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 初めて伍代隼人という男に出会ったときのことを、三上は今でも鮮明に記憶している。

 忘れられない……というほど衝撃的な出会いでもないのに、今でも何故かその時のことを思い出して、口元が緩んでしまうのである。


 ――それは、三上が『KARES』で働き始めて間もない、初夏のある日のことだった。


○●○


 壁にかけられた古い時計の針が午後七時を指したら、店のドアにかけられたプレートを『CLOSED』の表示へと裏返し、店の周りを清掃してから店頭のイーゼルを片付けるのが三上の仕事だ。

「外、掃除してきます」
「はーい、お願いね」

 以前フロアマネージャーとして務めていたチェーン展開のカフェで脂ぎった中年オヤジ店長のセクハラにうんざりしていたところを、月に何度か通っていた客の高田に引き抜かれる形で辞め、今の店で働き始めてひと月。

 高田が趣味で始めたというカフェ『KARES』は、規模こそ以前のチェーン店とは比べものにならないほど小さいが、雰囲気がとても良く、訪れる客は皆その居心地のよさを楽しんでいて、三上もこの店と今の仕事が気に入っていた。

 何と言っても、仕事以外の余計なことに頭を悩ませなくて済むのが助かる。

 顎髭を生やしたオネエ口調の店長には学生の頃からずっと片想いを続けている意中の相手がいるらしく、「ミカミちゃんがどんなに美人でも全然アタシの好みじゃないから安心して!」と、三上が務める前から一方的に戦力外通告を突き付けてきたのだ。

 高田の想い人が男なのか女なのかということに、興味はない。
 自分の雇い主が、男女を問わず視線を惹きつけ、微笑みかけただけで相手の頬を紅潮させる整ったこの顔立ちに惑わされない人物であるというだけで、三上には十分ありがたかった。

「それにしても……早くコーヒーを淹れられるようにならなきゃ、ずっと掃除しかさせてもらえないな」

 最初に会ったときは少し変わったオカマっぽい男性客としか思っていなかった高田の淹れるコーヒーは文句なしの味で、悔しいことに三上はまだカウンターに立って客にコーヒーを淹れる合格サインをもらえていない。

 高田の話では、ひと通りの仕事を覚えた三上を副店長にした後でバーテンダーとしてもう一人スタッフを雇い、夜はバータイムとして二部構成で経営を展開していきたいというビジョンがあるらしいが、店の売りであるコーヒーを淹れられなければバータイムを任せてもらう以前の問題である。

『ミカミちゃんの淹れるコーヒーは味も安定してるし淹れ方も上手なんだけどね。ウチでお客さまにお出しするためには“マニュアル通り”じゃダメなのよ』

 閉店後にドリップの練習を見て、三上の淹れたコーヒーを飲むたびに、顎髭を生やしたオネエ口調の店長は首を横に振って笑うだけなのだ。

 何が足りないのかはまだよく分からないけれど。
 今日こそ合格して、客にコーヒーを出せるようになりたい。

 そんな決意を胸に店の前の掃き掃除を済ませ、イーゼルを中にしまおうとドアの前に戻った三上の前に、大きな黒い影がスッと現れた。

「申し訳ありません。当店の営業は十九時までとなっておりまし、て……」

 マニュアル通りの言葉を口にして顔を上げた瞬間、思わず声を洩らさなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。

 三上の前には、どう好意的に見てもヤクザとしか言いようのない、厳つい極道顔の巨漢が黒いスーツに身を包んで立っていたのだった。



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