帰れないふたり





帰れないふたり ─後編


 
 降りてしまったはいいけれど、乗り換えとか難しかったらどうしよう。
 不安がるわたしとは対照的に、乱歩はすずしい顔をして海を眺めていた。言うだけ無駄か、と諦めて、前を向く。波打つコバルトブルーにうつる太陽が眩しい。ウミネコの鳴き声がそこらじゅうから聞こえて、それより近くで波の音がする。寄せては返す、グラデーションの青と白い泡。足元にはクリーム色の砂が広がっていて、遠くには黒くて大きな岩が佇んでいた。色も音も匂いも似ているけれど、横浜から見る海とはぜんぜん違うもの。予定ではもう一時間もすれば社についていたのに、わたしたちはなぜだかまだ旅の途中。そんな事情も相まって、別世界のようだった。

 こうやってふたりで海に来たのは、前に海の近くで殺人事件があって以来だ。何年前かなんて、もう思い出せそうにない。あのときも一瞬で事件を解決してしまって、余った時間で適当に散歩したのだっけ。
 先に歩いて行ってしまった彼を追いかけて、隣に並ぶ。ゆっくり息を吸えば潮の匂いが強く香って、非日常の気配がさらに濃くなった。

「朝、突然泣いたりしてごめん」

 乱歩が横目でこちらを窺う。彼のほうへ顔を向けなくたって、それくらいの反応は読み取れた。ザバン、と音がして、水しぶきが数メートル先の砂浜に打ち付けられる。

「気にしてないけど」
「そう。でも、もうしない」

 カーディガンのボタンを一番上だけとめる。街がどんなに夏めいていても、海風はいつだってつめたかった。髪がさらさらと揺らめく。

「しあわせで泣くなんて。我ながら嫌になっちゃう」
「別にいいじゃないか」
「だめだよ。そのしあわせだって、わたし何回も諦めようとしたんだから」
 ずっと乱歩が好きだったのに。さんざん悩んで後回しにして、迷惑をかけて、最終的には、何も悪くない朝長さんを悲しませてしまった。
「怖かったんだろ」

 うん、と小さく頷く。そうだ、わたしは怖かったのだ。何年も続いた関係を壊すのも、乱歩の恋人になるのも、彼を自分のものにしてしまうのも。それから、うまくいかなかったときのことも。

「……ごめん。僕は瑠梨亜がどこかに行くなんて、考えてなかった」

 乱歩の視線は海へ向いたままだったけれど、意識の全てはわたしへ集中している。わたしだってそうだ。見つめ合ってしまったらきっとまた泣いてしまうから、無理やり水平線をなぞって、遠く広がる青に反射するひかりに目を細めている。そうして、乱歩の気持ちやことばや存在すべてを少しも逃すことなく感じたいと思っている。

「離れても、生きていけることを知りたかったの」立ち止まっていた足を進めて、海水で色の変わった砂浜を歩く。後ろから乱歩がゆっくりあるいてくるのが、影で見えた。「乱歩はわたしの世界そのものだったから。でも結果色んな人を巻き込んで、迷惑をかけてしまった」

 ふたつ浮かんでいた影が近づいて、重なる。ふわりと乱歩の匂いがした。ぴったりとくっついた背中もお腹に回された手もあつくて、触れた傍から体温がうつされるような心地だった。

「君には僕が居なきゃだめだと思っていたけど、……でも実際は、僕が、瑠梨亜がいないとダメなんだ」

 夢みたいな言葉。いつまでたっても解けない呪いを、さらに永遠のものするような。嬉しくてたまらないのに、嘘だと叫びだしたくなるような。そんな夢の言葉だった。

「そんなことない。乱歩はわたしがいなくたって」
「僕が考えて、出した結論だ」
 それがまさか、間違っているって?──そう、問われている気分だった。
「……じゃあ、恋に浮かされているだけ」
「僕は今ひさしぶりに、瑠梨亜のこと莫迦だと思ってる」
「わたしだってそう思ってる。世界最高の名探偵が、わたしが居ないと駄目だって。そんな莫迦な話はないね」

 身体をひねって腕の中から抜け出そうと試みるも、はなしてくれそうにない。乱歩だって、わたしが本気を出せば抜けられるとわかっている。そうしないのをわかっているのだ。一度抱き締められてしまえば、どうしても離れがたくて、形だけの抵抗になってしまう。

「離してよ」
 わたしの非力な言葉は砂浜にすとんと落ちて、そのまま波にさらわれる。
「確かに僕は、瑠梨亜が居ないと何もできなくなるわけじゃない。全部を投げ出したりも、きっとしない」

 短い相槌を打って、抵抗をやめる。乱歩の手の上に自分のそれを重ねて、瞼をとじた。わたしの居なくなった探偵社。わたしの居なくなった乱歩の世界。普段通りに過ごす彼を想像するのは、あまりに容易なことだった。そしてもちろん、想像上の彼はわたしのために全てを投げ出したりも、しない。

「でも」耳触りのいい声が、わたしのなかに入ってくる。「だからって隣にいなくていい、ってことにはならない」
「……うん」

 ──恋をした人間をたすけることは、誰にもできない。いつか、本でみつけたことば。その通りだ。恋をした人間をたすけることは、誰にもできない。

「わたしも、きっと乱歩が居なくても大丈夫なの。他の人と結婚して、暮らしていくことだって、……でも、」
 力の緩まっていた腕から抜けて、乱歩と向き合う。
「ずっと乱歩に、恋をしてるの。好きだから、隣に居たい」

  真剣に伝えたかったのに、照れが勝ってはにかんでしまった。勢いで抱きついてしまおうとしたら両腕をぐっと掴まれて、すんでのところで止まる。驚いて彼を見上げれば、表情なんか窺う暇もなく、キスで口を塞がれた。途中で一度離されて、もういっかい。ただ唇が触れ合うだけの、みじかくて軽やかなもの。たった何秒かのキスがわたしをこの上なく幸福にして、恋の煌めきを、逃れられない引力を、確かなものにする。

 ふと、車や電車の通る音や風に乗って届く遠い笑い声なんかが鮮明に聞こえて、恥ずかしさが戻ってくる。今度こそ一歩踏み込んで、正面から乱歩の胸に飛び込んだ。周りを見渡す余裕なんてない。道端でいい大人がいちゃついているという現状には何も変わりなかったけれど、わたしから何も見えなければ、それでいいか、と思って。

「昨日はもっと人が見てただろ」

 そういうことじゃないし、昨日は昨日で恥ずかしかった。乱歩が周りを気にしないのは充分わかっていたつもりだったけれど、それがこういうときにも影響するとは。何も言い返せなくて、黙ったままになる。

「今日さぁ、帰るのやめない」

 電車移動が嫌だったのだろうか、と考える。行きは耐えられても、帰りは耐えられない。そんなことってよくある。わたしも、ひとり探偵社からの帰宅する時は、タクシーに乗りがちだ。でも、途中で帰るのやめようかしら、なんてことはない。

「やめるって、どうして」
「とにかく、帰らない。早く電話して」

 彼の意思は固そうだ。わたしを乱雑に引きはがして、当たり前のように命令してくる。数分前とは大違いだ。しおらしかったのは一瞬で、あれは夢かなにかだったのではないかと疑ってしまうくらい、堂々としている。どこからどう見ても、天真爛漫、天衣無縫の飄々とした名探偵、江戸川乱歩になっている。

「そんなこと言われたって、理由がわからないんだから無理よ」

 わたしの手はすでに、鞄についたポケットへ伸びている。納得していなくても行動してしまうのは、乱歩が理由も意味もないことはしないとわかっているから。
 潮風にあおられて、髪が顔にはりつく。ひと束ずつ摘んでよける。靴に入った砂も気になりだして、片方ずつ脱いで落とした。乱歩は大丈夫かしら、と足元に目をやれば、先のとがった革靴が揃ってこちらを向いている。

「瑠梨亜は帰りたいの?」

 顔を上げて彼を見たとき、やっとわかった。察しが悪くて申し訳ないとも思うけれど、こういう経験が少ないのだから仕方がない、と心のなかで言い訳をする。
「……帰りたくない」



▽▽▽

「ごめんなさい、遅れちゃって。これ良かったら」

 大丈夫。ぜんぜん。気にしないで。もう一泊してくればよかったのに。各々返答をくれながら、お土産を持ってデスクへ戻っていく。わたしも倣って席に着けば、事務員の中ではいちばん付き合いの長い隣席の同僚──もう一泊してくればよかったのに、と言った彼女だ──が、笑顔でわたしを見つめてくる。手にはしっかりお土産のクッキーが二個、握られていた。

「さすがにそろそろ、付き合った?」
 挨拶代わりのからかいを聞くのも、今日で最後なのかもしれない。彼女は、わたしがどう答えるかなんて聞かなくてもわかるとでも言うように、椅子を正面に向けて美味しそうにクッキーを頬張っていた。

「うん。付き合ってる」
「やっぱりそうだよね。もう、早く付き合えばいいのに」
「だから付き合ってるって」

 ええ!と大きな声がフロア全体に響き渡る。皆がこっちを見た。「……本当に?」
「本当。聞かれなくてもちゃんと言うつもりだったよ」

 事態を把握したらしい他の同僚たちからなぜか拍手が送られ、聞いてきた彼女はまだ信じられないという風にわたしを見つめていた。それも仕方ないか、と思う。このやりとりを続けてもう何年もたつのだ。突然終わりを告げられるなんて、誰も予想していなかっただろう。

「おや、瑠梨亜さん。帰っていたんだね。ところで何故拍手を……」
「太宰。ただいま」

 椅子ごと振り向けば、数日ぶりに会う”素晴らしい後輩”が楽しげな表情で立っていた。周囲の状況とわたしの表情、それから感極まって泣き出した同僚を見て答えが出たらしく、何も言ってこない。

「……この間は、ありがとう。いろいろあったけれど、まだここに居ることになりそうだわ」
 もはや仕事どころではない同僚へハンカチを差し出す。軽口を叩きつつも、本心からわたしの幸せを願ってくれていたのだ。暖かな気持ちになって、自然と笑みが洩れる。
「それは良かった。瑠梨亜さんがいないと私も寂しいから」

 太宰だってそうだ。不真面目で軽い男を装いつつも(装う、というよりもともとそういう性分なのかもしれないが)、結局はわたしのことを案じてくれていた。仮に面白がっていたにしても、わたしは大いに助かったのだから。

「ありがとう。これからもよろしくね」
 一呼吸おいて、また飲みに行こう、と付け加える。
「乱歩さんに怒られちゃうなあ。あの時だって、……」
「大丈夫よ。怒ったりしないわ」
 じゃあ、と手を差し出され、首をかしげる。
「どういうこと?ダンスでもするわけ」
 とりあえず手を取れば、椅子からふわりと身体が浮く。キャスター部分ががらがらと音を立てる。
「ちょうど呼ばれてたから。このまま行こう」

 後ろ手に椅子をしまって、同僚の様子を確認する。だいぶ落ち着いたようで(もともと大号泣していたわけではないのだ)、ティッシュで勢いよく鼻をかんでいるところだった。大丈夫?と声を掛ければ、
「大丈夫。乱歩さんに呼ばれてるんでしょ。早く行ってらっしゃい」
 揶揄うような、いたずらっぽい笑顔が返ってきた。相変わらず、わたしが太宰につかまっていることは誰も触れてくれないらしい。


 前もこんなことあったよね。風の吹き抜ける廊下を並んで歩きながら、言う。あったね、瑠梨亜さんが出張から帰ってきた日。思い出しているのか、太宰はどこか懐かしげだ。あの日はわたしのなかでの社員感謝デーだったんだよ。つながった手が、ふたりの間でゆらゆら揺れている。だから私に好きだなんて。忘れかけていた記憶を手繰り寄せた。言ったね、まあ後輩としてだけど。

「後輩としてじゃなかったら、私が乱歩さんに怒られるところだった」
 ちょうど着いたエレベーターに乗り込んで、ひとつ上の階のボタンを押す。
「だから乱歩は怒ったりしないって。太宰に妬くなんて、想像できる?」
 扉が閉まった。独特の浮遊感がわたしたちを包む。
「できる」

 断言されてしまうと、そうなのか、という気もしてくる。知らないところで、色々あるのかもしれない。普段は事務フロアに居ることが多いから、わたしは案外社員同士の出来事に疎いのだ。

「じゃあ今のこれ、まずいじゃん」
 捕らわれたままの右手を持ち上げて、太宰を見上げる。
「付き合ったら乱歩さんも素直になるのかなあ、と思って」
「何よそれ。機嫌取るのわたしなんだからね」
 まあまあ、いいじゃないか。首をすこしだけ傾けてこちらを見下ろす太宰は、今日も腹が立つほど顔が良い。何がいいのよ。チン、と高い音が鳴って、扉が開く。ほら、着いたから降りて。……何なのよ。


「遅かったね。何してたの」
 乱歩は足を組んでソファへ座っていた。隣には晶ちゃんが居る。
「おかえり。おや、今日も仲良いねェ」
 ふたりの視線がわたしの右手に集まった。直後、乱歩が立ち上がって、こちらへ向かってくる。
「瑠梨亜から聞いてないの」

 太宰がふふ、と笑う。繋がった右手がするりと解かれた。
「やっぱり」
「何がやっぱり、よ」

 乱歩に腕を引っ張られて、太宰から離される。らしくない、と思った。こんなに分かりやすく妬くなんて。もしかしたら、全部わかっててわざとこうしているのかもしれないけれど。晶ちゃんは楽しげにわたしを見ている。

「すみません乱歩さん。ちゃんと聞いてますよ」
 謝りつつも、悪怯れる素振りもない。国木田くんがしょっちゅう怒るのもよくわかる。
「それならいいけど。もう僕のだから」

 他人事のように聞いていたのに、急に肩を抱かれて全身が固まる。職場でこんなことを堂々というのも、乱歩だから許されるのだろうか。それにしても、僕の、なんて。まるで少女漫画のヒロインのような扱いだ。

「乱歩、あの、ここ探偵社だから」

 嫌な予感に後ろをむけば、賢治くんも谷崎くんも、ぽかんとしたままこちらをみつめていた。きっと会話も聞かれていただろう。付き合っていることを秘密にしたいとか、そういうことは思わないけれど、職場でべたべたするのは、未成年の教育上よろしくない。

「……皆、見てるし」

 乱歩の方を窺うと、意外にもすんなり手が離された。表情はいつもと変わらないけれど、雰囲気から不服そうなのが伝わってくる。

「あの、なんか急に、ごめん。実はわたしたち、付き合うことになって」
 こんな大々的に言うつもりじゃなかったのに、気がつけばフロアにいる全員がわたしを見ていた。

「わあ、そうなんですね!おめでとうございます!」

 賢治くんの無邪気な声に続いて、数分ぶりの二度目の拍手がわたしたちを包む。身近な皆から拍手を送られてしまうと、なんだかむず痒くて照れてしまう。恋の成就をこんな盛大に祝われるなんて、さすが稀代の名探偵だ。


「乱歩さん!依頼です」
 拍手が止んだころ、社長室から国木田くんが出てきた。
「ああ、瑠梨亜さん。おかえりなさい」

ただいま、と返事をして、乱歩と共に資料を覗き込む。殺人事件が発生し、警察から依頼が入ったようだ。乱歩は早くも楽しげに、笑顔を浮かべている。

「隣の市で事件があって、……乱歩さんと一緒に行って頂けますか」
「いいよ、住所は?」
 詳しく話を聞いているうち、乱歩が先に歩いていってしまった。「一緒に聞いてよ」呼び止めれば、
「僕は事件を解決しに行くだけなんだから、場所なんか聞かなくたっていいだろ」と、一蹴される。
 わたしが迷ったらどうするつもりなんだろう。不満に思いながらも、付き合う前と変わらない乱歩にほっとするところもあった。結局、彼にはかなわない。
 一通り説明を聞き終えたあと、
「お昼には戻れると思う。行ってきます!」早口で叫んで、部屋を出る。

 ドアを開けたところには敦くんがいて、こちらを見るなり嬉しそうに笑顔を浮かべてくれた。これから乱歩の付き添いなんだ、と告げれば、行ってらっしゃいと手を振ってくれる。いつ会っても、可愛らしい後輩だ。
 乱歩につづいて、階段を駆け下りる。生ぬるい風が頬を撫でた。青々とした夏の匂いに、ゆっくりと深呼吸をする。少し進んだところで、乱歩が待っているのが見える。


 今日も一日、平和でありますように。誰も傷付かず、傷付けず、彼を取り巻くすべてが優しくありますように。
 やっぱり、わたしの世界の中心はいつだって彼、江戸川乱歩だ。


─帰れないふたり・完─


   



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