再録本 サンプルページ





甘やかな夜明け


『この夜にふたりやわく溶かして』書き下ろしサンプル


 まぶたの裏にうっすらひかりがあたって、徐々に意識が浮上する。どうやら、ポオさんを待っているうちに眠ってしまったらしい。変な格好で寝ていたせいで首が痛んだ。枕もとに転がっていたちいさなランプと読みかけの文庫本を、しずかにテーブルへ置く。カールが布団のなかで、わたしの背中にべったりくっついて眠っている。
 本は明るい場所で読むよりも、暗いところでほんの少しの灯りをつけて読むほうが集中できた。常夜灯だけの薄暗い室内で、わたしがなぞる文字たちにあたるスポットライト。紙をめくる音しかしない空間。寝室で、ひとすじの光だけを頼りに物語を追っているとき、わたしは彼のことを忘れることが出来る。もっというと、彼に会えなかったり触れられなかったりする寂しさを。
 目が悪くなるからちゃんと電気をつけたほうがいい、なんてポオさんに注意を受けたりもするけれど、そもそもわたしがベッドで本を読むのは彼を待っているときだけなので、そんなに問題はないと思っている。完全にひとりのときはしないのだ。
 カールを起こさないよう気をつけながら、片足ずつ床へ下ろす。背中が離れた瞬間カールがこちらへ傾いたから焦ったけれど、なんとか起こさずにすんだようだ。ふう、とひと息ついて、カーテンの外を見る。寝室の床はつめたく、わたしから熱をうばっていく。
 真夜中の空は紫と青のあいだのような色をしていて、あとは雲が薄くかかるだけだった。星も月もすっかり遠くぼやけてしまって、ここからは見えそうにない。街並みは今日も変わらずすばらしい夜景をつくりだしているけれど、いまのわたしにはちっとも魅力的に思えなかった。昨日ポオさんと一緒に眺めたときは、こんなうつくしい景色はないと、確かにそう感じたのに。
 寝室をぬけて、しんとした廊下へでる。リビングへ繋がるドアからは線状に灯りがもれていて、耳を澄ますとかすかに物音がした。途端にうれしい気持ちになって、わたしは上機嫌で歩いていく。
 彼が本当に執筆に集中しているとき、わたしたちはほとんど別々に生活しているようなかたちになる。カールのご飯もわたしが用意するし、一緒に寝るのもわたしだ。外へ散歩にでるときもポオさんを誘ったりはしないし(そもそも普段は出かける準備をしている段階で声をかけてくれて、かならず一緒に行ってくれる)、リビングでお茶することもない。設定を考えていたり、まだ下書き段階だったりするとわたしが近くにいても作業することはあるから、必ずしもひとりのときにしか書かないというわけではないのだけれど。それがわかったのは最近で、彼の執筆中の過ごし方について決めてしまうまではとにかく邪魔しないように、と何をするにも緊張していた。そればかりか、新作の執筆が始まる度にわたしは泊まりにくるのをやめ、連絡も自分からは一切しなかった。

  ▽

 付き合って半年と少しが過ぎた頃、梅雨を乗り越えた街は徐々に暑さを増し、葉の爽やかでみずみずしい匂いをそこら中に放っていた。日差しが強く、空にはキャンバスに描いたような水色が永遠と続いている。
 ベランダに続くいちばん大きな窓を開け放って、わたしはアイスを食べていた。髪を無造作にまとめ、ほとんど下着のようなワンピースを着て。予定のない女の休日なんてそんなものだ。
 彼から借りた小説をぺらぺらと捲り、登場人物たちをなんとか頭に入れる。難解なミステリはとにかく人が多い。そうじゃないのもあるけれど、彼が書いたり読んだりするものは大抵、一度立ち止まって元のページを確認したくなってしまうような作品ばかりだ。普通に生きていたら出会わないようなひとたち。皆、わたしの代わりに事件に巻き込まれ、殺され、罪を突きつけられる。それから彼といない間、代わりにわたしと過ごしてくれる。親愛なるひとたち。
 物語が佳境に入ったとき、携帯電話が着信を告げる。ディスプレイにはポオさんの名前があった。見なくてもわかるけれど、一応確認してから、通話ボタンを押す。休日、こんな時間に電話をかけてくるのは、事務員の友達かポオさんだけだ。もっとも、彼女たちはわたしが休みの日のほとんどをポオさんとのデートに費やしていることを知っているから、最近はあまりかけてこない。
「……ポオさん?」
 彼が新作の執筆を始めてから(大体五日前だ)、わたしたちは一度も会話していない。メールはおろか、電話でも。今回は気合いの入りようがいつもと違うような気がして、わたしから連絡を断ったのだ。ここ一、二ヶ月は泊まりに行くことも増えていたけれど、それも控えている。わたしが居るせいで集中できない、なんてことになってしまったら、申し訳ないからだ。
「我輩は何か、気に障るようなことをしてしまったのだろうか」
 五日ぶりに聞いた彼の声は暗く沈んで、それからどことなく疲れが感じとれた。本に栞を挟んで、カバンへしまう。
「してない、と思う」
「では何故連絡を……」
 彼のことばには心配しているような、それでいてどこか怒っているような、色んな感情が混ざっている。急に家に行かなくなり、急に連絡も寄越さなくなった、と思われているのかもしれない。けれどちゃんと説明しようと思った時にはもう、彼は机に向かっていたのだ。
「この間家に行ったとき、新作の話をしてくれたでしょう」楽しそうな彼を思い出しながら話していると、声色が自然と明るくなった。「ポオさんはいつも真剣だけれど、今回は特に真剣っていうか、集中していたから。だから……」
「だから、我輩のもとから居なくなったのであるか」
 彼にしてはめずらしく、はっきりした口調だった。
 居なくなった、なんて。
 今やポオさんの家にはたくさんわたしの物があって、だからわたしはあの場所から仕事に行くことも出来た。休みに関係なく何日も連続で泊まって、ご飯を食べるときも寝るときも起きるときも、ずっと傍にいた。近所の人ともそれなりに挨拶を交わすようになり、最寄りのスーパーマーケットの商品の配置もばっちり覚えた。ほとんど同棲しているような感じ、だったのかもしれない。
 毎日居たのに急に出ていった、と思われるのもあながち不自然なことでもないのだけれど、それでも納得がいかなかった。自分の家に帰っただけ(連絡をしなかったのは事実だから、だけ、というのはちょっと違うかもしれないけれど)で、こんな風に責められる謂われはない。わたしだって、ポオさんを想って彼から離れようと思ったのだ。
「居なくなったんじゃなくて帰っただけよ」それに、と続ける。「わたしが出ていったとき、ポオさん特に何も言わなかったじゃない」
 電話の向こうから一瞬だけ女の人の声がして、けれどすぐに遠くなる。聞こえなくなった、というよりは話している人の脇を通り過ぎたような、そんなフェードアウトの仕方だった。
「外にいるの?」
 ポオさんは答えず、代わりに足音がする。不思議に思っていると、やや遅れて「そうである」と控えめな返事が来た。
「……もし近くに居るなら、会いに行きたい」
 
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