祈りの囚獄/一夜 上



 ふと気付いた時、ラウラは見慣れない場所にいた。どこかの街のようだが、己の知っている王都とは違う。そもそも、一体自分は何故こんな場所にいるのか、一体何をしていたのか……思い出そうとした時、ラウラの手を引く者がいた。
 顔を向けると、ラウラよりずっと背の低い少女――リリムが虚ろな瞳で見つめていた。

「リリムさん。あのう、ここはどこでしょうか」
「ここは……夢の中……」

 その言葉で、ラウラは思い出した。己はジズとコルソンの誘いを受けてメギド達のアジトで一泊することになり、いつの間にか他の女子たちも交えて夜更けまで恋の話に花を咲かせ、就寝したはずであった。

「私の夢の中、ですか?」
「違う、ここは……カスピエルの夢の中」

 まさかそんな事が出来るわけがない。ラウラは困惑の表情でリリムを見つめた。どうしてこんな事をするのか、その理由が分からなければ、ラウラとしてもおとなしくリリムに従う事は出来なかった。

「カスピエルの事が少しでも分かれば、ラウラも自分の気持ちに自信が持てるかもしれない……」
「あの、仮にここがカスピエルさんの夢の中だとして、私たちがここにいる事を、カスピエルさんはご存知なのですか?」

 仮に、とは言ったものの、ラウラはリリムはきっと本当の事を言っているのだろうと内心思いつつあった。彼女が己に嘘を吐く理由もなければ、わけのわからない行動を起こす理由もない。行動理念さえ分かれば、今の状況を受け容れられるだろう。それを把握するには、こちらから紐解いていく必要があると判断しての質問であった。

 だが、リリムは首を横に振った。それは、夢の世界にラウラ達が侵入している事をカスピエルは知らない、という事を意味する。

「では止めましょう。これはプライバシーの侵害に当たります」
「大丈夫……カスピエルがわたしたちの存在に気付かなければ、何も知られずに済むから……」
「そういう問題ではなく……! リリムさん、私はあなたにこんな事をして欲しいと頼んだ覚えはありません」
「ラウラ、怖い……?」

 リリムの問い掛けに、ラウラは一瞬頭が真っ白になった。怖い、だなんて思いもせず、ただ相手の了承を得ずに深層心理に入り込むのは失礼だと、ただそう思っただけだった。
 それだけの筈なのだが、己を見つめるリリムの虚ろな双眸は、まるですべてを見透かしているようで、ラウラは既に気おされつつあった。

「……確かに、怖い、かもしれません。カスピエルさんの事を知るのが……」

 もしこの夢の中に、己以外の女性が出てきたら。そしてそれが、かつて過去に愛した女性であったとしたら。あるいは今現在、己以外に愛する女性がいて、その人が出てきたら。そもそも彼は、己のことを愛してなどおらず、他に愛する人がいるのではないか。そういう、敢えて知りたくない事を知ってしまう可能性があると思うと、ラウラは逃げ出したい気持ちになった。

「でも、何もしなかったら……ラウラはずっと、悩み続けることになる……」
「……あの、リリムさんが私をここに連れて来たのは、もしかしてジズさんやコルソンさんの為ですか?」

 リリムの言っていることが事実だとすれば、この現象はきっとメギドの能力なのだろう。普段関わることのない相手が、己とカスピエルの事を思ってわざわざ能力を使うとは思えなかった。考えられる可能性としては、仲間の為――己を心配してくれているジズとコルソンの為だろう。そう仮定すれば、この不可解な行動も理解できる。

「それもある……けど……」
「けど?」
「ヴィータを夢の中に連れ込むことが出来るか、試してみたかったのもある……」
「そうですか。成程、よく分かりました」

 その言葉でラウラはあっさりと納得出来た。インキュバスの魅了の力など、どうやら特殊な能力を持つメギドもいるらしい。そういう力を持っていれば、色々と試したくなるのは至極当然である。平々凡々なヴィータであるラウラとて、もし己にそういう力が与えられたら、何をしでかすか分からないのだ。

「たぶん、ラウラの身に影響はない……はず……」
「ない、『はず』」
「アガリアレプトが、たぶん大丈夫だろうって言ってた……」
「『たぶん』大丈夫、ですか」

 絶対に大丈夫だという確証がない事に、ラウラは恐怖よりも呆れと怒りの感情を覚えたが、今この状況で何を言ってもどうなるわけでもない。寧ろ逆にリリムの機嫌を損ねて、現実世界に帰れなくなるなんて事態になる可能性だってある。リリムにそんな能力があるかはラウラの知るところではないが、ここは素直に従うのが利口であると判断した。

「はあ……最早何を言ってもどうにもなりませんし。リリムさん、あなたを信じます」
「ありがとう、ラウラ」

 常に虚ろな表情をしているリリムが、何を考えているのか、ラウラにはまるで判断が付かなかった。けれど、悪気はない。ただの思い込みと言えばそれまでであるが、この少女を信じるという己の発言に嘘はないつもりであった。

「ところで、カスピエルさんが気付かなければ……という事は、カスピエルさんはこの場にいらっしゃるのですか?」
「うん」

 ラウラの問いにリリムが頷いた瞬間、近くで物音が崩れる音がした。崩れると称すよりも、破壊される音と言った方が経験上近い。ラウラはリリムと目を合わせ、どちらともなくこくりと頷けば、音のした方へと駆けて行った。その先にカスピエルがいる、確証はないがラウラはそう信じていた。

 辿り着いた先は古びた街の路地裏で、ふたりの視線の先にあった光景は、見知らぬ男から一方的に暴行を受けているカスピエルの姿であった。

「カスピエルさ……」
「だめ、ラウラ」

 駆け寄ろうとしたラウラの服を引っ張り、リリムは介入を制止した。

「わたしたちが侵入していることが……カスピエルに気付かれる……」
「でも……ここは本当に、カスピエルさんの夢の世界なのですか?」
「うん……過去の出来事が、悪夢としてあらわれているのかも……」

 この光景が現実にあった事なのかは分からない。寧ろそんな事はどうでも良く、ラウラは今すぐにでもカスピエルを助けたい気持ちでいっぱいであった。夢の世界で危害を加えられた場合、痛みを感じるのか、あるいは現実世界の肉体にも影響を及ぼすのか。まるで分からないが、ラウラは何も出来ない自分の無力さを情けなく思うばかりであった。

 暴力を振るっていた男は満足したのか、地面に横たわるカスピエルの腹を蹴ってその場を後にした。男の後姿が見えなくなると同時に、今まで黙り込んでいたラウラは意を決するように口を開いた。

「リリムさん、ごめんなさい」

 リリムが顔を上げると同時に、ラウラは彼女の手を払って、カスピエルの元へ走って行った。

「待って、ラウラ……」

 リリムはそう言ったものの、相変わらず無表情で、特に強引に引き留めることも追い掛けることもせず、その場に立ち尽くしていた。ラウラは振り返ってリリムの様子を見たわけではないが、引き留めないところを鑑みると、ここで介入しても現実世界の身体に影響が出ることはないと解釈した。ただし、カスピエルが己がここにいる事を知ってどう思うかは別問題である。だがラウラはそれよりも、今この瞬間、彼に寄り添いたい気持ちでいっぱいだったのだ。

 カスピエルのすぐ傍まで駆け寄ったラウラは、地面に膝をつき、蹲る彼の背中に恐る恐る手を添えた。先程リリムに服を引っ張られた時もそうだったが、現実世界と同じ感触はある。ラウラは迷わず両手でカスピエルの身体を抱き締めた。

「あの、大丈夫ですか……?」

 どう見ても大丈夫なわけがないのだが、何と言えば良いのか分からず、当たり障りのない単純な問い掛けしか出て来なかった。だが、その声にカスピエルはぴくりと肩を動かし、ゆっくりと上体を起こした。
 ラウラは背中に回していた手をほどき、カスピエルの様子を窺った。殴られた跡で顔は腫れ、鼻や口許からは血が零れ、これが夢の中の出来事であったとしてもあまりにも酷いと、ラウラは涙が零れそうになった。

 だが、カスピエルはそんなラウラとは目も合わせず虚ろな表情を浮かべていた。そして暫しの間を置いて、己が何をすべきか思い出したかのように目を見開けば、漸くラウラへと顔を向けた。しかし、彼の双眸がラウラの顔を捉えることはなかった。
 視線は下方へと落ち、何かに怯えるように不安げな表情を浮かべるカスピエルの、その口から漏れた言葉は、ラウラが未だかつて聞いたことのない類のものであった。

「あの……クスリを……」
「はい?」
「買って貰えませんか? 人助けだと思って、どうか……」

 その声は間違いなく己の愛する男と同じものであったが、まるで完全に別人であるかのようだった。そう感じたのは、遠方の国で使われているいつもの口調ではないから、と言うよりも、雰囲気があまりにも普段の飄々たる態度のカスピエルとは真逆であったからだ。
 いつも己を貫くような妖しげに光るオッドアイの双眸は、焦点も合わず自信を喪失しているかのように下を向いて、いつも強引に、でも自然に己を抱く手は、今や微かに震えている。

「……何のお薬かは分かりませんけれど……」

 今、目の前にいるカスピエルの発言と、この見知らぬ街並みから、『クスリ』なるものが何を意味するのかは、王宮暮らしであるラウラでも察することは容易かった。ラウラとて、生まれた時から温室暮らしというわけではない。子供の頃に『色々』あって、まるで運命のようにシバの女王に拾われたからこそ今の生活があるのであり、この世界に蔓延る闇はその前から、それなりに知っているつもりである。

「その薬とやらを今、私が買えば、あなたは先程のように暴力を受ける暮らしから解放されるのですか?」
「え……?」
「そうでなければその場凌ぎに過ぎず、根本的な解決にはなりません。ですから……」

 ラウラは今これから放つ言葉が、『いつもの』カスピエルであればその心を傷付けるであろうと分かっていた。けれども、今目の前にいる男は、少なくともラウラの知っているカスピエルではない。そもそも本人で間違いないのかも分からない。あるいは、リリムが己に嘘を吐いており、この世界はカスピエルではなく己自身の夢の世界であるという可能性だってある。
 現実ではない。目の前にいる男も己の愛する男とは違う。それならば、『いつもの』己である必要もない。

「……ですから、私と一緒に逃げましょう」
「は……?」

 漸くカスピエルの瞳がラウラの顔を捉える。その瞬間、オッドアイの双眸は大きく見開かれた。

「あなたの生活と安全は私が保証します。私、こう見えても王宮に仕えているんです。少しの間であれば、私があなたの衣食住の面倒を見ることは出来ます」

 ラウラは充分すぎるほど分かっていた。『こういう』生活をしている者にもプライドはあり、同情される事が何よりも惨めで腹立たしく、許せない事だと。それでもこうして言葉を紡ぐのは、例えその時は傷付いても、後で良かったと思える日が来る、それもまたラウラが己の短い人生で分かっている事だからだ。

「ただ、ずっと面倒を見るという訳にはいきませんけれど……ただ、働き口を斡旋することは出来ます。勿論、健全な仕事ですから、このような世界とは足を洗って――」
「いい加減にせえよ」

 ラウラは自分の伝えたい言葉を口にするのに精一杯で、全く気付いていなかった。今、目の前にいるカスピエルの表情は、先程までの別人のような姿とは違った。いつもと同じ、己の知っている、愛する男の姿であった。
 いつもとひとつだけ違うのは、微笑もない冷たい眼差しをラウラに向けている事である。

「お前、リリムを使ってここに来たんやろ?」

 つい先程までの遣り取りは一体何だったのか。それこそが夢だったのか、今のこの状況も夢の続きなのか。ラウラは現状を把握することが出来ず、混乱して何も言えずにいた。

「人の夢に勝手に入り込むなんて、最低な女やな」
「ごめんなさい! あの、私……」
「何言うても言い訳にしか聞こえへんから黙っとき」

 ラウラは言い訳などするつもりはなく、ただ無礼を詫びたいだけだったのだが、カスピエルは最早聞く耳すら持たなかった。ラウラを地面に押し倒せば、その細い首に手を掛けた。

「人にはな、死んでも知られたくない事のひとつやふたつあるもんなんや」
「うう」
「ラウラ、お前ちょっと調子に乗りすぎやわ。少し痛い目見て貰わなあかんな」

 つい前まで怯えた様子を見せていた男も、今この瞬間ラウラの首を絞めている男も、紛れもなくカスピエル本人であった。しかし、ラウラは最早そんな事を考える余裕もなく、苦しさで意識が薄れゆくなか、ひとすじの涙を瞳から零れさせた。それは喉を締め付けられる苦しみからではなく、愛する男へ働いた無礼における罪悪感から来るものであったが、カスピエルにとってはラウラの謝罪などどうでもよく、ただ苦悶の表情を浮かべる無力な女を冷めた目で見下ろすのであった。

2019/06/12


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