この夜にふたりやわく溶かして





知るのは心音ばかり



 電車が止まる。ドアが開く。駅の階段を降りて、出口へ向かう。走り出しそうなのをなんとか抑えて、地面をしっかりと踏みしめる。街灯の下で、ポケットから鏡を出して顔を確認した。朝よりずっとあかるく、また柔らかな表情の自分が映る。恋をしている女のひとの顔だった。ポオさんと居るときのわたしも、こんな顔をしているのかしら、と思う。

 星の多い夜だ。輪郭のぼやけた白いひかりが空に散って、瞬いている。ここからずっと先、何億光年も離れた場所で、はるか昔に燃え尽きたものたち。今にも落ちてきそうなくらい身近なのに、これらは確かに過去の残骸なのだ。それでもどんなひかりより、星たちのきらめきはあたたかだった。この間はあんなに近かった月はうんと遠くへ行ってしまって、ささやかに街を照らしている。

 公園が見えてくる。わたしはゆっくりと息を吸い込んだ。深い冬の匂いがする。ポオさんと出会ってから、季節の巡りが早くなったように感じられた。初対面で乾杯をしたあの夜は春の終わり。はじめて二人でカフェへ行ったのは、例年よりずっと暑かった夏。ポオさんの家に行った雨の秋。どれもついさっき起きたことみたく、わたしの頭の中で鮮やかに再生される。

 目的地に着くと、ポオさんは立ったまま星を見上げていた。その光景があんまりにも美しくて、入ることが出来ない。前に彼を月の似合う人と思ったことがあったけれど、それは星でも同じことだった。夜のうつくしいものはきっとすべて、彼に似合うのだ。

「ポオさん」
 わたしはしばらく彼にみとれてしまって、声をかけたのは数分経ってからだった。 「ごめんなさい、待ちましたか」
「我輩も、今来たところである」
 星が綺麗だから見ていた、と彼は空を指さして、わたしはなにも知らない風を装って、へえ、と相槌を打った。「確かに綺麗」


 どちらからともなく歩き出して、ベンチへ座る。ほとんど夜中といってもいい時間に呼び出してしまったことを少しだけ後悔した。わたしは恋びとでもないのに、そんな権限はあったのだろうか。
「急に誘ってごめんなさい」
 想像よりも暗く沈んだ声がでる。どうしても会いたくなって。少し迷ってから、思っていたことをそのまま口にした。
「構わないのである。それに、この時間はいつも電話していたから、我輩も……」
 最後の方はすぐ隣にいないと聞こえないくらい、本当にちいさな声だった。けれどきちっと輪郭を持っていて、わたしはちゃんと聞き取ることが出来る。会いたかった。わたしをときめかせるには充分の、魔法の六文字。

「ほんとうは、朝ポオさんのこと見かけたの」ブーツの先で細かな砂利を転がす。なんとなく、彼の方はむけなかった。「女の人と居たから、言えなかったけれど」
「朝……?ああ、」
 おそらく名前を言ったのだろうけれど、それはわたしに届くことなく、公園の脇を通り抜けていった車のBGMにかき消されてしまった。あまりのタイミングの良さに笑いそうになるくらいだ。数秒だけ聞こえた大音量のポップスが、まだ耳に残っている。
「あのときはちょっと、気になったけど、……ポオさんのこと、きっと前よりわかってるから」
 もとから、詳しく聞き出したかった訳ではない。彼の返答を待たずに、言う。
「……は、組合の……」
 今度は耐えきれずに笑いだしてしまった。さっきの車が道を間違えていたらしく、戻ってきたのだ。今回もまた、ほとんど聞こえなかった。
「前にもここで、こんなこと」
 はっと思い出してポオさんを見る。彼も同じことを考えていたようで、車が過ぎ去った道を楽しげに眺めていた。
「懐かしいのである」
 あのときは確か、おおきなトラックとバイクだった。会ったばかりで彼の声を聞きとるのに慣れていなくて、わたしはずっと緊張していた。こんなことになるなんて、思いもしなかった。

「ポオさんと出会ってから、わたしずっと楽しかったなあ」
 ベンチから立ちあがると、先程よりもさらに温度が下がったように感じられた。それなのに顔はずっと熱いままで、頬が赤くなっていないかすこしだけ不安になる。暗いから見えないかもしれないけれど、それでも、好きなひとの前ではできるだけ可愛らしく居たかった。「春も夏も秋も、……それから冬も多分、楽しい」

 座ったままのポオさんはふっと微笑んで、わたしのほうへ顔を向けた。片目だけ見えるグレーのひとみに、星空とわたしが居る。
 ポオさんの隣へ座りなおす。さっきよりもすこしだけ間隔をつめて、けれどどこも触れ合わないところに。
 お互いに何も言わず、ただ静寂だけが流れる。会話のない、しずかな空間が苦痛にならずむしろ安心さえ感じられるのは、彼との時間で気に入っているところのひとつだ。もしかすると話しているときよりも、ポオさんとの距離が近い。

 こうしてふたりでじっと空を眺めていると、どこか自分の住む街ではない、違う国、世界に居るのではないかという気がしてくる。ふたりの世界、というとすこし恥ずかしいけれど、でも、そんな風に思ってしまう。わたしたちのために誂られた特別なものたち。作り物みたいにうつくしい夜も、澄んだ空気も、ベンチの冷たさも。
 ふいに、ポオさんの手がわたしの指先に触れる。偶然ではなかった。わたしのほうへ向けられた手のひらに自分の手を重ねて、指と指を絡ませる。ゆっくりと、一本ずつ。胸が痛くなるほどドキドキして、繋がった右手から鼓動が伝わりそうだった。

「君は、……君は、不思議である」
 彼がわたしを見つめて、言う。あまりに切なげで、それでいて今までの彼とはどことなく雰囲気の違う熱っぽい視線に、相槌を打つ余裕すら奪われる。
「我輩は、他者と関わることなど苦痛でしかないと、不必要だと思っていた」しかし、と彼は続けた。「君と会っている時間は楽しかった」

 繋がった手が熱い。指さきに力を込めると、彼もわたしの手を握り返してくれる。きらめいたなにかがもうずっと、わたしを占拠している。

「だから、これからも一緒に居て欲しい……のである」
 それはどこまでも誠実な響きをもって、わたしの身体の隅々まで届いた。すべてが捕らわれてしまう気がして、彼から視線を逸らす。これ以上ポオさんのことを好きになったら、どうなるかわからない。冷たい風が吹いて、わたしやポオさんの髪の毛を揺らす。
「いいの、わたしで」

 色あせた遊具や砂場の城をぼんやり眺めて、なかば独りごとのようにいう。指が解かれて、しずかにベンチの上へ戻される。ポオさんが立ち上がって、わたしの前でしゃがみこむ。無理に目線を合わせられるようなかたちになって、もうどうにでもなったらいい、と思った。こんな星の降る夜にこんな格好で、彼はまるで王子様みたいだ。

「……君がいい」
 ベンチから腰を上げるだけなのに、ポオさんは手を貸してくれる。また身長の差が生まれて、彼が遠くなる。
「わたしも、ポオさんと一緒に居たい」
 うすい涙の膜が張って、ポオさんも空も街灯もすべて滲みかけていた。鼻がツンとして、頭がぼうっとあつくなる。
「わたし、……わたしね」

 言葉が詰まって、うまく出てこない。代わりに温かい涙がぼろぼろこぼれて、口を噤んだ。そうしないと声を上げて泣いてしまいそうだった。わたしはどうにもならないくらい、ポオさんが好きだった。

「我輩も、同じ気持ちである」
 ポオさんはわたしに手を伸ばして、指で涙を拭ってくれた。それでさらに泣きたくなってしまって、あたらしい涙がどんどん落ちていく。頬を撫でた手が肩へおりる。そのまま引き寄せられて、わたしはポオさんの腕のなかに収まった。なんどもそうしてきたみたいに、その動作はわたしたちに馴染んでいた。背中へ回された手にぎゅっと力が入って、さらに距離がなくなる。なにも見えなくなる。
「君が好きだ」
 ポオさんの手が、頬へ触れる。顔が近づく。

 星空。澄んだ空気。分け合った体温。ただ静かに、寄り添うみたいに揺蕩うことば。世界が、泣きだしそうなほどうつくしかった。わたしの今までの全部は、このひとに出会うためにあったのだ。ただそう思った。こころの底から気持ちが溢れる。伝わりますように、と願いながら、まぶたを閉じる。
 この夜にふたり、やわく溶かして。



   



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