この夜にふたりやわく溶かして





されば愛は止まらない


 昨日早く寝てしまったのを取り返したいような気持ちになって、わたしは朝から公園に来ていた。それでも早朝というわけではなく、大体朝と昼の間くらいだ。人はまばらで、皆何処か楽しげに歩いている。
 街路樹の葉は完全に落ち、街はいつのまにか、イルミネーションで華やかに彩られていた。まだ暗くなっていないから明かりはついていないけれど、構わない。冬の街の雰囲気が好きなのだ。夜になって人が多くなれば外出は億劫になってしまうし、朝から活動出来たという事実だけでわたしは満ち足りた気持ちだった。冬の空はどこまでもしんとしてしずかだ。

 ふと、ポオさんに電話をかけてみようか 、と思う。この間まで書いていた小説は完成し、彼は昨日探偵社に来ていた。だから夜遅くまで原稿に取り組んでいたとは考えづらいし、昨夜は電話もしていない。あまり迷わず、わたしは通話ボタンを押した。いつもなら事前にメールで、何時頃に電話をします、とか、今大丈夫ですか、とか、そういうことを聞くのだけれど、今日はなんとなく、突然かけてみたくなったのだ。わたしたちが話すのは大抵夜で、こうして昼間に電話するのは何だか特別な感じがした。わたしは彼を、いつでも電話出来る間柄のように思っていたのだ。

「あ、……」

 建物の間、ここから大きな通りを一本挟んだところに、彼の姿をみかける。ほとんど反射的に、携帯のボタンを押して通話を切っていた。彼は女の人といた。
 何か大切なことを話しているようだった。距離が近くて、とても最近会った人、という風ではない。肩につかないくらいの綺麗にカールした髪。この辺ではみかけないような、落ち着いていて上品な服装。あんまり気は強くない感じで、さっきからポオさんも彼女も謝ったり謝られたりしている。おおきな眼鏡は、可愛らしい顔立ちによく似合っていた。おそらく外国人らしい彼女とポオさんは、遠目からだと恋人同士に見えなくもない。

 気がつけば、ふたりからいちばん近い街路樹の陰に隠れて、様子をうかがっていた。これではまるでストーカーだ、とため息をつく。姿が見えないように踵を返して、先程まで座っていたベンチへ戻った。またため息が出る。

 しばらくの間、携帯で過去のメールを見返したり、ただ空を見たり、通りがかった犬を撫でたりして、わたしはその場をやりすごした。帰ろうとすればふたりの前を通らなくてはいけなかったから、そうする他なかったのだ。少なくとも、あの木の影からポオさんを盗み見るような女で居続けるのは、嫌だと思った。
 帰り道は音楽を聴いた。歌詞のあるものを聞くと無駄に共感して疲れてしまいそうだったから、ピアノだけのしずかな曲を選ぶ。少しあるいて家が見えてきたころ、携帯がなる。イヤフォンをしていたから、気がつくのが遅くなってしまった。ポオさんの名前が表示されている。

「……ど、どうしたのであるか」
 おそらく着信履歴を見てかけ直してくれたのだろう。普段こんな時間にかけることなんてないから、心配を掛けていないか不安になる。
「とくに何かあったわけじゃないの。ごめんなさい」いつになく早口でわたしは答える。「外に出たら天気が良くて、その……話したくなって」
「我輩も、今外に」
 ポオさんの声がぐっと明るくなって、それがあまりにもわかりやすかったものだから、わたしも嬉しくなってしまう。
「偶然ですね」
 見かけた、とはなぜだか言えなかった。
「もう家に着くところなの。夜、また掛けます」
 なるべく彼の声と同じトーンで響くように、とこころがけたわたしの声は、楽しげにすら聞こえた。うす暗い、上手く言葉に出来ない感情が揺れて、苦しい。

 家に着くなり、わたしは着替えもせずにベッドへ沈んだ。携帯は電源を切ってしまい、床へ放る。いつになく早起き出来た、とか、一年ぶりに出したブーツの履き心地が良かった、とかそういうちいさな幸せはとうに効力を失って、部屋の隅に落ちる。レースカーテンの間から洩れたひかりが、線になって床を伝う。

▽▽▽

 インターフォンの音で目が覚めた。最初は宅配業者か何かだと思い、ゆったり起き上がったのだけれど、徐々にそうではないとわかる。まだ瞼のあがりきらないまま、ドアを開ける。

「デートドタキャンされちゃった。ご飯食べてっていい?」
 どうやらコンビニかどこかに寄ってきたらしい、着飾った同僚が立っていた。手に持った袋には缶のお酒や小さい瓶のワイン、何種類かのお菓子、下の方にはご飯もののの平たいパッケージが積まれている。
「……いいけれど」
 かすれた声が出る。ドタキャンされたという事情には同情するけれど、なにしろ起きたばかりなのだ。テンションを合わせる元気は持ちあわせていない。
「寝てた?」
「寝てた。朝出掛けてからずっと」
 廊下の窓を見れば、外は暗くなっていた。お腹も空いている。冬は暗くなるのが早いから、今が何時なのか検討もつかない。
「……何かあった? 話聞かせてって言ってから、だいぶ経っちゃったよね」
 何か。考え出した途端、朝ポオさんに会ったことを思い出す。ポオさんと、見知らぬ可愛い女のひと。
「ううん、何も……けど、とりあえず入ってよ」

 話を聞いて欲しい気持ちはあったけれど、玄関先で話すわけにもいかない。手を洗いたいという彼女を洗面所へ案内するとき、わたしは急に救われた気持ちになった。こんなときに夜ご飯を共にしてくれる友人がいる、というのはなんて幸せなことなのだろう。彼女には申し訳ない気もしたけれど、わたしは彼女の恋人に感謝すらしてしまった。
 ポオさんには夜に電話すると言ってしまったけれど、それだって一言、メールで断ればいいだけだ。

 適当にテーブルを片付けて、ささやかな晩餐の準備をする。といっても彼女が買ってきてくれたものを並べるだけで、わたしが用意出来ることといえば、エアコンの温度を上げて部屋を暖かくするだとか、カーテンを閉めるだとか、それくらいだ。

 パーティでポオさんと出会って、帰りに送ってもらったこと。次の日に彼の相棒を拾って再会したこと。駄菓子を買いに行ったこと。順番に話していくうち、わたしも彼女もお酒が進んで饒舌になる。部屋の雰囲気ごと変わったのは、今朝の出来事を話した時だった。

「なにそれ!浮気じゃない」
 さも腹立たしそうに、彼女は声を張り上げる。勢いよく缶チューハイを飲み干し、新しいものを開けた。爽快な、小気味いい音がする。
「……付き合ってないもの。それに、どういう関係なのかも分からないわ。単なる知り合いかも」
 右手で持ったままの甘いカクテルは、まだ半分くらい残っている。なぜだかあまり飲む気にはなれなかった。わたしがいま抱えているのは、お酒を沢山飲んで忘れたいような不安やさびしさではないような気がした。

「どんな感じで話してたの?」
「ちょっと、親密な感じだったかもしれない」
 ドレッシングのかかったサラダをひと口食べて、箸を置く。ポオさんにレタスの話をしたことを後悔した。よりによって、あんな特別な夜に。何の気なく。どこにでもあるものを思い出にするなんて、最悪だ。どこに居ても彼にとらわれて、動けなくなる。
「やっぱり浮気じゃない」
「だから付き合ってないんだって」
「でも毎日電話してる。家にも泊まった。なんでもないじゃ済まされないでしょう?」
 もういい大人なのよ、私たち。彼女はそう言って、フォークに巻かれたパスタを口へ運ぶ。
「……うん」

 わたしが相槌を打つと、彼女はさらにまくし立てる。「大体ね、パーティで出会ってからもう何ヶ月経つの?話聞けるのずっと待ってたのよ。私ならもう結婚してる」
 彼女は頭が良く話も上手い。だからこそ強気な面も目立ち、今までの恋愛は一ヶ月と続いたことがないのだった。
「ふふ、……ごめん」
「電話して、ちゃんと聞いた方がいいと思う。信頼してるんでしょう?」
 しっかりビューラーで睫毛の上げられた目と、視線がかち合う。彼女は穏やかに微笑んだ。
「それは、……うん、そうだね。信頼してる」
 本当はわかっていた。ポオさんがわたしと適当な付き合いをしている訳では無いということも、だからこそ今日の昼間歩いていた女性とは何も無いのだろうということも。

「……てか、そっちはどうなの。話聞かせてよ」
 わたしが言うと、彼女はまた勢いよく酒を煽って、それから語り出した。あたらしい恋人について。今日行く予定だった場所について。


 駅まで送ってく、と言うと、彼女はすんなりとそれを受けいれた。いいよ、とか大丈夫、とか、そういう曖昧な断り文句を返されなかったことに、わたしはひどく安心してしまった。ひとりになるのが怖かったのかもしれない。

「あの会長さんね、まだ諦めてないらしいよ」
 唐突に振り向いた彼女が、いたずらっぽい表情で言う。まるで秘密を共有する少女みたいだ。
「ええ、そうなの?」

 諦めていない、というのは、わたしたち武装探偵社の事務員の誰かと自分の息子を結婚させることを、だ。あの夜、わたしが勢いよくデートから立ち去りその後連絡も止めてしまった彼は、意外にもそのことを会長に言わなかった。多分、会長はわたしを気に入っていたし、悪く言ったところで古くからの取引先である武装探偵社との繋がりが無くなるわけではないからだ、と推測する。今後女の人を紹介して貰えなくなるのを恐れた、ということもあるかもしれない。とにかくわたしはあの男に影響を受けることなく、仕事することが出来ていた。

「次は私かなー」
「どうだろ。わたしみたいに走って逃げなきゃいいけど」
「そんなことしないわ」
 閑静な住宅街にふたりぶんの足音と笑い声が響いた。どちらもそう大きくはないはずなのに、やけに際立って聞こえる。
「あのさ」
 駅の近くまで来ると、急に辺りが騒がしくなる。何、とわたしにしてはおおきめに返事をしたのだけれど、彼女には届いていないようだった。
「きっと素敵な恋びと同士になれるよ」
 え、と声が洩れる。たぶんこれも彼女には届いていないけれど、表情で充分伝わったみたいだった。
「だって乱歩さんが応援してくれる恋だよ。そんなのってなかなかない」それに、とトーンを上げて、彼女はつづける。「ずっとあなたを見てきた私も、応援してる」
 胸が詰まって、上手く話せそうになかった。代わりに頷くと、お酒で緩んだ涙腺から雫が一粒こぼれ落ちた。「……ありがとう」

▽▽▽

「もしもし、ポオさん?わたしも、今掛けようと思ってたの」

 いつもならもう電話をしているくらいの時間だった。もしかしたら、わたしからの電話を待っていてくれていて、それでも掛かってこないからと痺れを切らしたのかもしれない。一瞬そう考えて、彼はそんなせっかちなひとではない、とうち消す。理由は定かでなくても、わたしがかけるより前に、ポオさんから電話をかけてくれたことは嬉しかった。歩くのをやめて、駅の壁に寄りかかる。

「偶然であるな」
 朝、同じような会話をしたような気がする、と思った。他のことはそう鮮明に覚えていられないのに、ポオさんに関連することならなんだって思い出せる。何気ない会話も、一緒に見た景色も、忘れられない熱も、すべて。
「あのね、その、……いまから、会えませんか」

 後ろを電車が通って、数十秒の間ができる。静かになるまで、そうしてポオさんが話し出すまで、わたしはずっと目を瞑っていた。そうしないと、慌てて取り消してしまいそうだった。やっぱりいいです、大丈夫です、なんて。
「待ち合わせは、どこがいいだろうか」

 急な提案をされたとは思えないくらい、なだらかな質問だった。もとから、今夜会う約束をしていたみたいだ。
 いまから、ポオさんに会える。まるで現実味がなくて、でも、携帯から伝わる彼の気配は、声は、確かにわたしを満たしている。

「駅の近くの公園、がいいです。わたしが、カールに出会ったところ」
 そして、初めて話した場所だ。そんなに時間が経っているわけではないのに、最早懐かしさすら感じられる。ぎこちない会話。沈黙。彼と居るのが心地よかったあの夜。

 また間ができる。ポオさんも同じ夜を思い出していたらいいな、と思う。
「では、あの公園で。……すぐに向かうのである」
「はい」電話の向こうで、がさがさと音がする。これはきっと、外套を着ている音だ。「わたしも、いま向かいます」



   



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