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○●○


「お疲れさまです」
「んっ?」
「ずいぶん難しいお顔をされていますね」
「……あれ?」

 聞き覚えのある声に呼び止められて顔を上げると、そこには『F℃ aniki』の店長さんが笑顔で立っていた。

 帰宅途中に考えごとをしながら歩いていたら、いつの間にか足が『F℃ aniki』に向かってしまっていたらしい。
 しばらく会社帰りにこの店の前を通ってチラチラ中を確認しては入ろうかどうしようか悩む日々が続いていたから、すっかり癖がついてしまったのだろう。

「お勤め帰りですか」
「え、ええ」
「よろしければ、寄って行かれませんか。美味しいコーヒーをお出ししますよ」
「あの……今日はちょっと」

 店の前を清掃していたのか、ホウキを持った店長さんに誘われて、俺はどう断っていいのかとうろたえてしまった。

 店長さんはいい人そうだけど、あの恥ずかしいパンツの中では落ち着いてコーヒーなんて飲めそうもないし。それに、このお店に一人で近付いてはいけないと榎木田君に念押しされているし。

「お客さまから差し入れに頂いたケーキがあるんですよ。私一人では食べ切れないので、一緒にどうですか?」
「けーき……」
「パティシエ・ティムコの最新作だそうですよ」
「うわあ!」

 開店前から行列ができ、販売開始と同時にあっという間に売り切れてしまうという幻の名店のケーキと聞いて、甘党の俺に断れるはずがない。

「あの、じゃあ、ちょっとだけ」
「どうぞ。お荷物をお預かりしましょう」
「あ、ありがとうございますっ」

 今日はパンツは買わないから。
 ごめんね、榎木田君。

 心の中で榎木田君に謝って、俺はフラフラと店長さんの笑顔に吸い寄せられるように、店内へと足を踏み入れたのだった。




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