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口の中いっぱいに、ほんわりと幸せの味が広がって消える。
「美味しい……」
「本当に美味しそうに食べますね」
「すみませんねえ、図々しくお邪魔してしまって」
「いいえ、そんなに喜んで頂けると私も嬉しいです」
遠慮することも忘れて夢中でケーキを口に運ぶ俺に、店長さんは柔らかい笑顔でコーヒーを勧めてくれた。
本当にイイ人なんだな、と改めて思う。
前にお邪魔した時だって結局『F℃ aniki』の方では下着を買わなかったというのに、こんなに素敵なおもてなしをしてもらっていいんだろうか。
やっぱり帰り際に、穿く予定はなくても紐パンツを一つくらい買って帰った方がいいのかもしれない。
「このコーヒー、何だかイイ香りがしますね。ウチで淹れる時と全然違う」
カップに鼻を近付けてふんふん嗅ぐと、今までに飲んだことのあるどんなコーヒーとも違う深い香りが鼻孔をくすぐった。
「少しだけオリジナルのスパイスをブレンドしているんですよ」
「味もちょっぴり刺激的で美味しいですね」
「ありがとうございます」
店長さんの悪戯っぽい笑顔に何故だか胸がドキドキして、思わず目を逸らしてしまう。
口に含んだ琥珀色の液体は、じわじわと身体の奥に染み込んで熱を増していくような気がした。
「あの……榎木田君は、よくこのお店に来るんですか」
ケーキを平らげて、ちびちびとコーヒーを飲みながら。
他に話題にする事もないので、気になっていた人物の名前を挙げると、店長さんは片方の眉を器用に跳ね上げて意味深な笑みを浮かべた。
「ええ。長いお付き合いになります」
「……そ、そうなんですか」
長いお付き合いって……。
彼はまだ20代半ばだというのに、一体いくつの時からこの凄いお店に出入りしていたというんだろう。
俺の表情から考えていたことを読みとったらしく、店長さんはおかしそうに笑って首を振る。
「顧客としてではなく、個人的な付き合いですよ」
「え?」
「彼とは、昔から家が近所で幼なじみのような関係なんです」
「ええっ?」
店長さんと榎木田君が、幼なじみ!?
意外過ぎる言葉に、何をどう返していいのやら。
「だって、昨日はそんな感じじゃなかったのに?」
昨日レジの前で繰り広げられた二人のやり取りは、かなり余所余所しい印象だった。
顔なじみの客程度だろうと思っていた榎木田君が、まさかこの物凄い下着屋の店長さんと幼なじみだなんて。
「昨日は貴方の前でイイ子ぶりっこしているアイツが面白かったので、からかってみただけです」
「そ、そうなんですか」
「昔は素直な可愛い奴で、仲も良かったんですけどね。成長してからはお互いの趣味嗜好が似ていることが災いして疎遠になって……最近はたまに店で顔を合わせるくらいです」
「へええ……!」
趣味嗜好というと、やっぱりこの激しい下着のことだろうか。
好きなパンツが被ると仲が悪くなることもあるんだ……。
榎木田君の意外な顔を知ることが出来た気がするのが、なんだか少し嬉しかった。
「あ、そろそろおいとましなきゃ。美味しいコーヒーとケーキをご馳走さまでした」
ひとしきり感心した後でふと応接用テーブルの上に目をやると、いつの間にかコーヒーカップは空になっていた。
もう店仕舞いの時間だろうし、いつまでもお邪魔しているのも悪いと思い御礼を言って立ち上がろうとしたその時。
「あれ……?」
ふんにゃりと力が抜けて、俺は一度起こしかけた身体をソファに埋めてしまった。
「どうしました?」
「何だか、身体が熱くて……力が、入らないような」
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