- ナノ -

悪意と善意


 美化委員の仕事の一環として支持された清掃を促すポスターは、結局姉貴に絵心のなさを笑われながらもどうにか完成させた。

「それじゃあ各自指定された場所に貼ってきてねー」
「はーい」

 放課後、再び集合をかけられた美化委員たちはそれぞれ割り当てられた場所に、自作したポスターを持って向かう。絵心がある人や、パッと目を引くポスターは昇降口や職員室前の掲示板など、人の目につきやすい場所に貼ることになっている。俺は絵心がないから、渡り廊下の先にある特別教室棟の廊下を指定された。この特別教室棟には音楽室や美術室、書道教室、理科室、被服室といった移動授業が必要な教室が集められている。あとはそれに伴う各準備室とか。
 だから人通りは多くもなければ少なくもない。とはいえ、各生徒が集められている普通棟や体育館へと通じる廊下に比べたら人の目には付きにくいから、割と残念な場所とも言える。
 俺としては下手な絵を人に見られたくないからありがたいんだけどな。それにみんなも『ポイ捨て禁止』なんてポスターは見慣れているだろうから、歯牙にもかけないだろう。

「よいしょっ、っと」

 クラスの中でも割かし身長が高いから、ポスターを貼る時に苦労はしない。だいぶ年季の入った掲示板に画鋲を押し込んでポスターを固定し、全体のバランスが可笑しくないかを少し離れた場所に立って検めてから踵を返す。

「今日はポスターを貼ったら解散だから……」

 もう帰れるな。と内心ホクホクしていたら女子生徒数人が昇降口近くに集まって何かを話していた。

「てかさー、野瀬くんにあれだけ話しかけられてんのに無視するとか酷くない?」
「だよねー。何様? って感じ」
「あ。でもー、一年の時からそうだったみたいだよ」
「はー? なにそれ〜。マジゴーマンだよねぇ〜」

 うっわっ。聞きたくない話が聞こえてきて咄嗟に回れ右をする。
 いやいやいや。だって、これ絶対鶴谷さんの悪口でしょ。姉貴や姉貴が連れて来る友達ってこういう風に陰口言うタイプの人じゃないから、女子の陰口を聞くと心臓がドキドキしてしまう。
 勿論『悪い意味』で、だ。
 だって、彼女たちの言葉には明確な『悪意』がある。
 確かに姉貴だって人のことを揶揄ったり、時には「バカ」だの「アホ」だのと罵倒してくるけど、それでもそこにあるのは『悪意』ではない。姉貴の友達も明るくていい人ばかりだ。だからだろうか。こういう、女性特有、と言ったら怒られそうなんだけど、コソコソと囁かれる心臓に痛い陰口は苦手だった。

 ……そもそも、野瀬くんと鶴谷さんが話すのがイヤなら先に自分たちが野瀬くんを捕まえて話し込んだらいいのに。
 野瀬くんがどうしてうちのクラスに来ているのかも謎なうえ、彼女たちは鶴谷さんと野瀬くんを近付けたくないみたいだ。だったら鶴谷さんの陰口を言うんじゃなくて野瀬くんを引き留める方向に舵を切ったらいのに。よく分からない。

「でも野瀬くんも野瀬くんだよねー。マジであいつのこと好きなのかな?」
「え〜? でも野瀬くん前に『彼女作る気ない』って言ってなかった?」
「そんなの幾らでも言えるじゃん。あーもー! 最悪―! なんで野瀬くんあいつに構うわけー?!」

 大して仲良くもないだろうに、鶴谷さんを「あいつ」呼ばわりしている女性陣に背筋が寒くなる。
 姉貴も口が悪い方だけど、なんか……この人たちの『口の悪さ』とは種類が違う。やっぱり悪意のある言葉ってイヤだな。

 聞いているだけでも気が滅入りそうな陰口が続く中、堂々と素通りするのは流石に難しい。彼女たちが帰るまでどこかで時間を潰していようかな。と考えていると、足元にコロコロと野球ボールが転がってくる。

「すいませーん! 取ってもらえますかー?!」
「あ……。は、はいっ!」

 渡り廊下の隅っこにしゃがんでいたとはいえ、完全に死角になっているわけじゃない。昇降口からは見えなくても、運動場側からは見える。だから駆けつけてきた野球部員に声をかけられ、慌ててボールを掴むとそれを投げた。

「あざーす!」
「ど、どうも……」

 一年生だろうか。でも同学年かもしれない。流石に全クラスの名前と顔は知らないから確信が持てず、とりあえず帽子を脱いで頭を下げて来た男子生徒に軽く会釈を返す。
 そこでほっと息をつけば、昇降口側から女性陣たちの「え? いつからいたの?」「聞かれた?」という声が断片的に聞こえてきた。

 ……逃げたい。

「ねえ。そこの男子ー」
「ッ?! は、はい?!」

 いっそ特別教室棟に向かって逃げようかと考えていると、殊更口の悪い女生徒の声が掛かって肩が跳ね上がる。ついでに口から心臓が出そうだと思ったが、どうにか唾を飲み込むことで溢れそうになる緊張感を喉の奥へと押し込んだ。

「あんたさー、最近野瀬くんが行ってるクラスの男子だよね?」
「そ、そう……です、ね」
「じゃあさー、あの“鶴谷”って女子のことも知ってる?」

 そりゃあクラスメイトですから。顔と名前は知っています。
 だけど彼女はそんな答えを求めているわけじゃないんだろう。苛立ちを乗せたキツイ瞳に見上げられながら、無言で頷けばグッと眉間に皺が寄った。

「じゃあさー、野瀬くんとあいつが何話してるか知らない?」
「あたしたち一緒に行っちゃダメ、って言われててさー」
「気になるんだよねー」

 気になると言われましても……。
 三者三様の瞳に見上げられ、視線を合わさないよう目線を逸らしながらも考える。
 そもそも野瀬くんの会話ってそんなに大したものじゃない、と思う。大した、っていうか、至って普通というか。周りの男子みたいに「昨日のアレ見た?」とか、そういう極々普通の会話が多い。あとは「コレ欲しいんだけど、俺に似合う?」とか、そういうのを聞いているぐらいだ。
 だから「特別な話はしていないと思いますが……」と答えたのだが、望まれていた答えではなかったらしい。すぐに「違うっつーの!」とキレられる。

「そーいうんじゃなくて〜! 分かるでしょ?!」
「な、何がですか?!」
「遊ぶ約束してたとか、あの女のこと褒めてたとか、そーいうの!!」

 そんなこと分かるわけないだろ!
 心の中で泣きながらも突っ込むが、実際は首を左右に振るだけで精一杯だ。

「そ、そんな話はしていないと思います……!」
「マジで? 信じていいの?」
「い、一応……席、近いので……」

 隣、と言わなかったのはこれ以上根掘り葉掘り聞かれても困るからだ。内心ビクビクしながらも答えると、彼女たちは「ふーん」と興味を失ったような、あるいは品定めするかのような何とも言えない相槌を返してから頷いた。

「分かった。じゃあ、とりあえずは信じてあげる」
「ど、どうも……」

 何でこんなに上から目線なんだろう……。姉貴も上から目線だけど、なんていうのかな……。姉貴は魔王が人間を見下して高笑いしているような物理的『上から目線』に近いが、彼女たちは同級生というより上級生みたいな『上から目線』だ。……というか、多分見下されてるんだろうな。精神的に。

「つーかあんた、名前は?」
「え。お、俺、ですか?」
「そ。今度呼び出すときに名前知らないと困るじゃん」

 呼び出されるの?! 俺が?!
 血の気が引いて無意識に後退れば、中心核の女性の隣にいた子が「超ビビッてんじゃーん」と笑いだす。
 そりゃビビるよ。こんなに怖い人に呼び出されるとか、例え女の子相手でも殴られたら痛いし、脅迫されたら怖い。俺の方が身長高くても、男でも、喧嘩なんてしたことがないからどうしていいか分からない。それに向こうは三対一だ。同級生だろうと異性に手を上げることは出来ない。
 だからジリジリと後退っていると、昇降口の向こう側から偶然教師が歩いてきた。

「おーい、お前らー。そんなとこで何やってんだー?」
「ゲッ。先生来たじゃん」
「せんせー! 今から帰りまーす!」
「早くしろよー。部活生以外は下校時間だからなー」

 確か数学の担当だったはずだ。三十代後半だと聞いたことがある眼鏡をかけた男性教師は、女生徒たちが帰るまで見届けるらしい。ずっと立ち止まっているから、彼女たちは小声で「めんどくさっ」「だるっ」と言いながらこちらを振り返った。

「今度は名前聞くから」
「じゃあね〜」
「ばいばーい」
「………………」

 威圧感のある人たちだった……。特にリーダー格というか、中心人物的な女生徒の圧がすごかった……。
 名前も知らない人だけど、あの睨むような目線の強さは忘れられそうにない。むしろ今夜夢に出てきそうなレベルで怖かった。
 鶴谷さんに睨まれた時も怖かったけど、あの人はそれ以上だ。他人に平気で悪意を持って接することが出来る人の目ってあんなに怖いんだな。
 鶴谷さんは、なんていうか……。もっと潔かった気がする。怖いけど、しっかりとした意思を持っているというか……。そういう感じ。
 だけどさっきの人からは、なんかドロドロしたものしか感じなかった。

 怖いなぁ……。女の人の嫉妬って。

「お前も早く帰れよ」
「は、はい……」

 先に出て行った女生徒の後を追うようで怖かったが、どうにか先生に見守られながら靴を履き替え校舎を出る。念のため左右を見回すが周囲に彼女たちらしき人影は見当たらず、ほっと胸をなでおろしながらもその日は足早に帰路を辿った。


 で、それから数日後。野瀬くんはまたもや鶴谷さんのところに来たけど、鶴谷さんは相変わらずの塩対応でまともに会話らしい会話が成立していなかった。

「それじゃあハルカちゃん、またね〜」

 野瀬くんは教室を出ていく時、必ず鶴谷さんに向かって手を振る。だけど彼女は手を振り返したこともなければ振り返ったこともない。ただ黙々と手元の作業を続けていたり、読書をしている。
 ……確かに、野瀬くんを好きな人から見たら鶴谷さんの態度って気に食わないんだろうな。でも、何の理由もなく鶴谷さんがこんな事する人だとは思えない。そこまで深い付き合いではないけれど、鶴谷さんが裏表のない、潔い性格をした人だということは何となく察していた。

 そんな中迎えた地域の清掃ボランティア。動きやすい格好で、と言われていたのでジャージで参加した。昔は体操着を着用しないといけなかったみたいだけど、うちの学校は体操着に名前が刺繍されている。だから個人情報保護のため、体操着着用が強制ではなくなったのだ。
 そんなわけで上下共に黒に白いラインが入ったジャージを着て集合場所に向かえば、既に多くの人たちが集まっていた。

「おはよう」
「あ、おはようございます」

 そこには鶴谷さんもいて、彼女はこちらに気が付くと真っすぐに歩いてくる。
 髪型はいつもと同じ、ひっつめたお団子頭だけど、服装は体操着ではなくジャージだった。群青ほどではないけど、濃い青地に赤と白の線が入ったジャージはスタイルのいい鶴谷さんでもあんまり似合っているとは言い難かった。
 でも本人は気にしていないのだろう。抱えていた、古びた黒いバインダーへと視線を落とし――恐らく名簿だろう。何かにチェックを付けると再度顔を上げた。

「地域分担については生徒会長から説明があるから、今はあっちに集合して頂戴」
「分かりました。教えてくれてありがとうございます」

 生徒だけでなく、地域で活動する色んな年代の人が集まっているから正直どこに向かえばいいのか分からず困っていた。だから軽く頭を下げて礼を言えば、鶴谷さんは「仕事だから気にしないで」と軽く笑うと生徒会の人たちが集まっている場所に向かって歩いて行った。

 そこからはスムーズに説明が始まり、割り振られた箇所に向かって移動を始める。
 俺は通学路のゴミ拾いだ。普段自分が歩いている道とはいえ、よく見れば飴の包装紙とか、何かの紙切れとかが落ちている。落ち葉を掃く人もいるが、俺はゴミ袋とトングを持って小さなゴミを拾っていく。空き缶や空き瓶は別の人が集めているから、見つけた時は声をかけたり、自分が持って行ったりする。
 それを繰り返していると、ある時「あの」と控えめに声をかけられた。

「た、高谷くん、だよね?」
「え? あ、はい。そうですが」

 声をかけてきたのは隣のクラスの美化委員だった。クラスから男女一人ずつ選出されるが、男子生徒は近くにいない。というか、俺に何か用なのかな?

「あ。もしかしてゴミですか?」
「あ、ち、違うの! そうじゃなくて……」
「?」

 てっきり俺が担当している燃えるゴミを見つけて拾ってきてくれたのかと思ったけど、違うらしい。
 大人しい感じがする彼女は忙しなく視線をうろつかせ――どうやら周囲に人がいないのか確認していたらしい。小声で話しかけて来る。

「その……つ、鶴谷さんと仲がいい、って、聞いたんだけど……」
「あ」

 またこの話題か。この人も野瀬くんのファンで鶴谷さんを敵視しているのかな、と内心身構えたが、実際には真逆の事を言われた。

「つ、鶴谷さん、困ってない?」
「え?」
「その……去年、一緒のクラスだったから……」
「あ」

 俺の知らない、一年生の時の鶴谷さんをこの人は知っているんだ。
 思わずパカッと、間抜けにも口を開けてしまった俺に、小柄で細身の彼女はまごまごとした様子で「野瀬くんも、同じクラスだったの」と追加情報を与えて来る。

「えっと……まあ、ご想像通り、ですね」
「ああ……やっぱり……」

 ただでさえ視線が下がっていたのに、俺の答えを聞いた途端彼女の頭と肩がガックリと下がる。
 それに慌てて「だ、大丈夫ですか?」と声をかければ、彼女はおずおずと言った様子で下げたばかりの顔を上げる。

「えっと……その、去年も、あんな感じだったんですか?」
「うん……。野瀬くん、鶴谷さんがイヤがってたのに、毎日話しかけてたの」

 うわあ。なんだそれ。流石にそれはちょっと……。コウキじゃないけど引いてしまう。
 思わずキュッと唇を噛みしめれば、眉間に皺でも寄っていたのだろう。その子が慌てた様子で「でもねっ」と言葉を重ねて来る。

「鶴谷さん、すごくハッキリした人だったから、いつも野瀬くんに『話しかけないで』って怒ってたの」
「ああ……想像できます」

 というか今もそうだ。だから素直に頷きを返せば、彼女は苦みの多い笑みを浮かべながらもまた俯いた。

「でも……野瀬くん人気者だから……。だんだん、鶴谷さんを悪く言う人が出てきて……」

 それも知っています。というか巻き込まれました。
 あの日、ポスターを貼りに行った帰り道に出会った三人の女子生徒。あれ以来顔を合わせてはいないものの、正直めっちゃくちゃ怖かった。
 敵意というか、悪意というか。そういうものを持った人の相手はやっぱり怖い。
 彼女も経験があるのだろう。俯いたまま「わたし、怖くて……」と呟くように話し続ける。

「わたし以外にも、鶴谷さんを気にしている子はいたの。でも、野瀬くんを好きな子が、怖くて……」
「分かります。その……なんというか……迫力、って言ったら失礼ですよね。圧? それが強い、ですよね」
「そう! そうなんです! だから、クラスで遠巻きにされていく鶴谷さんに声をかけることが出来なくて……」

 なるほど。彼女の話からすると、イジメに近い状態に置かれていたんだ。鶴谷さん。
 だけど鶴谷さん本人に直接被害が出ると野瀬くんから嫌われる可能性があるから、その人たちは陰口を言うだけだったらしい。

「直接なにかしてたわけじゃないんです。でも、鶴谷さんに聞こえるようにわざと大きな声で酷いこと言ったり……」
「ああ……」
「体育とか、調理実習の時とか、嫌がらせみたいに鶴谷さんだけ除け者にしたり……」
「ううん……」
「そんなことばかりだったから……また、鶴谷さんがそういう目に合ってるのかな、って……」

 それでも不登校にならなかった辺り鶴谷さんは心が強い人なんだな。と思う。
 でもそれを見ている方も、標的にされていなくとも辛いものがあるのだろう。特に小柄な、うさぎみたいな彼女には堪えたみたいだし。もじもじと指の先を合わせながら不安そうに見上げて来る。

「だから、大丈夫かな、って……」
「そう……ですね。俺も、ちゃんと話を聞いたわけではないので、鶴谷さんが本当はどう思っているかは分からないんですけど……」

 ただ、見たところ鶴谷さんは腹を立ててはいても周囲に八つ当たりをするようなことはない。むしろ溜息を一つ零した後はスイッチを切り替えたみたいに冷静に授業を受けている。野瀬くんに話しかけられても基本的に無視しているのは、きっと『怒っても無駄』だと経験上理解しているのかもしれない。

「でも、クラスで孤立しているようには見えないですよ。特別仲のいい人は、いないみたいですけど。でも、普通に話はしていますから」
「そう……ですか。よかった……」

 本当にそう思っているのだろう。ほっと胸をなでおろす姿にこちらも無意識に張っていた肩の力が抜けていくようだった。
 でも、そんなことがあったんだ。鶴谷さん。幾ら違うクラスの話だからといって、知らなかったのは流石に不味いよなぁ……。

「あの……野瀬くんって、前からあんな感じで鶴谷さんに話しかけてたんですか?」
「えっと……そう、ですね。野瀬くんは、みんなに等しく接してますけど、それでも、鶴谷さんには、なんだか『特別』って感じで接してて……。だから余計に野瀬くんのことが好きな子から嫌われたのかな、って……」

 思ったより根深い問題みたいだ。本人の口から実際の状況とか、心情を聞いたわけじゃないからあくまでも憶測だけど、鶴谷さん、野瀬くんのこと『性格悪い』って言ったのこれのせいなんだろうな。

「おーい! そっちまだゴミあるかー?」
「あ。な、ないよ!」
「じゃあ俺らあっち行くから、向こうよろしくー」
「う、うん! わかった!」

 同じクラスの男子だろう。声をかけられ、彼女は大きく頷いてそれに応える。俺ももうすぐ与えられた区域の見回りが終わるから、彼女とはその場で別れた。

 その後は特に問題なく清掃は終わり、予定時間通りに解散することになった。

「はい。ご褒美のジュース」
「あ、ど、どうも」

 生徒たちに与えられたのは、地域の人が用意してくれた紙パックのジュースだった。清掃活動の時期によって『ご褒美』の種類は変わるけど、今年はオレンジジュースが配られている。そして配っているのが誰かと言うと、生徒会の人たちだ。だから俺も鶴谷さんから渡される。

「これ受け取ったら、あとは自由にしていいから」
「はい。でも、この後一応美化委員で集まりがあるので」
「そう。まあ、このまま『はい、解散』とはならないか。反省会みたいなものがあるんでしょ?」
「はい。大体そんな感じのやつです。えっと……つ、鶴谷さんは?」

 彼女もこの後帰れるのだろうかと尋ねれば、彼女は疲れたように息を吐き出してから首を振った。

「残念ながらまだ仕事が残ってるの。集めたゴミを収集車に乗せる手伝いもしなきゃいけないし、このジュースが入っていたダンボールも崩さなきゃいけないし、生徒会での反省会もあるし……」
「た、大変ですね……」
「本当に。やることが山積みで、イヤになるわ」

 それでも責任感の強い鶴谷さんのことだ。投げ出すことなく最後までやり遂げるんだろうな。
 そう考えていると、ふと背負ってきたリュックに姉貴が『腹減ったら食えよー』と言ってお菓子を詰め込んでいたのを思い出した。

「あの……これ、食べます? 俺、こういうの食べないんですけど、姉貴が無理矢理渡してきて……」

 俺が「いらないって!」と拒否したにも関わらず、面白がる姉貴がリュックに詰め込んだのは未開封のグミだった。レモン味のそれは表面に酸っぱく感じるパウダーが掛かっていて、酸っぱいのが苦手な俺にとっては単なる嫌がらせにしか過ぎなかった。当然姉貴はそれを知った上で入れていたのだから、性格が悪いにもほどがある。
 だからと言って自分が苦手なものを人に押し付けるのはどうなのか。そう思いはするが、いらなければハッキリと断るだろう。鶴谷さんはそういう人だ。
 だからダメ元で聞いてみれば、彼女はじっとそのグミを見た後、意外にもまっすぐ指先を伸ばしてきた。

「ありがと。私、甘いものよりこういう酸っぱいものの方が好きなの」
「え。そ、そうなんですか?」
「ええ。だからチョコレートや飴よりも嬉しいわ。でも、本当に貰ってもいいの?」
「はい。俺、逆にすっぱいの苦手で……」

 照れくささと、苦手な物を押し付ける申し訳なさが混ざって後頭部を雑に掻けば、鶴谷さんは目を丸くしたあとクスリと笑った。

「お姉さんと仲がいいのね」
「むしろ逆では?!」
「ふふふっ。まあいいわ。じゃあ、今度何かお礼するから」
「え!? い、いいですよ! こんなの、姉貴の嫌がらせなんですから!」
「でも、高谷くんは“嫌がらせ”で私にくれるわけじゃないんでしょ?」
「そ、それは……」

 姉貴と『仲がいい』と言われたことにだいぶショックを受けたが、それよりもこんなお菓子に『お礼』と言われたことの方に動揺してしまった。それに、俺にとっては若干後ろめたさを感じる行為であるにも関わらず、鶴谷さんは『違うものだ』と言って好意的に受け取ってくれる。
 そのことに不思議と心臓が忙しなく脈打ち、汗も浮いてくる。が、彼女は笑うだけだった。

「じゃあ、またね」
「あ、ぁぁあ……」

 伸ばした手は虚しく空を切る。振り返らない背中は相変わらず潔く、結局オレンジジュースも飲むことがないまま美化委員が集まる場所へと向かった。

2022/07/18 13:54
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