燦然と揺らめいた赤




 あの小説の作者は誰だったかしら。
 あの歌の歌詞、サビは出てくるのに、冒頭は思い出せないの。

 こんな話を、わたしはもう二度と誰にもできない。聞いても答えてくれない、とかではなくて、みんな、知らない。好きだったフレーズ、お気に入りの台詞、芸能人の名前。そういう元の世界とわたしとを繋げる名残、というか、思い出を形取るためのパーツみたいなのをどうにか忘れてしまわないように、なくさないように、毎日ノートに書き綴っていくのが習慣づいてもう一年になる。

 お気に入りのクリスマスソングはあんなに聴いていたというのに、二番の途中から歌詞があやふやになってしまった。どう足掻いても思い出せる気がしなくて、書きかけのページを一度眺めてからペンを胸ポケットにしまう。ノートを閉じて、両手で抱えるようにして持った。冷える指先を袖で隠してしっかりと体につける。吐く息が白い。この間まで見えていた芝生の緑も雪に侵食されて、一面銀世界、といった感じだった。どこの世界でも雪は降るのだな、と思う。

 中庭から廊下に出ると、誰かの話し声がした。高い天井と石造りの床に反響するそれはもやもやとしていて、誰のものだか分からない。ホリデー中に学校内にいる生徒は限られているから、あまり会いたくないな、とため息をついた。いまの学園にいるのはわたしにとって、アズールを通した友達、というにも、知り合い、というにも、微妙な関係の生徒ばかりだ。

 スマートフォンで時間を確認して、ポケットにしまう。手がかじかんで、電源を切るのに苦労した。約束の時間にはまだ少し早かったけれど、彼はもう来ているだろうなと歩みを速める。廊下の大きな窓(壁がくりぬかれているのを窓といっていいかはわからないが、とりあえずそう呼ぶことにする)は、夏の間は風が吹き抜けていい感じだけれど、冬になると寒くてかなわない。廊下だって一応室内だというのに、外にいるのとなんら変わらなかった。

 いつもは開け放たれている重々しいドアを開けると、特有の人工的な温かさがふわふわ漂ってきた。あまりの温度差に、冷えていた指先や足がかゆくなりそうだ。中央にある大きな暖炉で薪が燃える音だけがぱちぱちと響いている。こんな静かな食堂は初めてだった。

「アズール、おはよう」
「おはようございます。早かったですね」

 いまはお昼の少し手前なのだからこんにちは、のほうがよかったかしら、と考えているうちに、彼が席を立ってこちらへ向かってくる。
 昨日までは部屋で話すことが多かったから、寮服の彼を見るのはなんだか久しぶりのような気がした。かっちりとしたタキシードのような寮服は何度見てもものすごく似合っていて、伝統あるこの服は、彼に着られるために生み出されたではなかろうか、と思ってしまうほどだった。寮服というのはもう何十年、下手すると何百年も一部を除いてほとんど変わっていないらしいから、そんなことはないのだけれど。

「寮服で来るなら言ってよね。わたし、私服で来ちゃったじゃない」

 ゆるく着られるのが好きな形の良いニットも、色が気に入っているロングスカートも、彼の横に立つとパーティー会場に迷い込んでしまった一般人みたいにみえる。釣り合っていない。
 わたしだって、寮服を着ればそれなりにオクタヴィネル寮生らしく見えるはずだった。けれど、だからといって事前に服装をお知らせされるのもなんだかおかしいな、と思い直していると、

「別に、いいじゃないですか。僕はその色、素敵だと思いますよ」
 彼はわたしの手を取って歩き出した。それから、海の中みたいで素敵です、と続ける。

 彼は意外にも、服装だとか髪型だとか、そういうのの変化に細かく気が付いてはほめてくれるタイプの恋人であった。意外にも、というと怒られてしまいそうだが、わたしにとっては本当に意外だったのである。
 付き合ったのは半年前のことだけれど、それまでのわたしと彼は完全に男友達というか、アズールは本当にわたしが女だと知っていたのだっけ、と疑いたくなるくらいには色気のない、そういった付き合いをしていたし、実際告白されるまでは、永遠にこの関係が続いていくのだろうと、わたしは信じて疑わなかった。
ところが付き合ってからというもの、たいそう大事にされてしまって、最初は困惑してしまったほどである。

 この金と権力以外何も興味のなさそうな男(本人に言うと慈悲の精神が云々と、否定されてしまうと思うけれど)が、わたしを大切に扱う意味が分からない。…好きだから?
 そんなもの理由にならないと思ってしまうほどには、わたしは彼と一緒に過ごしすぎてしまったし、彼のことを知りすぎてしまったような気がする。好きとか嫌いとかそういうのに動かされる彼、はあまりに想像がつかなかったし、その相手が自分だというのにもいまいち実感がわかなかった。

 なにが面白くて一緒にいてくれるの、と聞いたことがあるが、上手にはぐらかされてしまって結局聞けずじまいだった。もとより成績は良いほうで、ラウンジでの働きだって悪くないと思うけれど、お金になる特技も目を引く美貌も持ち合わせてはいないはず。考えれば考えるほど、わからなくなるのだった。

 暖炉の前は温かい。揺らめく赤は新鮮で、いくらでも見ていられるような気がした。音もなんだか、落ち着く。彼の隣に座ると腰の方に手を回されたので、ちょっと考えてから、肩に頭を寄せてみた。自然に、と心掛けたけれど、きっとぎこちなさが滲み出ていたに違いない。彼が少し笑った。

「ずっと、こうしていられる気がする」
 薪がだんだんと黒く焼け落ちていく様はなんだか儚くて、不思議な魅力がある。ふんわりした熱気と背に感じる隙間風がここちよくて、このまま眠ってもいいな、と思った。
「そうですね」
 彼が言うそうですね、の抑揚はいつも変わらないから、本当にそう思っているのかそうでないのか、判別がつかない。

「寮にも暖炉、欲しいなあ」
「海の中に暖炉」
 彼は可笑しそうに言って、それからわたしを見る。
 オクタヴィネルはなんというか、全てが青い。水色。紺色。そういった色しかないから、暖炉の赤はよく映えて綺麗だろうなと思った。けれど暑がりの彼らには到底必要のないものだろうし、実際に置いたとして飾りになってしまうのは目に見えている。

「言ってみただけ」
「そうですか」
 彼はわたしが本気でお願いしたら暖炉を置いてくれるのだろうか、と気になったけれど、言わないでおいた。なんだか試しているみたいで、嫌だった。

「それ、」彼がわたしの横へ目線をやって、「何のノートですか」と訊いてきた。
「ああ、見る?…元の世界のこととか、書いてあるんだけれど」
「元の世界のこと、ですか」
「そう」短く答えて、彼へノートを手渡す。

 アズールに見られるのなら、もう少し字をきれいに書いておけばよかった、とか、好きな男性芸能人、のページは嫉妬させてしまうかしら、とか渡した後になんだか恥ずかしくなってしまったけれど、彼はいたって冷静に、教科書でも読むみたいにしてわたしの文字を目で追っている。

「どうしても、思い出せないのとかもあって…殆ど書きかけなんだけれど」
 面白い?と聞いても、彼は何も返してくれない。それどころか、わたしの方を見向きもせずノートと向かい合っている。
「それはね、好きだった芸能人…俳優とか、モデルとか」
 そうですか。やっと返ってきた彼の返事は思ったより素っ気無くて、お腹のほうがすっと冷たくなるのが分かった。
「いや、好きだったって言っても、わたし、アズールのほうが好きだし…」
 格好いいとも思ってる、と付け加えると、彼がふ、と小さく笑った。怒っていたのではなかったのか。
「あなたがそんなことを言うなんて、柄にもない。別に、僕は嫉妬したりしませんよ」

 素っ気無かったのは、それだけわたしが書いたのを真剣に見ていただけのことらしい。視線をこちらへ移した彼の目は優しくて、けれど、それでいてどこか戸惑いのようなものも見えるような気がして、わたしは何も言えなくなってしまった。

 食堂にはひたすらに、薪が燃える音とページをめくる音だけが響いている。二年も書き溜めたノートは流石に量があって、彼も丁寧に読み込むものだから、ここに座ってから結構な時間が経っていた。たまに彼が、これはどういうものですか、だとか、これは歌詞かなにかですか、だとかそういう質問をして、わたしが答えて、そうですか、と返されて、また彼がノートを読むのに戻って、そういった静かな午後が緩やかに、過ぎていく。外で冷えた体もすっかり暖まってしまって、かえって暑く感じるくらいだった。なるほど、寮に暖炉はいらない。けれども、わたしでさえ暑いと感じているのに、彼は気にしていない様子だった。

 ひとに自分の書いたものを見せるというのは、なかなかに勇気のいるものだ、とわたしは思う。自作の詩や物語でなくとも、好きなもの、を見せるというのは、自分を自分たらしめる要素を公開して、共有するに他ならないのだから。それなのにわたしは何の躊躇もせず彼にすべてを見せてしまって、何をしているのだろうと少しだけ後悔の念が湧いてくる。もちろんわたしと彼は付き合っているのだから、好きなものを共有することはおかしなことでも恥ずかしがることでもないとは思うのだけれど、これは、彼の好きなこの世界でのわたし、ではなくて元の世界で生きてきたわたし、の要素たちなのだ。ちがうひと。
帰らないと決めているのにいつまでも元の世界に固執して、忘れないよう、ひとつとして取りこぼすことのないよう必死なわたしと、彼のことが、この世界のことが、好きなわたし。

「アズールも、不安になったり、するの」

 何か言いださなくてはいけないような気がして、やっと口から出た言葉は、よくわからない抽象的な質問だった。言ってから、なんでもない、と訂正する。意味もなくつま先で線をかいたり髪をいじったりして、 少ししてから、離れていた彼の肩に頭を置いた。ニットの中が少し汗ばむのを感じる。
「そうですね…。いまは不安、かもしれません」
 わたしの何でもない、から数分置いて、彼がいつもより大分小さい声で言った。スカートの裾を揺らしていた手を止める。ノートは先ほどのクリスマスソングのページで止まっていた。

「ごめんなさい」彼から離れて、下から顔を窺うようにして覗き込む。それから、
「そんな顔させるつもりで、見せたんじゃないんだよ。アズールって、わたしが思っているよりわたしのこと、好きなのね」と続けた。

 それはどういう、と珍しく動揺した彼がわたしを見て、目が合う。なんだかおかしくなって笑ってしまった。それでいて泣けてくるような気もして、不思議。彼もわたしと似たような、笑っているのか泣いているのかわからないような、諦め、逡巡、そういうものが全部混ざったなんとも言えない表情をしていて、わたしたちはしばらく何の会話もせず、黙っていた。

「わたし、アズールのこと、好きなの」すごく、好き。
 勢いよく椅子から立ち上がると、腰がすっかり固まってしまっていて、急に疲れが染み渡った。なんだか肩も重い。

 彼の膝の上に置かれていたノートを手に取ると、急にあのクリスマスソングの続きが、好きだった歌手の歌声とともに思い出された。どうやっても思い出せなかったのに、こんな時に鮮明に聞こえてくるなんて、と厚みのあるノートを抱きしめて、ひとつため息をつく。
 彼はそんなわたしを不思議そうに見てはいるけれど、何も言ってこなかった。暖炉の前にしゃがみ込んで、中を見る。

「そろそろ、薪が足りないと思わない」
「…そうですかね」

 彼が言い終えるか言い終えないかのところで、わたしはノートを勢いよく暖炉の中に投げ込んだ。紙の中の二年間は一瞬で燃え上がって、ぱちぱちと音を立てている。
「よく燃える、きれい」
 唖然として火を見るアズールの瞳にも赤が映っていて、やはり青に赤というのは映えるのだな、なんてぼんやり思う。もとより、彼自身が美しいだけなのかもしれないけれど。

「わたし帰らないよ。ずっとアズールと、いるから」
「だからって、燃やさなくても、」

 彼は持ち主のわたしよりも全身に喪失感を纏っていて、それはもう、わたしが彼の大切なものを燃やしてしまったかのような、そんな申し訳のない気持ちにすらなってしまうほどであった。

「これから、たくさん見せてよ。素敵なものとか、場所とか…。この世界のものでいっぱいになったら、わたしは、本当にアズールが好きなわたしになれるような気が、するから」

 何もいらない、と思った。
 戻る気のない世界のことをどれほど想ったとしても、わたしはどうしたって、アズールのほうが大事。ノートに書きつけていた、人間は恋と革命のために生まれて来たのだ、という一節が脳裏をよぎって、その通り、と心の中でつぶやいた。あの小説、もうタイトルも思い出せないけれど、でも、わたしはこの言葉だけをもって、生きていく。この世界で、彼と、一緒にいる。

「僕は、」彼がわたしを引き上げるようにして立たせて、「僕も、あなたが好きです。帰ってほしくないと、思っている」そっと、抱きしめられる。

 彼の背中に腕を回すと、わたしを抱きしめる力が少しだけ強まった。そのまま目を閉じていると、だんだん周りの音が遠のいていって、そうして、ここがどこで今がいつなのかもわからなくなるような気がして、ここが違う世界だとか帰る世界があっただとか、ぜんぶ、どうでもいいような気持ちになっていく。目の前に彼がいて、わたしは彼が好き、この世界は素敵で、冬は寒い。
 さようなら、鏡の外のわたしと、前の世界の記憶たち。






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