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 午前零時を過ぎて、店に残っていた最後の常連客が帰ると『KARES』には静寂が訪れる。

 バータイムの営業時間は午前一時までだが、繁華街のはずれに位置する小さなこのカフェに通う客は、既にどこかの店で盛大に飲んだ後、帰り際に立ち寄ってこの店ご自慢のコーヒーでほっと気持ちを落ち着けたい者か、馴染みのバーテンダーが作ってくれる極上の一杯で一日を締めくくりたいという者がほとんどなので、日付を跨ぐ頃になると皆揃って満足げな表情で店を後にするのだ。

「お疲れさまです、副店長。今夜はこれで一段落って感じですかね」
「そうだね……とりあえずひと休みしよう。香田はコーヒー飲む?」
「あ、いただきます。明日発注日なんで、酒の在庫チェックしてますね」
「うん、よろしく」

 自分の作ったカクテルを片手に最近の出来事を嬉しそうに語っていた常連客との会話を思い出しながら、棚に並ぶ酒類の在庫を確認する。
 のんびりと新しいカクテルのレシピに思いを巡らせることのできるこの時間が、『KARES』のバーテンダー香田剛の、一日で一番幸せなひと時だった。


○●○


 香田が『KARES』の専属バーテンダーとして働き始めたのは、二年前。

 腕試しにと挑戦してみた、若手バーテンダーの登竜門と言われるカクテルコンクールで優勝し、その後も数々の大会で受賞を続けた香田は、その頃既に若手のホープとして業界で名を挙げていた。

 優れた味覚とセンス。
 決して人目を引くような派手さはないものの、女子受けの良さそうな部類に入る整った顔立ちと、客を楽しませることのできる接客技術。
 そして、控えめでありながらもひたむきで真面目な性格。

 そんな優秀なバーテンダーを自分の店に迎え入れたいと考える経営者は多く、常に複数の店から声を掛けられてはいたものの、なかなか働きたいと思える店に出会うことができず、当時の香田は誘いを断って、フリーの出張バーテンダーとして活動を続けていたのだった。

 どんなに待遇が良くても、自分のポリシーに反する店で働くことはできない。

 原価の安い酒を大量に出して売上を伸ばすことを目標にしているような店では、自分の作りたいカクテルは作らせてもらえないだろうということは、アルバイト時代の経験から充分に分かっていた。

 香田の理想とする店は、訪れる客が自分の家に帰ったときと同じように安心してくつろぎ、ぼんやりとカクテルグラスを眺めながら一日の思い出を酒と一緒に飲み干し、グラスが空になる頃には幸せな気持ちで満たされて帰ることができるような、そんな店だったのだ。

 いつかは自分で理想の店を作りたい。

 そう思いながらも、収入が不安定な状態では貯金もままならず、昼間のコンビニアルバイトと掛け持ちでがむしゃらに働き続けていた香田に声を掛けてきたのが、ある夜出張バーテンダーとしてカウンターに立った店に飲みに来ていた高田だった。

「コウダちゃんの作るカクテルって本当に美味しいわね〜、魔法みたい! ねえ、今度アタシの店に遊びに来ない? お酒は出せないけど、今夜のお礼に美味しいコーヒーをご馳走しちゃうから」

 顎先にちょびっとヒゲを生やしたヒョロ長体型の眼鏡男に突然オネエ口調で話しかけられて、どうしてその男の店に行ってみようなどという気になったのか、今ではもう思い出すことができない。

 ただ、渡された名刺を頼りに訪れた小さなカフェは、初めて足を踏み入れたはずなのにどこか懐かしく、今はコーヒーだけを出しているというこの店のカウンターに立って、訪れる客に自分のカクテルを出すことができたら……と思った瞬間、香田は『KARES』のカウンターに立ってシェイカーを振る自分の姿をはっきりと思い浮かべることができた。

 木の風合いが生きた存在感のあるカウンターテーブルに、落ち着いた色調でまとめられた内装。
 静かに流れるスタンダードジャズ。

 『KARES』は、香田が長く思い描いていた、理想の店だったのだ。



 専属バーテンダーとして一緒に働かないかと高田に誘われ、それを快諾して二年。

 毎日忙しく過ごしつつ充実したバーテンダー生活を送っている香田には、実は最近、ひそかに来店を楽しみにしている常連客がいた。

「――今夜はゴダイさん、いらっしゃらないんですかね」

 棚に並ぶボトルを丁寧に確認しながら、静かに二人分のコーヒーを落としていた三上に声を掛けると、ケトルの口から伸びる細い糸のような熱湯がグラリと揺れて、三上の動揺を見事に表す。

「いくら常連さんといっても、さすがに毎晩は通えないだろう。……伍代さんは、明日も早くから仕事なんだし」

 何気ない風を装ってそう口にしながらも、三上は壁にかかった時計をチラッと確認して、血色の良い唇を一瞬だけ尖らせた。



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