小説 | ナノ


▼ ネロは意地悪だ(まほやく)

(賢者=夢主)

この世界がおとぎ話の中だとしたら、一体どんな言葉で始まるのだろう。
やっぱり、セオリー通りに、昔、昔、あるところに。賢者様と、21人の魔法使いがいましたーーこんな感じだろうか。


魔法舎の中庭に、すこし高い声が響いていた。賢者と、リケとミチル。噴水の大理石に三人で腰掛けて、楽しそうに笑っている様子に、ちょうどそこを通りかかったシノとヒースクリフは、思わず吸い寄せられた。

「楽しそうですね。何の話をしているんですか?」
「あ!ヒースクリフさん、シノさん」
「いま、賢者様の世界の魔法使いの話をしてもらっていたんです」

ヒースクリフの問いに、ミチルとリケはやや大きな声で返す。ふたりの高揚が伝わってきて、ヒースクリフは頬を緩めた。
シノはすこし首を傾げて、賢者に問いかける。

「賢者の世界には、魔法使いはいないんじゃないのか」
「一般的にはいませんよ。2人にしてたのは、フィクションのーーおとぎ話の魔法使いで」
「へえ」

賢者の言葉に、シノの赤い瞳がきらりと光った。これは興味がある、という顔だ。ヒースクリフも、申し訳なさそうな顔をしてこそいるが、興味が隠しきれていない。賢者はなんとなくそれを察して、ミチルとリケにした話をもう一度した。

ーー賢者の世界では、もっとも一般的であろう童話。家族にいじめられるも、優しさとほんのちょっとの勇気を忘れずに生きていた心の美しい女の子が、フェアリー・ゴッド・マザーの魔法で王子様と結ばれる。一連の話の流れをシノとヒースクリフに説明すると、リケとミチルは満足そうな顔をした。

「賢者様の世界では、魔法使いは良いものなのですか?」
「ううん、一概には言えないんですがーー悪いイメージを持つ人はいないかなと思います」

ヒースクリフの言葉に、賢者は逡巡したのち答えた。賢者のいた世界での魔法使いとは、憧れ、夢の象徴。ストーリー上、悪い魔法使いももちろん存在するのだが、人間の味方をする良い魔法使いが主人公であることがセオリーだ。
彼女の言葉に、シノがうすい唇を不満そうに曲げた。

「なんでだ。今の話の魔法使いは、だいぶ性悪だろ」
「シノ、賢者様のお話が分からなかったのですか?」
「理解したぞ」

リケの真摯な眼差しに、シノもまた真っ直ぐな瞳で応えた。何かを感じ取ったらしいヒースクリフが、すみません、と小さく呟く。

「そもそも、どうして12時になったら魔法が解けるんだ。どうせ掛けてやるんだったら、一生そのままにしてやればいい」
「舞踏会用のドレスを普段着にする人なんていないだろ……」
「一国の姫だったらそんなもんじゃないのか」

シノとヒースクリフのやりとりを聞いていたミチルが、でも、と声を上げた。

「フェアリー・ゴッド・マザーは、ずっとシンデレラを見守っていて、幸せを願っていたんですよ。すてきな魔法使いじゃないですか」
「そこだ。ちびのころからずっと見守ってたなら、そいつが幸せにすればいい。なんでぽっと出の王子なんかに任せるんだ。自分で幸せにしろ」

ミチルがぐっと言葉を呑んで、賢者の方を縋るように見る。当の賢者は顎に手を当てて、神妙な顔をしていた。ーー確かに一理あるなあ。

「……人に与えられる幸せじゃなくて、自分の力で幸せを掴んで欲しかったんじゃないかな」

うう、と切ない顔をしたミチルとリケを救ったのは、ヒースクリフの助け舟だった。
ーーシンデレラはただ美しいだけではない。王子様に会いに、舞踏会に行くことを決めたのは他ならぬシンデレラ自身である。彼女が持つ勇気を、後押しする存在が魔法であり、魔法使い。

「すごい、ヒースクリフ。素敵な考え方ですね!」
「そ、そんな」
「だろ。オレの主人だからな」
「そもそもお前が変な考え方するからだろっ!」

にこにこ笑うちびっ子ふたりと、ため息をつくヒースクリフ。そんな彼を得意げに鼻にかけるシノーーそんな穏やかな午後の日。いつかのそれを、賢者はぼんやりと思い出していた。

ーーいじわるな魔法使いは、おとぎ話のなかにしかいないのかもしれない。

「何の話だ?」

くつくつと、鍋が小さな音を立てている。灯の灯ったランプがぼんやりと部屋を照らして、キッチンに立つ男を賢者の瞳に美しく照らし出した。
返事がない彼女を不審に思ったのか、男ーーネロが賢者のいるテーブルを振り返る。はちみつ色の瞳が、オレンジの光を反射している。きれいだなあ、賢者は思った。

「おうい、賢者さん」
「……あ。……えっと」
「なんだよ。もう眠いのか?部屋に帰った方がいいんじゃないか」

言葉こそ突っぱねるようなものでも、その声音に染みる感情が、慈愛に満ちたものだと知っている。ネロは鍋の中のミルクをふたつのマグカップに注ぎ、それを持って賢者の向かい側の椅子に腰を下ろした。

「疲れてるんだよ。これを飲んだら、きっとすぐに寝れるさ」
「ありがとうございます、ネロ」
「いいって」

魔法舎に住むほとんどの魔法使いが寝静まったころ、賢者とネロが食堂でホットミルクを飲むことは、ほとんど習慣となっていた。
晶がふと思い立って食堂へ行くと、ネロは必ずコンロの前で何やら作っている。彼は毎日夜更かしするタイプではないのにも関わらず、真夜中の彼女のきまぐれには、いつだって彼がいるのであった。

「おつかれの賢者さんには、これ。サービスな」

そう言って差し出したネロの掌には、きらきら輝く結晶がふたつ鎮座していた。魔法使いのシュガー。星を象ったようなそれに、賢者は素直にわあ、と声を上げる。おもむろにシュガーを受け取って、じっくりと眺める彼女に、ネロは照れたように笑った。

「そんなに見るもんでもないだろ。珍しくもねえしさ」
「綺麗だから。……なんか、あったかいような気がするんです」
「はいはい。早く入れて飲んじまえ。そんで寝な」

ネロに促されて、シュガーがふたつ、賢者のマグカップに波紋を作る。それはあっという間に溶けてなくなった。
ゆっくりとマグカップを持ち上げて、口をつける。一口飲んだ。おいしい、思わず漏れた声に、目の前のネロの目尻が赤らんだ。

ーーやっぱり、いじわるな魔法使いなんて、いないんじゃないかな。

今度は心の中で呟く。だって、こんなに優しさに溢れたひとなのだから。ホットミルクの甘さも、温かさも、幸福も、きっとすべて、彼がもたらしたものなのだ。

**


ある日の東の国での任務、今回のそれには、東の魔法使いたちに賢者も同行していた。 終わる頃には夜も更けていて、ヒースクリフと賢者は先に魔法舎に戻ることになったのであった。

「賢者様、寒くはないですか」
「大丈夫ですよ、ヒースクリフの魔法のおかげです」

冬の空は、東の国といえど冷たい風が吹き荒ぶ。それでも凍えずに済んでいるのは、ヒースクリフが箒の周りをあたたかく保ってくれているからだった。なにかあったら言ってください、とこちらを少し振り向いて言う彼に、賢者はあたたかい気持ちになった。

賢者はふと脚のーー目下に広がる街を見た。暗い空間に、ぽつぽつと街灯とーーカラフルな光が灯っている。あ、と小さく声を漏らした。ヒースクリフも彼女の視線の方へ目をやる。わあ、と小さく歓声が上がった。

「街が飾り付けられていますね。近くまで行きましょうか」
「え、でもヒースクリフ、疲れているんじゃないですか」
「あはは、俺は平気ですよ。あとは乗って帰るだけだし」

ホウキはすいと行き先を変え、家々の屋根へ迫っていく。色とりどりの光はとても綺麗で、賢者はクリスマスを連想した。この世界にも、イルミネーションってあるんだ。

「すごい。上からイルミネーションを見るなんて、初めてです」
「自分の足で歩くのもいいですけど、ここは特等席ですね!」

ヒースクリフが笑って、また地面に近くホウキを少し寄せる。ストリートを行き交う人たちは、イルミネーションの明かりに気を取られて、頭上の魔法使いたちには気がついてない。
一緒に見るのが俺なんかで、すみません。ヒースクリフの言葉に、賢者は目を剥いた。

「え、ど、どうしてですか!?」
「だって、こういうロマンチックなものは、恋人と見るものかな……って。俺とネロが代わればよかったかな」
「ネロ?」
「賢者様、ネロと恋人同士ではないんですか?」

暫しの沈黙。そののち、賢者は額に汗をどっと滲ませて、違いますよ!?と大きな声で怒鳴るように否定した。
その剣幕に、ヒースクリフは一瞬気圧される。自分の勢いに気付いた賢者は、穴の空いた風船のように萎んで、すみません、と小さく謝った。ヒースクリフが笑う。

「ネロと賢者様が、ときどき夜にキッチンでお話ししているのを見たことがあるんです。そのときの雰囲気が、とっても親密そうだったので……」
「み、見てたんですね」
「すみません……」
「そんな、謝ることじゃないです」

先程とは違う種類の沈黙が、わずかな間2人の空間を支配する。
ーーネロと私が、恋人同士?

「ネロは、優しいですし。それに、誰にでもそうするわけじゃないから」
「そうですね」
「だから、私」

ーー勘違いをしてしまいそうになる。
賢者は白い息と共に、小さくその言葉を吐き出して、それを少し後悔した。私、どうしてこんなことを。ヒースクリフだって、困るに決まっている。 

ネロはとても、愛情深い人だ。人を愛してしまうから、傷つくのを恐れている。その恐れがあっても尚、彼は私に触れてくれる。その感触は、優しさは、愛でなくてなんだというのだ。そして、その気持ちを受け留めるのに、わたしは相応しいのか。ーーどうだろう、彼の慈愛は、"私"でなく、賢者に向けられた物なのかもしれないな。

「勘違いなんかじゃありませんよ、きっと」

ヒースクリフの言葉とともに、賢者と彼を包む空気が、また一段と暖かくなった。片手をホウキの柄から外して、自分の腰あたりに回されている賢者の手の上に重ねた。

「俺も、……自分に自信があるわけじゃないから、分かります。そういうときは、周りを見るといいんです」

ーーシノという、立派な従者に慕われているという事実を心に抱く。そうすると、揺らいだ自分が確立するような、そんな気がするのだ。

「ネロが賢者様に向けている優しさは、事実ですから。それなら、勘違いなんてーーありえないんじゃないかな」

ヒースクリフの穏やかで少し低い声が、夜の闇に溶ける。少しだけ遠くの灯りを見ながら、帰りましょうか、と笑った。

**

「賢者様、おめでとう!遅くなっちゃったけど、これ、俺からのプレゼント。よかったら着てみて!」
「えっ?」

そんなある日、いつもと変わらない日常の中。賢者が朝ごはんを食べようと食堂へ降りてきたところで、目をきらきらさせたクロエに話しかけられた。その腕には、華やかな包装紙で包まれた大きめの箱ーープレゼントが抱えられており、クロエはそれを賢者に差し出している。今の状況がよく分かっていない彼女を置き去りに、ルチルとミチルが近寄ってきた。

「時々はボクたちとも一緒にお話しして、あと、お茶もしてくださいね!」
「えっと、ちょっと待ってください。話が読めないんですが……」
「ふふ、実はですね、賢者様に良い人ができたって話題で、魔法舎は持ち切りなんです」

ルチルが賢者の耳に薄い唇を寄せていった言葉に、賢者は文字通り飛び上がった。一体どこで、そんな話を。

「な、そんなこと言ったの、一体誰ですか!?」
「俺はラスティカから!」
「フィガロ先生です!」
「えっと、ムルさん……あれ、スノウ様だったかも?」

ひとまず、噂が出回ってしまっているということはよく分かった。賢者は、今すぐため息をついて座り込んでしまいたい気分になったが、みんながニコニコ微笑んでいる手前、心配をかけてしまうようなことはできない。ひとまず、クロエの贈り物を大事に頂戴して、自室に戻ることにした。

「賢者さん!飯はどうするんだ?」
「支度が終わったらいただきます!すみません、食器は自分で洗うので」
「そんなの気にすんなよ。急がなくていいから、転んでもしらねえぞ」
「転びませんよ!」

生温かい視線から逃げるように食堂を後にしようとしたとき、いつもと変わらない様子のネロから声をかけられた。じゃれあいにも近い応酬を交わして、賢者は今度こそ食堂を出る。
ーー困ったことになった。ただ噂が出回るだけならいい。でもこの雰囲気は、非常にまずいのだ。



「なまえさん!」

最近めっきり呼ばれなくなった自分の名前に、思わず振り向く。中央の国の城下にあるマーケット、その人混みをかき分けながら、一人の男性が賢者ーーもといなまえを目掛けて走ってきていた。

「良かった、今日も会えて。この時間に来たら会えるかなって思っていたんですよ」
「わたしに?」
「はい、もちろん」

その男性は、まさに今、魔法舎を取り巻いている(らしい)噂の渦中の人であった。賢者に「良い人」ができたらしい、といった旨の。
その男性は当然のようになまえの隣に並び、取り止めもない話を始める。それが嫌とも言い切れないところが、なまえが頭を悩ませている大きな原因であった。

言わずもがな、賢者の魔法使いたちは美形揃いである。背も高ければ脚も長い、性格にさえ目を瞑れば、そこは少女漫画の世界のようだった。
この男性には、正直にいってしまえば、そんな漫画のような要素はひとつもない。背はなまえより少し高いくらい。普通に歩いているはずなのに、何もないところで突然躓くような、少し抜けている人。でも、彼を取り巻く雰囲気は、春の日のように暖かかった。
晶のあまり長くはない足に歩幅を合わせ、ゆっくりと喋る。彼女を見る目には、慈悲に似たあたたかみがあった。当事者の彼女から見ても、この男は、なまえに好意を寄せていることは明らかだった。

「もうそろそろ、西の国に行こうと思ってるんです。国の端っこにある峡谷に、この時期だけオーロラが出るんですよ」
「オーロラ?西の国に?」
「不思議でしょう?俺も最初見たとき驚きました!だから毎年行って、なんでかなって考えるんです。頭は良くないので、原理とかは分からないんですけど」

男は、国中を回っているらしかった。なまえに会うたびに、今まで自分が見てきたものの話を、それがとても貴重な宝物であるかのように話す。日常に落ちているいろんなことを、幸せに変えて生きている彼を、なまえは純粋に好ましく思っていた。

「話しすぎちゃいましたね。もう帰りですか?よかったら送っていきますよ」
「そんなの、ぜんぜん。楽しかったので大丈夫ですよ。家もすぐそこなので、気にしないでください。じゃあまた」

一つの場所に定住していないおかげか、男性は世の中の事情に疎かった。目の前にいるごく普通の女が「賢者」だということを、このひとは知らなかったのである。そのことを都合がいいと思う一方で、なまえの心には靄がかかっていた。

このひとは、わたしが普通の女性でないと知ったら、どうするのだろうか。異世界から連れてこられた別世界の人間で、「賢者」という役割があって。

「なまえさん?」
「賢者さん?」

ーーこの前のことを思い出しているうち、いつのまにか、瞼が下がってしまっていた。ネロ、と小さく目の前の人の名前を呼ぶと、いつものように眉尻を下げて、困ったように笑った。

「寝不足か?疲れてるのに声かけて、悪かったな」
「いや、そんなこと!こっちこそすみません、ちょっと寝てしまって」
「いや、俺がのんびり果物なんて見てたせいだろ。お詫びだ、ほら」

そう言って、ネロは紙袋から葡萄に似た果実を一粒取り出し、賢者に渡す。賢者は戸惑いながらもそれを口に含んでーー眉をぐっと顰めた。すごくすっぱい。

「はは、目ぇ覚めたか?」
「先に言ってくださいよ……」
「甘く煮たらうまいぞ。帰ったらそれでケーキでも焼こうかな。食ってくれるか?」
「……許します」
「やったね」

行こう、とネロが一声かけて、人混みへと歩き出した。賢者もベンチに座っていた腰を上げて、慌てて後を追う。買い出しに来た中央の国のマーケットは、相変わらず混雑していた。
男性に会って、西の国のオーロラの話をした時から、一週間が経っていた。お互い約束もしていないから、会えなくても不思議はない。

「今日のご飯はなんですか?」
「肉かな」
「あ、ブラッドリーですね?」
「そうそう、今回は南の国の端っこまで飛ばされちまったんだってさ。少しくらい労ってやってもいいだろ」
「確かに。喜びますね」
「さあ、どうだかな」

たわいもない会話を続けていたとき、ネロはふと口を噤んだ。何やら言いたげな空気に、賢者は首を傾げる。ネロの蜂蜜色の目と視線が合わさったとき、「なまえさん!」ーー声が聞こえた。

ネロと賢者、二人揃って声が聞こえた方向へと振り向く。人混みをかき分けて、いつものように、あの男性がこちらへ向かってきていた。賢者が小さく息を呑んだのを、ネロは聞き逃さなかった。

「なまえさん、久しぶりですね。……そちらの方は……」
「け……えっと、なまえ。なんか立て込んでるみたいだし、先に帰ってるよ」
「あ、ネロ……」
「じゃあな。ほら、荷物」

賢者の答えを聞かず、ネロは彼女の手から荷物を攫って、人混みに消えていった。あ、と、意味を持たない声を一つ漏らして、賢者はネロの背中を見送る。そしてすぐ、男性へ向き直った。

いつもあたたかい色を湛えている瞳は、今日はなんだか冷え冷えとしていた。男性は瞬きを数回して、お邪魔してしまってすみません、と頭を軽く下げる。賢者は慌てて首を横に振った。乾いた唇をぺろりと舐めた男性は、なんだか緊張しているようだった。

「お邪魔なんて。そんなの……」

話が途切れる。いつもと違う雰囲気に、なまえの背筋に冷たい汗が滲んだ。男性は短く息を吐いて、意を決したように顔を上げる。

「あの。答えたくないならいいんです。でも、さっきの方とはーーどういう関係ですか?」
「どういう?えっと、同僚です。仕事の買い出しに来てて、今も……」
「そうですか……」

嘘はついていない、はずだ。わたしとネロの関係は、賢者と魔法使い。厄災を止める、その目的に向かって共に歩むだけの間柄。分かっているのに、言葉にすると、胸の奥がちくりと痛んだ。

「じゃあその、職場までお送りします。同僚の方は先に戻られたみたいだし」
「えっ、いやその、いいです。大丈夫です、一人で戻れます」

再び、二人の間を沈黙が支配する。男性の目は悲しげに伏せられていて、なまえはどうしようもなく叫び出したくなった。
ーー壁だ。このひととの間に、越えられない壁を感じる。

「なまえさん。あなたはーー」

そのひとの、次の言葉を聞くのが怖かった。冬の日の乾いた風が、ふたりの間を吹き抜ける。それが肌を突き刺して、胸の奥まで凍えるようだった。

**

ほのかな灯だけで照らされた廊下は、一人で進むにはなんとも心許ない。夜も更けた魔法舎は、住民たちはみんな部屋に戻り、ひっそりと静まりかえっていた。
冷たい空気に包まれた廊下を、賢者はゆっくりとした足取りで歩く。澱みなく。そうしてたどり着いた部屋からは、水音と、セラミックが擦れる音がしていた。

「ネロ」

空の色の髪が振り向く。賢者の姿を視界に入れると、ネロは蜂蜜のような目を見開いて、「ーー賢者さん?」小さくその肩書きを口にした。

「なんだよ。また眠れないのか?」
「……まあ、そんな感じです。たぶん」
「たぶん、ねえ……」

ネロは息を含んだ声でそう呟いて、薄い唇を閉ざした。いつものように、小さな鍋を戸棚から出して、ミルクを少し、蜂蜜をスプーン一杯。それを弱火にかけて、ゆっくりとかき混ぜる。ネロが彼女に声をかけようともう一度背後を振り向いたとき、賢者はまだ入り口の前に立ち尽くしたままだった。
「どうした?」
「……今日会った、あの男の人、いるでしょう」
「うん。あーっと、あの……噂の男だろ。西のやつらとか、ルチルとかが盛り上がってる」

「あの人に、一緒に西の国に来てほしいと誘われたーーって言ったら、どうしますか」

賢者の瞳は、ただ真っ直ぐにネロを見ていた。それをしばらく見つめ返してーー鍋を見なければいけない、そんな言い訳を頭に浮かべて、ネロはふっと視線を逸らした。火は弱い。数秒目を離しただけで、どうにかなるものでもないのに。

「そいつ、西の国に住んでるのか?」
「いいえ、旅の人です。これからの旅に、着いてきて欲しいとーー」
「…………それは、厳しいんじゃないか」

自分の声はあまりに無機質で、ネロは、自身の機械のようなそれに驚いた。誤魔化すように言葉を重ねていく。だってさ、賢者さんは"賢者"だから、この世界にいるわけだろ。その役目をよそに置いて、他のところに行くっていうのは、誰かの一存じゃ決められない。まあ、やり方は色々ありそうだけどな。魔法舎は出るけど、どこか近くで暮らすとか、何か用事があるときは、ミスラに迎えに行ってもらうとか。そうして考えるんならーー

「ネロ」

言葉を吐き出せば吐き出すほど、自分の声の冷たさが嫌に目立った。こんなことを言いたいんじゃない、それなのに、言葉は気持ちとは違う方向へと勝手に飛んでいってしまう。それを、賢者が静かに遮った。

「……ネロに、聞きたかったんです。賢者とか、魔法使いとかじゃなくて、ネロに」
「…………」
「わ、……わたしが……あの人に付いて、西の国に行くと言ったら」

賢者の声は小さく震えていた。ネロはそれに気が付いてーー開きかけた口を一度閉ざす。
ーー行くのか?西の国に。あの男に着いて?本気で?あの人間と、一生を添い遂げるってことだ。魔法舎も、賢者としての役目も、魔法使いたちも、全てを置いて。……俺のことも?

「そうだな。色々片付くんだったら、いいんじゃないか。……"賢者"さん」

長い間黙りこくって、ようやく吐き出した言葉は、ほんとうに詰まらないものだった。
そこでようやく、ネロは顔を上げて、賢者の顔を見ることができた。彼女は、大きい目を不安そうに揺らめかせて、紙みたいに白い顔でこちらを見ていた。視線がぶつかると、彼女はふいと目線を下に落として、

「ーーそうですよね。すみません、変なことを聞いて」

早口でそう言って、小走りに食堂から出て行ってしまった。彼女がいつも履いている革靴が床を叩く音が、ぐんぐん遠ざかっていく。
ネロはぐっと唇を噛んで、ひとり、どうしようもなく泣きたくなった。胸の奥がぎりぎり痛い。は、と小さく息を吐いて、手元の鍋がぼこぼこ沸騰してしまっていることにようやく気がつく。ああ、困った。でも、飲む人はもういないんだったな。だって、俺が傷付けたから。

「どうしろって言うんだよ」

ぽつり呟いた声は、誰の耳に届くこともなく、石の壁にただ吸い込まれていく。彼女はもう、ここには来ないだろう。何にも特別ではないホットミルクを、大切なご馳走のように大事に飲んで、白い頬をかすかに赤らめて笑うあの人を、他の男に取られるかもしれない。そのことよりも、二人だけが共有していた時間を、己の手で失くしてしまったことが、何よりも重くネロの胸にのし掛かった。

俺が、あの子を幸せにできるはずがない。だって俺は、ずっと。

**


ネロは、ひどい人だ。だってそうでしょう。わたしの気持ちを知っていて、突き放しもしない。受け止めることができない想いなら、あんたのことはそういう目で見ることができない、と、諦めてくれ、と、そう言ってさえくれれば、こんなに悲しいことはないのに。あの夜から一週間、何も彼と話さないなんてことはなくて、きっと以前と同じ、賢者と魔法使いの関係に戻れたはずなのに。

「人じゃねえだろ、魔法使いだ」
「……ブラッドリー、今、揚げ足をとるタイミングじゃないですよ」

わたしのどうしようもない戯言を、黙って聞いていたはずのブラッドリーが、突然話に割って入ってくる。聞いていたというより、興味もなくただ聞き流していたように感じていたのだが。話をちゃんと聞いていたんだな、と、内心妙な部分で感心した。

「揚げ足じゃねえよ。違うもんなんだよ、根本的なところがな」
「じゃあ、ネロは、"意地悪な魔法使い"だ。それでいいですよね」
「ははは。そうむくれんなって」

1時間ほど前、偶然廊下ですれ違ったブラッドリーに、食堂にお酒を忘れてしまったから自室まで持ってこいと絡まれた。夜の食堂、それは今のわたしが一番行きたくない場所である。見るからに渋い態度を取るわたしに、彼は逆に興味が湧いたようで、話を聞いてやるから早く持ってこいと、蹴飛ばすようにお使いをさせられたのであった。
酔ったブラッドリーは上機嫌だった。いつもよりも言葉数が多い。また一口、度数のきついお酒を煽って、やや紅潮した顔でわたしに言った。

「そもそも、その男はどうしたんだよ」
「あー、あの人ですか。いや、それも……うーん……」
「なんだよ、早く言え」
「そんな面白い話でもないですよ」

雰囲気に呑まれて、わたしも目の前のワインをちょっとだけ飲んだ。果実と強いアルコールの匂いが、あっという間に頭の中を満たす。きっとこれは上等なものなんだろう。でも、そもそもがアルコールに強くないわたしにとっては、ただ脳みそが震えただけだった。

あの人ーー旅の彼に、西の国に行こうと言われたのは本当だった。そしてそれを断って、別れを告げたのだ。

「その人、わたしが箒に乗っているところを見ていたんですって」

東の国、ヒースクリフと一緒に夜景を見た夜。あのとき彼も同じ場所にいて、箒に乗るわたしたちを見ていたと。そして中央の国でわたしを見かけ、興味を惹かれて声をかけた。ただ、わたしに、この先の旅へと誘いをかけた理由は、魔法使いとか賢者とか、そういうことではないと言っていた。

「僕とあなたは別の世界の人なんですねって、そう言われました。そんなの知らないですよね。別の世界、それって、魔法使いと賢者、それとは別に人間の皆さんがいるっていう意味ならーーなんでわたしは、あの人の心に踏み入ることができないんでしょうか」

人間にも、魔法使いにも寄り添うことができない。そんなわたしは、一体どこへ行けばいいのか。いやーーそもそもが、前提として間違っているのかもしれない。わたしは異世界から来た別の生き物なのだから。賢者とか魔法使いとか、そんなものを全部取っ払ったら、わたし自身の価値なんてないのかもしれないな。そんなことを考えてしまう。

「あいつも大概だけど、お前もそうだな。根暗だ」
「ちょっと、わたしは……まあいいですけど、あいつって?」
「いいのかよ。ーー決まってんだろ、ネロだよ」

ブラッドリーの言葉に、思わず口を閉ざした。彼は色っぽくため息を吐いて、いつもよりもゆったりとした口調で話し出す。

「分かるだろ、あいつ、ものの考え方が陰気くさいんだよ。特に人付き合いのな。さすが東の魔法使いだ」
「陰気くさいなんて。そんなのーー」
「知らなかった、なんて言うなよ。お前もわかってんだ、だから"意地悪"なんて言い方するんだろ」

根暗、陰気くさいーー散々な言われようだ。言葉の色は置いておいて、彼が何を言いたいのか、ゆっくりと考えを巡らせる。そうこうしているうちに、ブラッドリーは、組んでいた長い脚をゆったり下ろして、ソファーから立ち上がった。靴の踵を鳴らして、わたしの真横に躊躇なく腰を下ろす。彼の重みで、皮のソファーが僅かに沈んだ。

「ちょ、なんですか。……ブラッドリー?」
「あいつに限ってはな、言葉にしないんだよ。こっちが詰め寄っても、大事なことは一言だって言いやしねえ。だから、こういう単純なのが"効く"んだ」
「効く?」
「いいから大人しくしておけよ。俺様が一肌脱いでやるんだ、悪いようにはしねえ」

長い前髪の隙間から、宝石のような瞳が覗いている。それがあまりに美しくて、ずっと見つめていると、涙が出てしまいそうだった。思わず視線を逸らしてしまったのを、ブラッドリーは笑って、机の上にあったグラスを無理やりわたしの口に押し付けた。咄嗟のことに口を閉じることもできなくて、口内にワインが全て流れ込む。頭どころか、身体中がガッと熱くなって、全身の力が抜けた。

「おいおい、ここからが本番だろうが。シャキッとしろよ」
「そんな……あの……むりれす……」
「だらしねえなあ」

うにゃうにゃ喋るのがやっとで、身体が前の方ーーテーブルに突っ込むように倒れていく。それをブラッドリーの力強い腕が抱きとめた。頭はグラグラ、息はたえだえ、そんなわたしに彼が「……やりすぎたか?」と呟いていたのなんて、そのときのわたしには分かるはずもなかった。

そのとき、コンコンと硬いノックの音が遠くに聞こえた。誰かが訪ねてきたようだ。無理やり体を起こそうとすると、ブラッドリーは、「そのままでいい。むしろ動くな」なんてよくわかんないことを言ってくる。動きたくっても、アルコールが体の中で猛威を振るっているおかげで、立ち上がることなんてできないのだけれど。

「入っていいぜ」

ブラッドリーの声に、扉が開く音がした。重たくて下に落ちそうになる身体をブラッドリーが強く抱き寄せて、上半身同士が密着する。目の前には、彼の頭とお揃いの色のネクタイの結び目があった。
入ってきたであろう人物は、何も言葉を発さない。一体誰が来たんだろう、重たい瞼を持ち上げようとしたとき、ブラッドリーの大きな手のひらが、目隠しをするようにわたしの目のあたりを覆った。

「……おい、何のつもりだよ」
「見りゃ分かるだろ」

聞こえた声に、まさか、と思うより先に、間髪入れずブラッドリーが挑発するような言葉を返した。心臓が、酔いとは違う意味合いで大きく脈打っている。

「やめろ。賢者さんにはもう決まった相手がいる」
「へえ、初めて知ったぜ。で、それが自分だって?」
「…………違う。誰だって関係ないだろ、早く離れろよ」
「お前、忘れてんのか?俺様は盗賊だ。誰かのものだって、欲しかったら取っちまう。それが顔見知りでもねえ、どっかの誰かさんのものだってんなら尚更な」

ネロだ。ネロがそこにいる。目を開けても手のひらで覆われたままの視界はただ暗かった。重たい右手を動かして、ブラッドリーの手のひらをどかす。力を入れなくても、簡単に取れてしまった。
ガンガン痛む頭を動かして、眩しくなった視界でネロを見た。視線がぶつかる。彼の瞳は、なぜだかは分からないけれど、悲しげな色でいっぱいだった。

「そういう話をしてんじゃねえよ。酒で潰れた女を好き勝手させるわけにはいかないだろ。はやく賢者さんを渡せ」
「はは、ムキになってきたな。どうする賢者、行ってやるか?」
「ふざけたこと抜かしてんな!!」

ついにネロが怒号をあげた。頭のすぐ上で、ブラッドリーが笑った気配がする。ネロは肩を怒らせて、飛びかかるような勢いでわたしたちが座るソファーに近寄ってきた。

「酒に酔ってなければいいのかよ。それとも、同意があったらいいのか?」
「しつけえよ!!」
「てめえに言い訳すんのをやめろっつってんだよ!見苦しいぜ、ネロ」
「っ、なにをーー」

その瞬間、ブラッドリーはわたしの脇の下を力強く抱えて、そのまま宙に放り投げた。ネロの方へ。わたしの体はぬいぐるみのように宙を舞って、驚きのあまり悲鳴も出なかった。焦った声を出したのは逆にネロの方で、うわ、とかぎゃあ、みたいな間抜けな悲鳴を上げながら、飛んでくるわたしを何とか受け止めた。

「ブラッド!!」
「発破かけんのも、思ったより面倒臭えな。でもこいつが辛気臭え顔してると、もっと面倒臭えんだよ!責任とって何とかしろ!」
「はあ?お前マジで何言って……」
「とっとと出てけ!」

ブラッドリーは犬猫でも追い出すような勢いでわたしたちを追い立て、本当に廊下に放り出した。静かな空間に、何が起こったか分からない様子のネロと、ようやく酔いがちょっと覚めてきたわたしだけ。痛む頭を押さえながらよろよろ立ち上がると、ネロの大きな手がわたしの背中を支えた。

「歩けるか?」
「なんとか……」
「無理すんな。ほら」

足元もおぼつかないわたしを見兼ねたのか、ネロが目の前に腰を下ろして背中を向けた。乗れ、ということらしい。思考力が低下した頭のまま、お言葉に甘えて、おぶってもらうことにする。彼の背中に体重を預けて、腕を首の前に回すと、ネロはゆっくりと立ち上がって歩き始めた。

「ったく、どんだけ強いの飲ませたんだよ……。賢者さんも、ノコノコああいうのの部屋には行くな」
「…………話、聞いてくれるって……言ったので」
「話?」
「恋愛相談、みたいな……」

わたしの言葉に、ネロは小さく息を呑んだ。そして、水飲んだ方がいいな、と呟いて、脚をキッチンの方へ向ける。わたしはされるがまま、彼の温かな背中に身を任せていた。

「ネロ」
「どうした?」
「……さっき、守ってくれたの、うれしかったです」

ーーあなたに、そんなつもりがなくても。

「わたし、ネロのこと好きなんです。ばれてましたよね?」

酔いと、彼の背中の温もりと、ゆりかごのように小さく揺れるリズムと。それがどうしようもなくわたしを安心させて、頭の中を鈍らせていく。幸せなはずなのに、どうしようもなく悲しかった。涙が出そうだった。

ネロはやっぱり、何も言わない。わたしを、彼の優しさにただ自惚れた女にして欲しかった。だってそうじゃないと、彼を恨んでしまいそうで。勝手に恋心を寄せて、勝手に向こうもわたしをよく思ってくれてるんじゃないかと期待して。それに何の返事をもらえないからって、相手を恨んでしまうなんて、お門違いもいいところだ。意地悪なのは、ネロじゃなくて、わたしのほうだ。

「……知ってたよ。いや、そうじゃないかなって思ってた」

ーー似たような話をした。あの夜、わたしの問いかけに、彼は、魔法使いと賢者の枠組みを外すことはなくて。

「そうだったら、良いってーー思ってたんだ。たぶんな」
「そんなの、どうして」
「ださいだろ。怖かったんだよ、特別な関係になるのも、それが終わるのも」

初めてだった。魔法使いも、賢者も、人間も、そんなカテゴライズは全て他所において、ただの別のいきものとして、彼の心を語ってくれている。それが心の底からたまらなく嬉しくて、体が小さく震えた。

「今ここで、あんたが幸せなら、それだけでいいと思った。俺は魔法使いで、あんたは他の世界から来たんだ。きっといつかは別れる、それがあんたのためになる」

そう思って、でも少しずつ、その決意は綻んでいった。
ーー恋だったんだ。きっと、どうしようもなく。こんな気持ち、失くしてしまったと思っていたのに。話すたび、笑うたび、触れるたび、もっと愛おしくなる。俺が晶を幸せにする時間が、もう少しあったっていいと思って。

「でもさ、あのーー旅の男?あれを見た時に、なんだろうな。だめだ、って思ったんだ」
「だめ?……なにがですか?」
「だって、おんなじだろ。生きてきた年月も、環境も似たようなもんだ。価値観も。きっと、これから生きていく時間も」

目が覚めた。この子は、俺みたいなのが縛りつけてちゃいけないんだ、と。時間が進めば、俺が彼女に与えられるものなんて、一体いくつ残るだろう。
リケとミチルが話していたおとぎ話を思い出した。賢者様の世界の魔法使いは、主人公を小さい頃から見守り育て、そして、最大の幸せを贈るという。俺も、それになりたかった。彼女のそばにいられなくても、幸せになるなら、それで。

「でも、だめだな。あんなに熱くなると思わなかった。ブラッドが手ェ出そうとしてるところ見たら、頭に血が上ってさ。人間とか、魔法使いとか、そういうのも、きっと言い訳なんだ」

ネロの話を聞いているうちに、キッチンへと着いた。彼は、着いたぞ、と何でもないことのように声をかけて、そのあたりの椅子にわたしを座らせる。そして、冷蔵庫のあるあたりに向かおうと、わたしに背中を向けたまま一歩を踏み出した。たまらなくなって、思わず手を伸ばす。白いシャツの端っこを、指の先でやっと引っ張った。

「……返事、とか、聞いてくれないんですか」
「そんな大層なものでもないだろ」

ネロは眉を下げて、困ったように笑う。大層なものじゃないって、そんなの。わたしに取って、どれだけ、その言葉が大切か分かってないの。

「ーーネロは、意地悪ですね。本当に、意地悪な魔法使いです」
「いやっ……え?賢者さんがそういうなら、そうかも……?」
「そうです。だって、何も知らないじゃないですか。わたしがどれだけ、どんな気持ちで、ネロのことが好きなのか」

ネロがわたしの方へ振り返る。その背中に手を回して、胸に思い切り抱きついた。不意を突かれたのか、彼が少しよろける。わたしは彼にしがみついたままその場にしゃがみ込んで、ネロも一緒にその場に膝をついた。

「おい、賢者さ…… なまえ?」
「同じ時間を生きられないなんて、分かってます。分かってるんですよ、だから一緒にいたいんじゃないですか!」

自分がいつか、賢者の役目を終えるとき。わたしがいつか、ネロより先に眠りにつくとき。彼がわたしのことを嫌いになって、そばから離れていくとき。

「だからこそ、この少ない時間に、分かってもらいたいんです。わたしが、どれだけ、あなたを好きか。わたしの心を信じて欲しいから」

わたしを幸せにしたいなら、あなたがそばにいてくれなければダメです。あの魔法使いのように、わたしを他所の王子様に任せないで。違う人と恋をすることを許さないで。

「好きです。ネロ、好きです。幸せになってください。できるなら、わたしと一緒に」
「わかった、分かったよ。だからそんな悲しそうな顔しないでくれ。俺まで泣きたくなる」
「……泣いてませんよ」
「膜張ってる」

ネロがわたしの頬に手を当てて、少しだけ上を向かせた。蜂蜜色の瞳が目の前にある。ネロの親指が意地悪く、わたしの目の下あたりを弱く押したから、ぽろりと一粒涙が溢れた。

「うん。そうだな、俺は意地悪な魔法使いだ。だから、ちょっとひどいこと言ってもいい?」
「なんですか……?」
「ああもう、だからそんな不安そうな顔するなってば。あのな、俺はーー」

俺は、なまえのことが好きだよ。だから、あいつのことは諦めてくれ。西の国じゃなくて、ここで暮らそう。ここで、一緒に、幸せになってくれ。

ネロがわたしを優しく抱きしめる。ひどいこと、なんて言いながら、その背中はとても不安げで。それがたまらなく愛しくて、わたしも精一杯彼を抱きしめ返した。

この魔法は、12時になっても解けることはない。彼が隣にいてくれる限り、素敵なドレスも、カボチャの馬車も、ガラスの靴も、すぐそこにあるのだ。だって、魔法以上にずっと素敵な幸せを、一緒に作っていけるから。ちょっと意地悪な魔法使いと一緒に。




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