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今夜は拗ねてしまった女王様のコーヒーにありつけそうもないと諦めて立ち上がりかけていた伍代は、三上の言葉に驚いたように太い眉を跳ね上げ、その厳つい顔に照れくさそうな笑みを浮かべて再び椅子に腰を下ろした。
「では、一杯だけ……いただいて帰ります」
冷たい態度を装いながらも伍代を引きとめたがっている三上の心など、隠しようもないほどストレートに伝わってしまっているに違いない。
こんなのは、自分らしくない。
ギリギリの距離感を保ちながら伍代をからかってその反応を楽しむのはよくても、自分が伍代に振り回されてはいけないのに。
雪矢が佐竹と“客とスタッフ”以上の関係になって付き合い始めてからというもの、見ていて恥ずかしくなるほどの幸せオーラにあてられてしまったのか、自分が今まで以上に伍代を意識してしまっていることに三上は戸惑っていた。
佐竹には、狙った獲物を絶対に逃がさない野獣の本能と行動力があった。
そして雪矢には、手負いの野獣を受け止めるだけの懐の深さと素直さがあった。
だから、あの二人は上手くいったのだろう。
もし仮に伍代が自分に特別な感情を持っていたとしても、佐竹と雪矢のようにすんなり上手くまとまったりはしないはずだと、三上は思っていた。
外見を見事に裏切って驚くほど理性的な伍代が、敢えて同性である三上と一線を超えることはないだろうし、ただでさえ伍代は、裏社会の出身である自分が三上に近づくことを必要以上に恐れて避けている節がある。
さらに、自分には雪矢のような素直さがないことを、三上は嫌というほど自覚していた。
伍代を意識すればするほど、素の自分をさらけ出して嫌われてしまうことが怖くなるのだ。
最初から負けると分かっている恋なら、足を踏み出したくない。
そう思って、これ以上伍代を意識しないように、ただ顔馴染みの客を気まぐれにからかって遊ぶ“カフェの女王さま”という立ち位置を崩さずにいるのに……。
「三上さんの淹れるコーヒーを飲むと、一日の疲れが癒されます」
「……誰が淹れても同じですよ。店長がこだわって仕入れているので元々の豆がいい豆なんです」
「それでも、貴方が淹れてくれる一杯は格別だ」
だったら、毎晩飲みに来ればいい。
その一言を口にしてしまったら完全に伍代に負ける気がして、三上はギリギリのところで言葉を飲み込んだ。
普段は不器用で初々しいこの男が、酔いの回った時だけ妙に饒舌になることにはもう慣れている。
手早くコーヒー豆を測り取ってミルにかける間も、背中に注がれる熱い視線を感じて、身体の中心がじわじわと熱を帯び始めた。
お互いに、何も言わない。
どちらかがカウンターテーブルに仕切られた向こう側へと、踏み出すこともない。
「――お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
そんな暗黙の了解の中で、三上は言葉にできない想いを込めてゆっくり丁寧にコーヒーを淹れ、そして伍代は、自分のためにコーヒーを淹れる三上に熱い視線を注ぎ続け、出された一杯を静かに飲み干して帰るのだ。
○●○
カチャリ、とカップの置かれる音が、伍代の帰る合図。
最後のひと口を飲み終えてテーブルの上に札を置き、立ち上がった伍代は、少しためらったように間を置いてから口を開いた。
「明日も、また来ます」
「え……?」
今までに来店の約束をしたことなど一度もなかった男の意外な言葉に、三上は目を大きく開いて、伍代の顔を見上げた。
「無理しなくてもいいんですよ、別に」
口から出てきたのは相変わらず可愛げのない一言だったが、伍代は照れ臭そうに笑っただけだった。
「無理はしていません。明日もまた貴方の淹れるコーヒーを飲みに来ます」
「伍代さん……」
「社長のお供という口実がなくても、客として、三上さんに会いに来ていいんでしょう」
「もしかして、今夜は相当酔っているんですね。香田に勧められたカクテルが強かったんじゃないですか」
「そうかもしれません」
じわじわと顔が熱くなって、指先にまで熱が伝わってくる。
三上が言葉を返せずにいるうちに、伍代はいつものように「お邪魔しました」ときっちり腰を折って一礼し、釣りも受け取らずに店を出てしまった。
――何かが変わりそうな、そんな予感。
胸の奥に残る甘い余韻が、くすぐったい。
三上と同じように、伍代もまた、佐竹と雪矢の関係に影響されているのだろうか……。
微かな幸福の予感に包まれる静かな店内で。
この夜、誰よりも幸運だった男は三上でも伍代でもなく……。
キッチンの片隅で完全に気配を消して不器用な二人を見守ることで雰囲気を盛り上げ、強めのカクテルをサービスして何とか引き出した伍代の約束によって機嫌が急浮上した女王様のお仕置きを免れた、下っ端バーテンダーの香田なのであった。
end.
(2013.6.29)
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