カチリ、カチリと秒針が進む音が聞こえる。静寂に包まれた部屋に響くのは、秒針の進む音と、たまに身動ぎする事で生じる衣擦れの音だけだった。

「……………」

「……………」

 オレも、オレの隣に座りこむ彼女も、一言も言葉を発しようとしない。硬いベッドの上に二人して座り込んだまま、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。ただ呆けたように空中を眺めていると、体育座りをした自分の膝に顔を埋めていた立香から、ずび、と鼻をすする音が聞こえてきた。

「……どうして私、こんな所にいるんだろう」

 それは泣いた後特有の、鼻の詰まったような声だった。
 彼女のその問いの答えはオレにだって分からない。けれど、自分たちに課せられた使命だけは分かっていた。

「……世界を救うためでしょ」

 ただ事実をそのまま口にしただけだったのだが、自分の出した声が思ったよりも冷たく、自分で自分にびっくりした。これではまるで突き放すような言い方ではないか。立香が悲しんだらどうしよう、と心配になったけれど、立香はそれをさして気にする様子もなく言葉を続けた。

「人理焼却は防いだのに、どうして微細な特異点は変わらず発生し続けるの? 亜種特異点は世界を滅ぼす危険性を孕んでいるし、私たちの旅はいつ終わるの?」

「……それはオレにも分かんないよ。たぶん、ダ・ヴィンチちゃんも知らないんじゃないかな」

 オレがそう言うと立香はまた、ず、と鼻を鳴らした。そうして、聞こえるか聞こえないかギリギリの声で「家に帰りたい」と呟いた。

「これからのマスターは藤丸が全部やっていいよ」

「……嫌だよ。俺にだけ重圧かけないで」

「……………」

「これからも二人で頑張ろうよ」

 いやだ、がんばれない。弱々しい声が耳に届く。 鉛のように重く感じる右腕を上げて立香の背をさすると、彼女は緩慢な動きで顔を上げる。立香のその頬には、涙の痕がついていた。

「みんな、マスターが『藤丸(あなた)』か『立香(わたし)』かなんて、どうでもいいんだ」

「……そうだね。『藤丸(オレ)』と『立香(キミ)』二人でひとつなのに、みんなはオレたちを『藤丸立香』という一人の人物としか認識していない」

「私たちが入れ替わっても、誰も気付かない」

 そう言った瞬間、またぽろりと立香の瞳から涙がこぼれた。それを皮切りに、彼女の瞳からはとめどなく涙が流れていく。
 立香の頬を伝ってこぼれた涙が、白いベッドシーツに染みを作る。真っ白なシーツに染みができるその様子が、まるで平和な大地に特異点が発生する瞬間と同じように思えて、オレの瞳からもぽろりと一粒の涙が溢れ出た。――こうやって、ふとした瞬間に特異点が発生するのだ。オレたちが何度修復したって、所詮はいたちごっこで永遠に終わらない。そう思ったら、悲しくて悲しくて心が張り裂けそうになった。

 どちらともなく手を伸ばし、真正面からぎゅう、とお互いに抱き合う。彼女の身体は温かく、また涙が溢れた。

 カルデアのマスターである「藤丸立香」が男であるのか女であるのか、藤丸なのかはたまた立香なのか。それは世界から見たら些末な問題なのだろう。有名な歴史の偉人であるアーサー王も織田信長も、こちらの世界では女だった。事実が歪められて伝わる事もあるだろう。怪物と呼ばれたせいで本当に怪物になってしまった例もある。でも、彼ら、彼女らの事はオレたちがちゃんと知っている。世に歪んで伝わってしまったとオレたちがちゃんと理解して、伝承に振り回される事なくそのサーヴァントの本質を見てあげる事が、オレたちにはできる。彼ら、彼女らにはオレたちという理解者がいる。

 ――でも、じゃあオレは? 藤丸と立香が別である事は、オレたち以外の誰が知っている? 記録の上では人理焼却を防いだのはドクターのおかげになって、オレたち「藤丸立香」はお飾りのマスターと化すのだ。マスター適性さえあれば誰でも良かった。別に藤丸(オレ)じゃなくても、立香(カノジョ)じゃなくても、誰でも良かったんだ。
 そんなオレたちの本質を見て、愛してくれる人など、この世のどこにいると言うのだろうか。

「誰も『藤丸(オレ)』の事なんか好きじゃないんだ。みんな、生前好きだった誰かにオレを重ねて見ているだけ。オレは安珍なんかじゃないし、トロイアでもシグルドでもないし、息子でもなければ忠義を果たせなかった主でもない。みんな立香にもオレと同じように好きだ何だと言っていて、本当にオレを愛してくれる人なんてどこにもいない。オレは誰かの代わりにしかなれないんだ」

「みんな『立香(わたし)』を愛さない。性的対象として、女としてのステージに立つ事すらできない。決してセクハラがされたいわけではないけれど、女の子扱いされているマシュを間近で見続けていると、自分の女としての価値のなさが浮き彫りになってつらくなる。そして何より、そんな事を考えてしまう自分が恥ずかしくて消えてしまいたい」

 何度もしゃくりあげながら、お互いが抱えた苦しみを言葉に変えて、震える唇から吐き出していく。
 誰もオレたちを愛さないのに、オレたちだけはサーヴァントを含めた全人類を愛さなければならないなんて、なんて理不尽な世の中なのだろう。先頭に立って世界を守るのはオレたちじゃなくてもいいはずなのに。どうしてオレたちが選ばれてしまったのだろう。

 百歩譲って、オレたちが世界を守るのはいい。けれど、『カルデアのマスター』ではない『藤丸』『立香』個人を守ってくれるのは、一体どこの誰なのだろう。きっとそんな人、世界のどこを探したって見つからない。ドクターもダ・ヴィンチちゃんもマシュも、本当のオレたちを知らないのだ。誰にもオレたちを守る事なんてできない。

「……オレは、立香の事を可愛いと思うよ」

「ありがとう。……私も、他の誰でもない藤丸の事が好きだよ」

 きっと、オレの気持ちが分かるのは立香しかいない。それと同じく、立香の気持ちが分かるのはオレしかいない。オレたちの悩みを誰かに相談したって、頭がおかしいと思われるだけだ。だからオレたちの事は、オレたち自身の手で守り合うしかない。

「ねぇ……キスして」

「うん、いいよ」

 重ね合わせた唇からは何の味も感じず、何の感慨も湧かなかった。繰り返すこの行為に何の意味もないけれど、それをしていないと潰れてしまいそうだった。
 カルデアにとっての「藤丸立香」はオレでも彼女でもどちらでもいいけれど、オレには彼女しかいないし、彼女にはオレしかいない。お互いに支え合って、お互いにお互いを愛し合っているのだ。そう思わなければ、耐えられない。

「好き。他には何にもいらない、あなただけが私の支えだよ」

「オレも、キミだけが大切だ。他の誰よりも好きだよ」

 これが終わったら、オレたちはまた何でもないような笑顔を浮かべてみんなの上に立つ。

 一刻も早く世界が平和になりますように。願わくは、「藤丸立香」が心の底から笑える世界になりますように。

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