適当な事を言わないでくれ、トレイ」

そのやり取りが、なんだかすごく面白くて。デュースも監督生も、手を繋いだまま、涙を浮かべたまま声を上げて笑う。このまま別れが来るなんて、思いたくなかった。

ーーでも、送り出さなくてはいけない。

「デュース、ありがとう」

監督生が笑う。デュースも必死に笑顔を作って言った。僕こそ、ありがとう。
僕を見てくれて、認めてくれてーー好きになってくれて、ありがとう。

「……みなさん、何をしているんです?」

……なんとも空気の読めない声が響いた。全員がゆっくりと振り返る。そこにいたのは、仮面の下でしっかりとは分からないが、きっときょとんとした顔をしているであろう学園長だった。

「学園長こそ。……俺たちは、監督生を送りに行くところです」
「お見送りですか!律儀ーーいや、仲良しですねえ」
「級友との別れですよ。見送りくらい当たり前です」
「別れ?すぐ会えるじゃないですか」

空気が止まった。その場にいる全員の目が、不審な色をもって学園長を見つめる。それが理解できないのか、学園長はやや慌てた様子で言った。

「え?私、言いましたよね、監督生さん。元の世界と、"行き来"できる方法が見つかったって」
「……………あの」
「ですから、帰省みたいな感覚で。ちゃんと月曜日の宿題、出してくださいね」
「学園長。聞いてないです」

監督生の声に温度がない。彼女は今まで見たことのないような顔で、目の前のだらしのない学園長を睨み付けていた。

ーーまさか、私、言ってなかった?これは、感動のお別れだったのか。はあはあ。

瞬時にそう理解し、学園長は踵を返す。そうして、授業に遊びに来るときのように、翼のようなコートをはためかせて消えていった。
……空間を、沈黙が支配する。

「み、みなさん。なんか、ごめんなさい」

監督生は羞恥からか、顔を異常な程に赤くしている。おみやげ、何がいいですか。そう呟く声も震えていてーー
その場にいた全員が、堪らなくなって、涙が出るほど笑った。

ーーしばらく、デュースは、あの夜のことを王子様ムーブだなんだと言って、揶揄われたという。

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