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 肩越しに伝わる体温と三上の切なげな囁きに、伍代の心臓はひたすら忙しく脈を打ち続けていた。

 確かに、佐竹の来店が雪矢のいる早い時間帯に変わってしまい、更に忙しい日が続いたこともあって、しばらく三上に会えずにいたことがあった。

 久しぶりに閉店間近の『KARES』を訪れた伍代を迎えてくれた三上は、伍代の姿を見た瞬間、美しい顔をパッと喜びに輝かせながらも、すぐに顔をそむけてしまい、何とも淡々としたビジネスライクな接客で伍代を困惑させたのだ。
 しばらく伍代が来店しなかったので女王様が拗ねているのだと香田から聞かされ、そんな三上が愛おしくて堪らなくなった瞬間のことは、まだ記憶に新しい。

「無理はしていません」

 滅多なことでは動揺が表情に表れない自分の厳つい顔に感謝しながら、伍代は静かに振り返り、素直になれない気高さの下に誰よりも優しく純粋な心を隠した男の顔を見上げた。

「この店で貴方の淹れるコーヒーを飲む時間は、私にとって何よりも大切な癒しのひと時です」
「伍代さん……」
「私の好みを知り尽くしたコーヒーは、三上さんにしか淹れられない」

 もう、店長の高田でさえ、伍代の舌を満足させることはできないだろう。

 凛とした立ち姿で丁寧にコーヒーを落とす三上を見つめ、自分のためだけに落とされた贅沢なコーヒーを飲むことで、伍代の心はじんわりと甘い幸福感に満たされる。

 極道の家に生まれたことを恥じるでもなく、現組長の命で佐竹の片腕を務められることを誇りに思ってはいるが、元ヤクザの肩書きを背負った自分のような男が三上に相応しいとは思わない。

 だから、何度も『KARES』に通い詰めては三上の淹れるコーヒーを飲み、たまにこうして、他の常連客より気にかけてもらえるだけで十分幸せなことなのだ。
 これ以上距離を縮めて、時折きまぐれに懐くそぶりを見せる美猫に牙を立てるような真似をしてはいけない。

「伍代さんを癒すことができるのは……コーヒーだけですか?」
「っ、三上さん」

 近づいてはいけないと伍代が鋼の理性で自分を戒めているのに、無自覚なのか何なのか、三上は気まぐれにその壁を越えて、伍代の雄の本能を刺激してくる。

 静かな店内にふんわりと漂う、優しいコーヒーの香り。

 顔を覗き込むようにして近づいてきた三上の唇に誘われ、伍代が無意識に、無骨なその手を細い腰に回しかけたその時。

「副店長! 豆の発注をしないと在庫……が、そろそろ……あれ?」

 沈黙が続いたことで、伍代が帰り支度を始めたと勘違いしたのだろう。
 スタッフルームで扉一枚を隔てて登場の機会を窺っていたいたらしい香田が、精一杯自然な様子を装って顔を出し、ギリギリまで接近した状態で固まる二人を見て、顔を強張らせた。

 仕事熱心なバーテンダーには、何の落ち度もない。
 むしろ、気を利かせて今までフロアを離れてくれていた健気さに感謝すべきなのだ。
 それは伍代も十分、分かっているのだが。

「香田……」
「す、すみません、何か俺、空気の読み方を間違えてしまったというか」

 間が悪いというのは、まさにこのことを言うのだろう。

 ひんやりと冷たい三上の声に顔を青ざめさせた香田は、一瞬伍代に目を向けた後、更に強張った顔で硬直してしまった。

「そろそろ、失礼します。今夜は長居しました」

 気の毒なバーテンダーがこの後どうなるのか、気にならない訳ではないが、伍代としては救われたような気もする。
 湧き上がる衝動を抑えきれずに三上を抱き寄せてしまったら、自分がどうなるか分からなかった。

 これ以上、近づいてはいけない。
 自分に許されているのは、カフェの女王様お気に入りの常連客という、近くて遠い距離なのだ。

 気まぐれに優しくされたからといって、勘違いして三上を傷つけるようなことがあってはいけない。

 コーヒー二杯分には十分な紙幣を置いて立ち上がった伍代の顔を見上げる三上の表情は何とも切なげで、勘違いでも何でも構わないから今すぐその細い身体を抱き寄せて唇を奪ってしまいたい欲求を抑えるのに、伍代は一生分の理性を振り絞って普段通りの厳つい無表情を保った。

「また、来ます」

 貴方の淹れるコーヒーを飲みに。
 貴方に会って、微笑みかけてもらうためだけに。

 言葉にできない想いを、空になったコーヒーカップの底に残して、伍代は静かに店を出た。


 初恋は甘酸っぱいものだと、誰かが言っていた気がする。

 伍代の初恋は、ほろ苦い。

 それでも、優しい香りと甘い後味で心を捉えて離さないのだ。

 叶わない恋だと分かっていても焦がれる気持ちを抑えきれず、明日もまた気まぐれな女王に振り回されたくて『KARES』を訪れる自分の姿が目に浮かんで。

 夜空を見上げる男の厳つい極道顔には、微かな笑みが浮かんだのだった。


end.

(2013.9.2)



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