気まぐれな午後




 海を見たことがあるか、なんて、我ながら馬鹿な質問をしたと思う。
だって相手は生まれたときから水の中にいる正真正銘の人魚、いわば海のプロフェッショナルなのだから(この理屈で行くと私は陸のプロフェッショナルということになってしまうけれど、今それは考えないことにする)。

 けれどこれは、揶揄っているのだとかそういうのではなくて、海で過ごしてきた彼は、陸から見た海を、景色としての海を知っているのだろうか、という、純粋な疑問から出たものだった。白い砂浜、青空、水平線。かもめの鳴き声、波の音。私の知っている海、から連想される記号を集めてみたら、頭の中で波打ち際のあの音が、聞こえてくる気がする。

 私がこの世界に来て、アズールが陸で歩くようになって、一年半。
 一緒に過ごしてみて、気が付いたことはたくさんある。彼は傍から見ると所謂天才で、ユニーク魔法だって、例の事件があるまでは完全無欠の大魔法として大層恐れられていた。冷静沈着、眉目秀麗…。けれども文武両道、とはいかないところが、また彼のかわいらしいところでもある。周りからの評価は正しくて、どれも真実なのだけれど、彼が天才、である前に他の追随を許さぬほどの努力家であることはさほど知られてはいなくて、少し悲しい。

 考えなしに発言してしまう私とは対照的に慎重で思慮深い彼は、何事も一度は向き合ってみようとするところがあって、今も私が何気なく発した問いの意味を考えこんでいるのだから、なんだか申し訳なくなってしまうほどである。運だのみが嫌い、とはいえど、どうやら人生ゲームのようなすごろく系ゲームで負けたらしい彼が、狙った目を出せるようになるまで永遠に賽を振り続けているところをみたときは、正直驚いた。けれど、斜に構えているように見えてその実誰よりまっすぐな努力をしている彼を見るのが、私はとても、好きだった。

 たったの一年半しか過ごしていないけれど、彼と過ごしてきた学園生活はこの世界での私のすべてで、また彼の陸においての人生の、すべてであるに違いない。今は形だけの、飾りのようになってしまった大きな金庫をぼうっと眺めていると、そんな感傷的な考えがふとよぎった。私は彼のすべてをわかっているわけではないのに、現に、海を見たことがあるか、なんて質問をするくらいには彼のことを知らないというのに、なんてことを思ってしまったのだろう。
 つい先ほどまで頭の中をきらきら揺蕩っていた水面は、ぱっと霧散するように、消えた。彼は私を、どう思うのだろう。

「海にいたころは、考えもしませんでした。陸から見たらどんな風なのかなんて。言われてみれば…僕は海を見たことが、ないのかもしれません」

 そう言った彼の微笑みは、いつもの慇懃な態度に付属する造られたものではなかった。近しいものだけが見ることの出来る本物の微笑み。この上なく、美しかった。
 一年と少し一緒に過ごしただけの私が発した不躾な質問の意図を完璧に理解してのける彼は、やっぱり思慮深くて、それから優しい。私の思い付きを一つたりとも放らずに拾って、誰よりも丁寧に返してくれる。

 彼は、私を幸せにする天才。
 人は彼を天才と呼んで、それからたまに理不尽で冷徹だとか言う人もいるけれど、私は全部違うと思っている。故にこれは、皆が言う他人行儀な天才、とは違うもっと親愛なる何かを込めた意味での天才、なのだ。親が我が子を手放しで称賛するときに使うそれに、よく似ている気がする。

「じゃあ今度、私と見に行こうよ。」

 思ったより明るい声が出て、自分の調子のよさには辟易してしまう。それでも、途端にそんなことを忘れてしまうくらい、目の前の彼が優しい表情をしていることに驚いた。 アズールは、こんな表情をするひとだったかしら。

「ええ、是非。写真をたくさん撮って、ジェイドとフロイドにも見せましょう」

 彼は、二人も一緒に、とは言わなかった。写真を撮ってきて見せる。私たちは二人で海へ行くのだ。
「そうだね。」下を向きながらわざと間をおいて答えると、視界のふちで見慣れた髪色が揺れる。それをぼんやり追っていくと、上がった目線の先にばっと手を差し出され、
「今度ではなく今日、行きませんか」なんて言われてしまったものだから、私はうん、ともはい、ともいえないこの上なく曖昧な返事しかできなかった。
 
     ☆
 
「わ、こんな近くに海があったなんて」

 学園に一番近い街から、電車に乗って二駅。
 降りたらすぐに潮の香りがして、どこからかカモメのような鳥の鳴き声も、聞こえてくる。カモメのような、といったけれども今は夏の終わりだから、ウミネコのようなといった方が正しいかもしれなかった。

 昔読んだ新聞か何かに書いてあった、夏にカモメを見かけたと思ってもそれはほとんどウミネコで、どうやらカモメではない、という事実。思い出したそばから隣の彼に言ってみたくなったけれど、これは考えてみれば元の世界の話で、彼には全くもって想像の余地も関係も、ない話なのだ。違う世界。

 それ以前に私と彼は人間と人魚で、文字通り住む世界だって、異なっている。そんなことばかり考えていると、隣にいるはずなのに遠く、陸にいるはずなのに息苦しく、感じられるような気がしてきた。

「この辺りでは有名な観光地のようです。僕も、初めて来ました。」
「そうなんだね、すごい。海のほうは、人が多いのかな」
「さあ…平日の午後ですから、外れの方まで歩いていけば、さほど混んではいないと思いますが」

 そこまで言って、彼が私に右手を差し出した。意味がわからず彼の方を見ると、なぜか気まずそうに目を逸らされる。後ろに響く電車の音で、切符代を払ってもらっていたことを思い出した。

「ごめん、今」「違います」
 渡す、と途中まで言いかけたところで遮られて、なぜか少し強引に左手を握られる。

「海までは、人が多いので。はぐれたら困りますから。」

 学園に入りたての頃、街で私とはぐれたのを気にしているのだろうか。今日のアズールはなんだか本当に優しい気がする。手を繋いだのなんて、初めてだった。人が多いとは言えどもまったくもって歩けないほどではなかったし、それに海に行くのだって、もっと先の、早くても今週末とかに行くのだとてっきり、思っていた。こんな行き当たりばったりで気まぐれなことをする彼を見るのは新鮮である。

「どうしたの、今日なんか、変じゃない」
 駅から延びる急な坂道を下りながら言う。
 彼の方を見ようとしたけれど、常に足元に気を配っていないと転げ落ちてしまいそうだった。
「な、急に何ですか。失礼ですね」
「急なのはそっちでしょう。さっき、楽しみな予定ができたと思ったばかりなのに、今はもうその予定の最中なんだもの。」少しおどけたように言うと、
「あなたが、その、すごく考え込んでいるように見えたので」思いのほか真剣な色を含んだ返事がきて、言葉に詰まる。私のためだったなんて、考えてもみなかった。
「なんてことないの。…ううん、いま、なんともなくなった。」変とか言ってごめん、と謝る代わりに、少しだけ左手に力を込めて握ってみる。

 そこから浜辺につくまで、私たちの間には一言も会話がなかったのだけれど、それはかえって一年半の蓄積を感じられる確かな事実のような気もしてきて、私は、泣きたくなるくらいの幸せとはこういうことをいうのだろうな、なんて思ったりした。
 
      ☆
 
「陸から見た海って、どう? 印象変わる?」

 打ち寄せる波をバシャバシャと踏みつけながら、浜辺にたたずむアズールを伺う。
 絵画から出てきたかのように美しい彼は、今にも夕焼けの中に溶けていってしまいそうで恐ろしい。色素の薄いつややかな髪も、瞳の中のセレストブルーも全てが、オレンジに染められていく。

「こんな感じなんですね。大方、想像通りでした。」
「なんだ、やっぱり。」 

「でも」彼は靴を脱いで揃えて、その上にくつ下を置いた。所作はゆっくりとしていて、どこまでも品がある。横には私が脱ぎ捨てたつま先の揃わないローファー、学校指定のカバン、その上にスマートフォン。
「今日は来れてよかったと、思います。」

 私と同じように裸足で砂浜に立つ、彼が言った。打ち寄せる波の意外な高さに驚いて後ろに引く彼は、なんだか新鮮で可愛らしい。水中にいた頃は、こんな小さな細波が衣服をおびやかす要因になるなど、想像もしなかっただろう。そう思うと、余計に可愛らしく見えた。

「よかった。…アズール、ありがとう」

 私の莫迦な質問を笑わないでいてくれて、考えてくれて、それからここに、連れてきてくれて。一緒に、いてくれて。礼の意味は、両手じゃ収まりきらないくらいある。

「こちらこそ。あなたは僕が落ち込んでいると思って、あんなこと言ったのでしょう」
「深読みしすぎだよ」

 そうは言ったものの、事実だった。あの時、ラウンジで一人佇むアズールに何を言ったらいいのか分からず、けれども声をかけなくてはいけないと思わせるようなものがあって、気が付いたら「海、見たことある?」なんて口走っていたのだ。
 
    ☆
 
「ちょっと暗くなってきたね」

 空は少しずつ、夜の色に覆われてきていた。帳が降りる、とは正しくこういうことを言うのではないか。明るかった世界はどんどん闇で塞がれていって、もう三十分もしたらきっと、星も見える。最近は暗くなるのが早くなっていて、この世界にも夏至や冬至はあるのかな、なんて思ったりした。
 海岸の人は疎らで、私たちの他には恋人同士と思われる人達が一組と、それから親子連れが一組だけだった。どちらも離れていて、ここからはちゃんと見えない。

「このままだと冷えますし、戻りますか」
「そうだね」

 カバンからハンカチを取り出して足の水滴を拭く。砂が沢山ついてくる。脱いだままのローファーを履き直してスマホを取り出すと、時刻は一九時を回ったところだった。この時間はいつもラウンジで働いているか寮で音楽でも聞いているかだから、不思議な気分だ。
 
「前もね、こうやって海に来ていたの」
 行きと同じ、駅への坂道を歩き出す。下りの時は落ちそうで怖かったけれど、上りは単純に、先が見えなくて足が辛かった。距離は変わらないはずなのに、永遠につかないような気がしてくる。

「前、とはこの世界の話ではなく」
「うん、私が前に居た世界の、話」

 元の世界、とは言わなかった。
 戻る気などないから、前の世界、だ。

「いつ、どこで見ても変わらなくていいなあって、思った。再確認」
カモメ、もといウミネコは居ないかもしれないけれど。
「そうですか」
 この坂を降りた時とは反対の手に、彼の手が触れた。そのまま至って自然に、さも慣れ親しんだ動作であるかのように、私の手は彼の元へ引かれる。あ、と声が出そうになったけれど、なにか言えばこの手が離されてしまうような気がして、飲み込む。

 澄み渡った沈黙。街灯の灯りが夜空に浮かんでいるみたいで、綺麗。振り返ると水平線と空の境目が分からないほど混ざりあっていて、まるで世界がここで終わっているみたいだった。
 彼がいれば、元の世界になんて帰らなくていい。
 駅に着くまで私たちの間にはひとつの会話もなくて、私にはやはりそれが、幸せに感じられるのだった。

         ☆    

 彼がオーバーブロットしたらしい、契約書が無くなったらしい。
 そんなことを聞いているうちに職場には新しい制度が導入され、変化の中に取り残された私はひとり、前と違う雰囲気を纏うようになった彼に底知れぬ不安を覚えていた。

 けれどそれを本人に伝えたところで、また悩ませてしまうだけなのは目に見えている。ずっと聡明で優しい彼の、何が変わって何が不安だと言うのだろう。全てが漠然としていて、分からなかった。

 こういう時は悩みなんてどうでも良くなってしまうくらい、思考を素敵なものでいっぱいにするのが、いちばんいい。昔はこんな時、海を見に行ったりしていたっけ。
オクタヴィネルは海の中にあるから、なんだか身近すぎて、思いつきもしなかった。

 そういえばアズールって、外から見た海を見たことが、あるのかしら。






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