帰れないふたり





【番外編】正しい彼の話



 こんなに気分の悪い夜は久しぶりだ、と乱歩は思う。何か大きな不幸があったとか、そういうことではない。朝に食べた新発売の駄菓子はかなり好みの味であったし、暇な時間に与謝野さんと興じたゲームもなかなか楽しかった。問題はそのあとだ。瑠梨亜が、探偵社を離れるなんて。少し思い出すだけでも苛立ちが止まらない。乱暴に冷蔵庫の扉を開け──新しくしたばかりなんだから、慎重に扱ってという彼女の言葉がよぎったが、わざとそうした──ラムネとプリンを取り出す。どちらも乱歩用に買い置きされたものだ。

 ソファへ腰かけてテレビを付けたが、くだらないニュースと煩雑な笑い声にあふれていたのですぐに消す。世間の皆はよくもこんなつまらないものを見れるものだ、とリモコンをクッションめがけて放り投げた。
 いつもこうしているというわけではない。この部屋の主である瑠梨亜が一緒に居るときは、ドラマを見たり(ミステリものは犯人を当てられてしまうのが嫌だから、と乱歩がいるときは恋愛ドラマばかりだ)、スポーツ中継を見たりもする。それらも、乱歩にとってつまらないものであることに変わりは無かった。それでも隣でなんとなく眺めていられるのは、ころころ変わる瑠梨亜の表情が面白いからだ。

 今日、その瑠梨亜は探偵社の後輩である太宰と酒を飲みに行っている。昼間の出来事の反省でもしているのだろう。隠さなければならなかった書類をばら撒き、言う予定のなかった事情を話す事になった。大事件だ。あんな失敗は、彼女らしくない。いや、ここまで隠し通せていたこと自体、彼女らしくない、か。
 持ってきたまま手つかずだったプリンを開封し、ラムネの栓を開ける。こぼれたら嫌だから台所でやってよ。また彼女の声が頭で再生されて、「うるさい」と小さな独り言が床へ落ちる。彼女のいない部屋はいやに静かで、無機質に映る。

▽▽▽

 瑠梨亜が出張から戻った次の日。この日は朝から探偵社に依頼が立て込み、いつもは乱歩の暇つぶしに付き合ってくれる与謝野さんや従順な後輩たちも、皆それぞれ出払ってしまっていた。残されたのは太宰と乱歩、それから下のフロアの事務員たちだけである。もっとも、彼女はその事務員に含まれず、外出中──今日は敦と一緒らしい。絶対に仲良くなってくると張り切って出ていった──だった。

 適当に本を読んだり棚の駄菓子を物色したりしているうち、次第にやることがなくなってくる。
 解決する事件が無いのは良いことだ、と瑠梨亜が言っていたのを思い出す。同じことを言ってくる人間は他にもいたが、それを言われて腹が立たないのは彼女だけだった。暇なときはわたしと話してればいいじゃない。そう続けて、はにかむように笑った今より幼い彼女の顔が浮かんで、少しだけ懐かしい気持ちになる。

 二度ほど瑠梨亜に電話をかけ、二度とも留守録になる。最近は携帯に連絡しても、なかなか繋がらないことが多かった。ふたりで居る時も、意図的に携帯を見ないようにしているように感じられる。大きくため息をつけば、応接間のソファでくつろいでいた太宰が横目でこちらを窺ってくる。ふと思いついて、かねてより疑問だったことをぶつけてみた。

「私が、瑠梨亜さんに特別な感情を?」
 太宰は深い茶色のひとみを縦にして、信じられない、と笑った。やめてくださいよ、とも。それを聞きながら、彼の向かいへと移動する。
「僕には、他の社員への態度と随分違うように見えるんだけれど」
 羊羹に竹串を通す。瑠梨亜がここを出る前用意していった取引先からの差し入れだ。ここに置いておくから二人で食べたら。確かそう言われたはず。適当に返事をしていたせいで、存在自体忘れていた。太宰はこれと言って興味を示さず、革張りのソファに横になっている。いつにもましてだらしがない。
「乱歩さんこそ。恋人でもないのに距離が近いんじゃないですか」
 意識する前に、ハア、と声が出た。距離が近いなんて当たり前のことだからだ。何年一緒に居ると思っているのだ。それは、太宰の知らないことではないはずなのに。
「普通の大人は、長く一緒に居るからと言って手を繋いだりしないし、こうして後輩に釘を刺したりしませんよ」

 太宰が乱歩へ意見することなど滅多にないことだった。むしろ作戦のアドバイスを求められたり、最終的な指示を仰がれたり、そういう方が多い。いつもなら「そんなことない!」と一蹴するところだが、すんでのところで飲み込む。冗談めかして言ってきてはいるが、実際は本気だということが伝わってきた。

「……ふうん」羊羹の最後の一切れを食べて、そのまま目の前に置かれた太宰の皿を手繰り寄せる。とくに気に留める様子はない。「でも、瑠梨亜は僕のだから」
「瑠梨亜さんがどう思ってるかは分からないけれど──」太宰が起き上がって、言う。胸もとで伏せられていた文庫本が膝へすべり、ばさりと音を立てた。「乱歩さんが言うならそうなんでしょうね」

 白い肌に前髪の影が落ちて、いつもは柔らかに細められているひとみが怪しくきらめいた。薄い唇が、ゆるりと弧を描く。ある種の意地悪さがのった表情を向けられ、ほんのわずかだが苛立つ気持ちが湧いた。

「……僕もう行くから」
「怒られちゃいますよ。なんせ、敦くんと仲良くなる作戦決行中なんですからね」
「そんなの、僕には関係ない」
「ああ、最後に」出ていきかけたところを呼びかけられた。ドアノブを捻る手が止まる。「瑠梨亜さんのこと好きですか」

 振り向くと、太宰は先程と同じ半身を起こした状態のまま、こちらを見ていた。そこに、いつもの飄々とした態度は付随しない。
「下らない。そんな分かりきったこと聞いてどうするのさ!もっとマシな質問しなよ」
 バタン、と大きな音を立てて扉がしまる。三度目の電話をかけながら廊下を行く乱歩に、太宰の独り言が届くことは無い。「本人に言えばいいのに」

▽▽▽

 置かれていた本を適当に読み飛ばしているうち、だんだん眠くなってくる。実際に景色が見えるかのようなうつくしい情景描写やセリフの言葉選びの感じは、いかにも彼女が好みそうなものだった。繰り返し読むほどの面白さはまったくもってわからなかったが──人は死なないし、これといってストーリーが大きく動くわけでもない。さらには、ラストシーンでやっと事件が起きたと思ったらそのまま終わった──暇つぶしにはなったか、と思う。

「……おそい」

 最後のひとくちを飲み干し、ガラスの瓶をテーブルへ置く。中のビー玉がからりと涼し気な音を立てた。
 ふいに、ドレッサーの上の香水が目に入る。あまり気にしていなかったが、今日の様子からするに、出張先の男から送られたものなのは間違いなかった。彼女が隠していたのは、出張を自分で決めたということだけではない。まだ言われていない事実──おそらくそのまま就職、もしかすると結婚を考えていることまで──を思うと、ますます腹立たしくなる。瑠梨亜は僕のなのに。噛み締めるようにひとりごちて、ソファへ寝転んだ。

 しばらく眠っていたらしい。瑠梨亜が帰ってきた様子はなく、時計は十一時を指していた。プリンの容器とガラス瓶をシンクへ運び、ひとつため息をつく。普段は片付けなどする気も起きないが、帰ってきた瑠梨亜に文句を言われる時間さえ惜しかった。
 部屋の向こうから、聞きなれた足音がする。
 この先どんなことが起きたって、自分の隣に立つのは彼女でなくてはならない。離れるつもりだというなら、連れ戻すまでだ。乱歩はこれから彼女とする会話を予測しながら、暗い廊下を進む。ドアが開く。



   



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