忠実なる犬の過ち
このネタから
自分の両手を拘束した手錠を見下ろして、ナマエはただ座ったまま、ちらりとその視線を前方へ向けた。
薄暗い地下牢の鉄格子が、ナマエと外とを分断している。
もう二日経つ。
まだだろうか、などと考えながら、ナマエの口からは息が漏れる。
じっと座ったまま、耳を澄まして近付いてくる足音を待ちながら、ナマエはつい先日のことを思い出していた。
※
一体、自分は何をしているのか。
それすら分からず、ナマエは呆然と座り込んでいた。
その視線の先には、自分に背中を向けて走っていく、若い海賊二人の姿がある。
彼らが目指す先には更なる海賊の集団がいて、二人の帰還に歓声を上げているのが遠くにいても分かった。
それも当然だ。あの走っているうちの一人は、今日、処刑されるはずだった死刑囚だ。
本来なら執行人に首を刈られる運命だった彼の海楼石の手錠が外れて、逃げ出すところを海軍大将が殺しにかかったはずだった。
それなのにどうして彼が命あるまま走っているのかと言えば、それはナマエの所為に他ならない。
どうしてだろうか。
思い切り突き飛ばして、海賊二人を庇ってしまった自分の手を見下ろし、ナマエは少しばかり考えた。
その視界の端にふと影が過ぎって、は、と身を硬くしたナマエの体が、思い切り横へと吹き飛ばされる。
「!」
みしりと体が軋む音を聞いて、ナマエは息をつめてそれを耐えた。
色々なものの破片が散ったその場を転がって、数回の回転の後停止して、すぐに起き上がる。
ナマエを先ほど座っていた場所から弾き飛ばした格好のまま、そこにたたずんでいる人を青年は見上げた。
「……サカズキ、大将」
ナマエがこの世界でただ一人自分の全てを捧げるべきと決めた相手が、酷く怖い顔でナマエを見下ろしている。
それも当然だ。
ナマエは、彼のマグマの拳から死刑囚を庇っていた。
空振りをしたその拳は大地を焼き溶かして、今もナマエとサカズキのすぐ傍でじゅうじゅうと異質な音を立てている。
「……おどれ、何のつもりじゃァ」
低い声で唸りながら、一歩、二歩とナマエへ近付いたサカズキが、その双眸でナマエを見据える。
何のつもりか。
そう問われても、ナマエは出すべき答えを持っていなかった。
「……わかり、ません」
ずきずきと痛む左腕を抑えながら、ナマエは正直にそう答える。
どうしてあの海賊を庇ってしまったのか、ナマエ自身にもよく分からなかった。
火拳のエースと呼ばれる彼とは、ただの二回、一緒に食事をした程度の仲だ。
その時だって向こうはナマエが海軍だと気付いてもいなかったし、ナマエも一人で火拳のエースを殺せはしないからと付き合っただけのことだった。
ナマエの正体を知らないエースは、義弟の手配書のような笑顔すら浮かべてナマエに話しかけた。
海賊は『悪い者』であるはずなのに、ナマエの背中を焼いて右肩を砕きかけて左足を潰そうとしたあの海賊達とは全然違う『海賊』に、ナマエが戸惑ったのは事実だ。
海賊は屑だ。
今までナマエが殲滅してきた海賊達は、全てがそうだった。
ナマエの目の前で悪事を働く、唾棄すべき相手だった。
だというのに、エースはまるで違っていた。
けれども『この世界』を知っているナマエは、笑顔を浮かべた海賊らしくない海賊が、そのうち起きるこの『戦争』で海軍大将赤犬に殺されるということを知っていた。
徹底的な正義を掲げるナマエの絶対のヒーローが、彼を殺すことを知っていた。
父親が海賊王であるという、そんな罪で。
「サカズキ大将……」
結局のところ、どれだけ『正義の味方』に心酔していても、ナマエはただの日本人でしか無かったのかもしれない。
「……ごめんなさい」
いつもより大分幼い声音で呟いて、ナマエは座り込んだままサカズキを見上げた。
謝った程度で許されることではないことくらい、ナマエにだって分かっている。
戦争が海賊の勝利で終わってしまった。
火拳のエースはもう捕まえられないだろう。
致命傷を負った『白ひげ』は助からないかもしれないが、それだって海兵の手によるものではない。
「ごめんなさい」
幼い謝罪を、ナマエは繰り返した。
なぜなら、見上げた先の大将赤犬が、ナマエが見たことも無いほどに傷付いた顔をしているのだ。
彼を傷付けたのは裏切った自分だと、ナマエはきちんと理解していた。
「……言いたいことはそれだけか」
唸ったサカズキの拳が、ぼこりと音を立ててマグマへ変化する。
すぐ傍にあるその熱源に、ナマエの目はほんの少しだけ眇められた。
それが人体をどうしてしまうかを、ナマエは知っている。その目で何度も、サカズキによって葬られる『悪』を見てきた。
きっとナマエもまた、あの日の海賊達のように、体の一部を残して焼け消えるのだ。
怖くないと言えば嘘になるだろう。握り締めたその拳が冷え、震えているのは、死への恐怖に他ならない。
けれども、ここから逃げ出そうと思うことも、ナマエにはできなかった。
あの日助けてくれたサカズキは、ナマエにとっては絶対のヒーローだ。
死んだはずがわけも分からない世界へ来てしまったナマエが、ただその傍に居たいがために体を鍛え任務をこなして仕えた相手だった。
その彼を、よく分からないままに裏切ってしまったのは、他ならない自分なのだ。
「ごめんなさい」
他に言葉を知らないかのように繰り返して、ナマエはサカズキを見上げる。
つい昨日までナマエへ笑いかけ、時には褒めてもくれた海軍大将は、厳しい顔つきのままただその双眸を眇めてナマエを見下ろし、肩までマグマに変化させたその右腕を、大きく振り上げた。
※
あの時殺される筈だったナマエは、けれども結局は生きてここにいる。
その四肢には拘束するための鎖がつけられているが、それだけだ。
あの時、ナマエが殺される寸前で、サカズキや他の海兵達の注意は突如現れた『黒ひげ』海賊団に向けられた。
致命傷を負い死んでしまった『白ひげ』からどうやってかグラグラの実の能力を奪い、暴れた彼らを相手して、逃げ出す海賊達を追いかけて。
ナマエが『知っている』通り現れた赤髪が、ナマエが『知っている』のとは違う言葉で戦争を終わらせた。
本来ならインペルダウンに収監される立場であるはずのナマエが、海軍本部内の牢に入っているのは、『黒ひげ』と『麦わら』が大監獄を荒らしたからに他ならない。
あれからもう二日が経つ。
自分がしでかしたことを考えれば、自分の末路は『死刑』以外には無いことくらい、ナマエだってきちんと理解していた。
首を落とされるのか。
それとも他の方法か。
ひたひたと死が近寄ってきている気配に、ナマエは自分の身が少しばかり冷えたのを感じた。
けれども、それは仕方が無いことなのだ。
ナマエは『正義』を裏切ったのだから。
「……?」
ずっと静かだった牢に、小さく足音が響きだしたのに気付いて、ナマエは身じろぎをした。
じゃらりと鎖の音を立てながら顔を上げれば、同じように足音に気付いたらしい見張りの海兵が、慌てたように海軍式の敬礼をする。
だんだんと近付いてくる足音が大きくなって、現れたその人影にナマエは瞬きをした。
「あー、まあそう畏まりなさんな。ちィっと席外してくれる?」
片手に牢の鍵らしいものを持ったまま、見張りの海兵へそう言葉を放っているのは、誰がどう見ても海軍大将青雉だ。
困った顔の海兵へ更に何事か告げて、無理やり彼を追い出した青雉は、去っていった海兵を見送ってからその視線を牢の中のナマエへ向けた。
「よう、元気?」
「は、ァ……」
牢にいる相手へ告げる言葉だろうかと思いながら、とりあえずナマエは曖昧な返事を零す。
どうして彼がここにいるのだろうかと、ナマエの頭はそんなことばかりを考えた。
刑を言い渡すだけなら、他の海兵で構わないはずだ。
何より、そんな『仕事』を目の前のサボり癖のある海軍大将がやっているという事実が、今一つ信じられない。
「おれだって働くのよ、たまには」
ナマエの顔に書いてあったのか、そんな風に呟いて、青雉がナマエを見下ろした。
ただでさえ背の高い彼に対して、足すら枷をかけられ座り込んだナマエは、牢の中からただその顔を見上げることしかできない。
「言ったでしょうが、ナマエ。『もう少し気をつけなよ』って」
囁いて、青雉が面倒臭そうな顔をする。
「何で海賊助けてんの」
問われたのは、言葉は違えど、ナマエが何度も問われたのと同じ質問だった。
だから、ナマエはその都度紡いでいた答えを口にする。
「……わかりません」
気付いたときには体が動いていたのだ。
自分が何をしたのか理解したのだって、若い海賊二人が逃げ出したときだった。
あれから二日、時間だけはあるこの牢の中でずっと考えていたけれども、やはりナマエには明確な理由など分からないままだ。
ナマエの言葉に、分からないって、と呆れた顔をした青雉が、その場にひょいと屈み込む。
そうすると目線が近くなったものの、もともとの体躯の違いで、やはりナマエは青雉を見上げる形になった。
「お前さんがアンナコトするから、こっちはもう面倒臭いことこの上無ェってのに」
「申し訳ありません」
「謝ったって仕方無いでしょうや」
「はい、申し訳ありません」
頭を下げながら繰り返して、それから、ナマエは青雉へ尋ねた。
「その……サカズキ大将は、どうなさっていますか」
ナマエはサカズキの部下だ。
自分の部下が裏切ったということは、やはりサカズキに不都合を与えているだろうか。
ナマエの問いかけに、そうだねェ、と青雉が呟く。
「落ち込んでるんじゃないの、可愛がってた部下に裏切られて」
寄越された言葉に、ナマエはあの日のサカズキを思い出した。
罪悪感が胸に過ぎって、そうですか、と搾り出した声が消え入りそうなほどに小さくなる。
「後悔する位なら、アンナコトしなさんな」
「……はい、申し訳ありません」
「このまんまじゃあ、お前、死ぬよ?」
死刑囚を逃がしたナマエへ囁いた青雉へ、そうですね、とナマエは頷いた。
「死ぬのが怖くないくらい火拳を助けたかった?」
「いえ。死ぬのは怖いです」
「そのわりに、サカズキから逃げようともしなかったじゃない」
青雉が言っているのがあの日のことだと理解して、少し下げていた視線を上げたナマエは、改めてまっすぐに青雉の顔を見返した。
さすがに今の事態では昼寝すらままならないのか、アイマスクを額においてもいない大将青雉へ向かって、その口が答えを紡ぐ。
「……俺は、サカズキ大将を裏切りました」
改めて自分から口にすると、その事実の大きさに息が苦しくなるような気がした。
大将赤犬はナマエにとって、『絶対』だったのだ。
「あの人の徹底的な正義に従って、自分でもそれを掲げていた、つもりでした」
海賊は屑で、悪で、根絶やしにすべきものだった。
けれども『この世界』を知っているナマエにとって、エースはそちらへ分類することができない相手になってしまった。
せめてエースが、何処かの町を一つ壊滅させたとか、そんな酷い罪状でもって投獄されていれば良かったのだ。
ナマエにとっては理解できない理由で死刑が決まって、あの戦争が始まり、ナマエの『知っている』通り、サカズキが火拳を殺そうとした。
「けど、駄目だった」
火拳を助けてしまったナマエは、あの時、サカズキとサカズキが掲げていた正義すら否定してしまったのだと、自分自身でも気付いていた。
ふうん、とその顔を見下ろして声を漏らした青雉が、軽く首を傾げる。
「逃げたいとも思わない?」
問いかけに、ナマエは首を横に振った。
「罰は受けるべきです。どれだけ怖くても」
呟いたナマエの前で、青雉が少しばかり目を眇める。
ややおいて、あー、と声を漏らしてから、膝を伸ばしてその長身が立ち上がった。
「お前、おれの部下だったら良かったのになァ、ナマエ」
正義なんてものは立場でその姿を変える、なんて言い切ってしまうだらけきった正義を信条とした海軍大将が、そんな風に呟いた。
それを受けて、いやです、とナマエはそちらへ返事をする。
「俺はサカズキ大将の部下です」
裏切ったくせにそんなことを言ったナマエへ、青雉は少しばかり目を丸くした。
それから、すぐにその顔にほんの少しだけ笑みを浮かべて、やれやれと息を吐く。
「サカズキも似たようなこと言ってたよ。自分の部下だから、自分が落とし前をつけるってさ」
落ちた言葉に、ナマエは瞬きをした。
それはすなわち、ナマエの死刑を執行するのはサカズキであると言うことだろうか。
ナマエが見上げた先で、軽く頭をかいた青雉が、面倒臭ェなァ、なんて呟いてゆっくり歩き出す。
「死にたくも殺したくも無い癖に、『徹底的な正義』ってのは随分と厄介だ」
まあとにかく、もうしばらくそこで待ってなさいや。
そんな風に言って去っていってしまった相手を見送って、やや置いてからナマエは首を傾げた。
片手に牢の鍵を持っていたくせに、ナマエへ死刑を言い渡しもしなかったあの海軍大将は、一体何をしにここまできたのだろうか。
よくは分からないものの、どうやら自分はもう暫くは生き長らえるらしいと理解して、その口が小さくため息を零す。
「…………サカズキ大将」
もう二日も会っていない飼い主の名前を呟いて、ナマエはただ大人しく、牢の中に座り込んだままだった。
end
戻る | 小説ページTOPへ