色づく鱗



「おいカスピエル、オレが目を離している隙にオレの女を傷付けてんじゃねぇ」
「は?」

 アジト内の一室、バーカウンターにて。酒を喰らっていたカスピエルは、突然現れたインキュバスに訳のわからない事を平然と言われ、呆けた声を出した。

「何の話や。ジブンの価値観で話されても理解出来ひんわ。もっと順序立てて説明しいや」
「いちいち説明しなくても分かるだろ、ラウラ以外に誰がいる」
「『あれ』はお前の女やあらへんやろ」
「ヴァイガルドの女は全員オレの女だ」

 また根拠も何もない一方的な主張を……とカスピエルは呆れがちに溜息を吐いたが、ラウラの名を出されては流すに流せなかった。酒に逃げている場合ではなく、現実と向き合わなければならない。ウェパルの言うことが脅しではなく事実だとしたら、己はこの後ラウラから『報復』を食らうのだ。たかだかヴィータ如きがメギドに何かしらの危害を加えるなど、余程の手練れでないと不可能ではあるが、なんといっても彼女の背後にはハルマが付いている。つまり、下手をしたら己の命が危ないのだ。

「酒に逃げるなんざ男らしくないぜ。堂々としてろよ」
「おい、お前どこまで知っとるんや?」
「知ってるも何も、アジト中オマエの話題で持ち切りだぜ。シバの女王のメイドを傷物にしてハルマがお怒りだってな」
「は!? そこまで手ぇ出してへんわ!」
「まだなのかよ、意気地のない野郎だな」

 人を小馬鹿にする笑みを浮かべているインキュバスを見ても、カスピエルは反論する気にすらなれなかった。単に他の女を口説いているのを見られたという、ただそれだけの話だというのに、そんなありもしない尾ひれが付いていては仲間の援軍も期待出来ず、途方に暮れるしかなかった。

「それで、俺をからかいに来たんか? インキュバス」
「ああ、本題だが――」

 インキュバスが用件を伝えるよりも先に、部屋の外で怒号が響く。

「出てきやがれメギド野郎!! ぶっ殺してやる!!」

 カスピエルとインキュバスは、どちらともなく顔を見合わせた。

「――そういう事だ」
「何ひとつ説明してへんやろ」
「いちいち言わなくても分かるだろうが」

 本当にラウラがハルマを連れて報復しに来るとしても、数日のタイムラグはあると思っていたが、まさかその日の夜更けに来るとは思いもしなかった。シバの女王は止めもしなかったのか、あるいは黙って突撃しに来たのかは不明だが、カスピエルにとってそんな事はどうでも良かった。己はこんな阿呆な理由で死ぬわけにはいかず、そして大前提としてソロモンには絶対に迷惑を掛けるわけにはいかなかった。

「インキュバス、策を考えるから少し時間稼ぎしてくれへんか?」
「誰がするか。……と言いたいところだが、オレの女を傷付けた罪を償うっていうんなら、考えてやってもいいぜ」
「だからお前の女やないって――」

 インキュバスは試すような言い方をしつつも、カスピエルの返答を待たずに部屋を後にした。
 絶対にこの窮地を脱さなくてはならない。女の報復に遭って命を落とすなど、前述の通り阿呆極まりなく、そんな人生の為に己はソロモンに命を預けたわけではないのだ。嘘も方便という諺があるが、わざわざ己の心に嘘など付かず、真にほんの少しエッセンスを加えれば良い。一般的にはそれを誇張と言うが、この際なりふり構ってなどいられなかった。





「オイ! 出てきやがれメギド野郎! 姐さんのメイドを泣かせてんじゃねぇぞコラ!」
「落ち着いてくださいカマエルさま、私、別に泣いていませんから」

 ウェパルの後を追って、ラウラとカマエルはどさくさに紛れて一緒にアジトに乗り込んだのだが、とにかくカマエルはただ喧嘩がしたいだけのように見えて、ラウラはカスピエルへの怒りよりも恥ずかしさの方が先立って、カマエルを止めるのに必死であった。ソロモンの配下であるメギド達が己を物珍しそうに遠巻きに見ているものだから、まるで見世物になっているような気がして、ラウラは早くも王宮に帰りたくなった。

「ラウラ、どんな『報復』をするかは決まったの?」
「いえ、あれは言葉の綾と言いますか……特に決まっていません……」
「あんたねえ……この後シバの女王に怒られるのは確定してるんだから、後悔のないよう行動しなさいよ」

 ラウラの傍でウェパルが助言めいた事を口にした。そもそも、ウェパルとて見た目は可憐な少女だがれっきとしたメギドであり、カマエルとラウラを追い返そうと思えば出来たはずなのだ。それがこう易々とアジトに乗り込めたという事は、ウェパルはあえて己達を見逃して、結果的にアジトに招き入れたと考えるのが妥当である。そして、カマエルの性質は恐らくウェパルも知るところであり、つまりウェパルは己の報復をあえて支援しているのではないか――そうラウラは考え、ますますメギドという存在が理解出来なくなった。

「ウェパルさん、どうしてカスピエルさんではなく、私を助けてくださるのですか?」
「さあ。シバの女王の手前もあるけれど……そうね、強いて言うならあんたが引っ掻き回すことで、少しはカスピエルもおとなしくなれば良いかも、とは思うわね」
「引っ掻き……すみません、いつもご迷惑をお掛けして」

 そう、ウェパルの言う通り、己はシバの女王だけでなく、今この時もソロモン達にも迷惑を掛けているのだ。己が皆を引っ掻き回すのは今日で終わりにしなければならない。やはり何としても、今ここで解決しなければならない。それがシバの女王の為であり、己の為でもある。ラウラがそう決意した瞬間、誰かの手がラウラの肩を抱いた。

「ひえっ」
「怯えるな。オレは取って食ったりしねぇよ。カスピエルと違ってな」

 いつの間にかラウラの隣にいたのは、先程まで別室でカスピエルと共にいたインキュバスであった。その発言に、この場にいるメギド全員がお前がそれを言うかと懐疑の目を向けた。

「あの、あなたは……」
「インキュバスだ」
「いえ、そうではなく。先日、私がカスピエルさんと食事をしていた時に、私に何かしませんでした?」
「さあな。ただ、オレの女になれと命じたらオマエは頷いた」
「それ絶対何かしてるじゃないですか!」

 ラウラはあの時のことをよく覚えていないのだが、突然意識が朦朧として記憶が曖昧になり、カスピエルが声を掛けてくれたおかげで正気を取り戻すことが出来たのだった。あの時カスピエルに言われた言葉は、確か――

「カスピエルさんが私に『お前は俺の女』と言ったことは、はっきりと覚えているのですが……」
「チッ、じゃあマジであの時魅了が解けたのかよ」
「やっぱり何かしてるじゃないですか!」

 ラウラは怒りの声を上げたが、正直言って今己の肩を抱いているインキュバスという男が恐くて仕方がなかった。インキュバスに対する恐怖というよりも、その能力に対してである。今言っていることが事実であれば、彼がよくわからない能力を使って己を操ることが、いとも簡単に出来てしまうのだ。

「おいメギド野郎! ラウラに気安く触ってんじゃねぇ! ぶっ殺すぞ!」
「オレの女なんだから別にいいだろ」
「いえ、私インキュバスさんの女になった覚えはないのですが……」

 カマエルが喧嘩を売ってくれたお陰で、ラウラはインキュバスの手から逃れることが出来た。カマエルがインキュバスに殴り掛かろうとし、その隙をついて己の肩を抱く手を払い、数歩後ずさって改めて事実を述べた。彼の命令を自分は承諾したのかもしれないが、なにせ覚えていないので否定するしかない。

 このままでは埒が明かない。これだけ騒ぎを起こしていれば、もしカスピエルがこのアジト内に帰って来ているのであれば、間違いなく聞こえている筈だ。隠れているのか、もしくは顔を出すタイミングを窺っているのか。ラウラには分からないが、今やらなければならない事は明白であった。この場にいるメギド達に向かって、ラウラは恐る恐る訊ねた。

「あの、カスピエルさんと会わせて頂けませんか? 報復なんてしませんから。そもそも私にはそんな力なんてありませんし」
「ええっ、ダメだよ〜。スピスピが悪いことしたんなら、ちゃんとお仕置きしないとしないと〜」
「す、すぴすぴ……?」

 金髪のポニーテールの少女が物騒なこととよくわからない呼び名を言ってのけて、ラウラは困惑した。この子の顔は見覚えがある。以前からソロモンと共に行動し、王宮にも何度か顔を出している。確か名はシャックスと言った筈だ。

「ええ、私もシャックスに賛成です! 浮気は悪です!」
「あ、あなたは……」

 同じく見覚えのある女性――マルコシアスが応戦して来て、眩暈がしてきたラウラであった。これでは己が制裁を下すまでもなく、メギドの女性陣がカスピエルをボコボコにしそうである。なんだか徐々に気の毒になってきた気がするのは、惚れた弱みというものなのだろうか、とラウラはぼんやりと思った。すると、奥のほうから人の気配を感じた。足音を立ててこちらに向かってくるその姿は、己が会いたいと願った男であった。

「カスピエルさん……!!」
「あっ、スピスピだ〜!」
「観念してくださいっ!」

 現れたカスピエルに武器を向ける女性陣とは対照的に、ラウラの声は怒りよりも歓喜に満ちていた。その声色を聞いたカスピエルは、勝算があると内心ほくそ笑んだ。所詮報復など頭に血が上って出た言葉であって、ラウラにはそんな気など一切ないということを確信したのだった。

「ラウラちゃん、ごめんな。俺、心を入れ替えるから、許したって?」
「おいラウラ、コイツの言うことなんて信用するな」
「インキュバス! ジブンどっちの味方やねん!?」
「オレの女に手を出されて黙っていられるわけないだろうが」
「いやいやおかしいやろ! ラウラちゃんと出会ったのは俺が先や」

 なんとかこの窮地を脱することが出来ると思いきや、仲間だと思っていた男にあっさりと裏切られて、カスピエルは声を荒げた。そもそもラウラが惚れているのは己であって、インキュバスではない。魅了の能力を使っても、己が甘い言葉を囁けばラウラは正気に戻ったのだから。

「おい、ラウラ……」
「はい、なんでしょうかカマエルさま」
「てめぇが報復したいのはどっちのメギド野郎だ?」
「えっ!? そこからですか!?」

 ラウラは脱力したあまり腰を抜かしかけたが、元々カマエルにとって己の恋愛トラブルなど、どうでも良すぎる話なのだ。今日は交戦許可証もなく、さすがにカマエルも本気でメギドと戦う気はないだろう。己を口実にただ鬱憤を晴らしたいだけだ。そう解釈すると、ラウラは憑き物が落ちたようにすっきりした気持ちになって、だいぶ冷静になることが出来た。

「カマエルさま。私が報復したいと思っていた方は、あちらのピンク色の長髪に紫色のメッシュが入っている、とても美しいメギドの方です」
「おいラウラ、オレの方がこいつより格好いいだろうが」

 例えインキュバスに横槍を入れられても、ラウラの心は乱れなかった。

「インキュバスさんも素敵ですけれど……なにせ先に出逢ったのがカスピエルさんですし、そもそもカスピエルさんは私を妙な能力で操ったりなどしていませんし……」

 ラウラの様子に、その場にいるカスピエル以外の全員が唖然とした。報復だなんだという話だった筈なのに、当の本人はカスピエルを見た途端、うっとりした表情を浮かべたのだから無理もない。曲がりなりにも王宮に仕えるメイドがそんな体たらくで良いのかとほぼ全員でツッコミを入れようとした瞬間、更に新たな来客が現れた。
 シバの女王、そして――メギド達の召喚者であるソロモンであった。

「全く……ルネから事情は聞いておるが、何とかしろとソロモンに王宮に来られては、さすがにわらわも顔を出さないわけにはいかん。覚悟は出来ておろうな? カマエル、それにラウラよ」
「姐さん! 俺はラウラの敵討ちをしに来ただけで……」
「だからといってソロモンに迷惑を掛けるでない!」
「すいません……」

 ハルマの召喚者であるシバの女王を前にしては、あれだけ威勢の良かったカマエルも素直に謝るしかないのであった。対するラウラはというと。

「シバさま、少しだけお時間をください。お叱りはいくらでも受けます。わがままはもうこれで最後にしますから」
「この場で解決しなければ、この先何度も聞きそうな台詞じゃな」

 シバは大きな溜息を吐きつつも、ラウラの願いを否定はしなかった。この場に当事者および召喚者がいる今こそが、問題に決着を付ける最大の機会であることは、ラウラとカスピエルだけでなく、シバとソロモンも理解していた。

「カスピエル、俺はお前がどんな選択をしようと構わない。けれど……」

 ラウラ達が押し掛けた後すぐに王宮に出向き、シバからおおよその事情を聞いたソロモンは、カスピエルに歩み寄って真剣な眼差しで告げた。

「お前のことを好きになってくれた女の子に対しては、誠実であって欲しいんだ」

 王であるソロモンの命令に背くなど、カスピエルの中には存在しなかった。命令とはいえ、『誠実であれ』とは意地の悪い捉え方をすれば個人差がある。カスピエルにとっての誠実さと、ソロモンにとってのそれが一致するかは不明である。寧ろソロモンが期待するような行動は取れないであろうことは、カスピエル自身が一番よく分かっていた。けれど、物は言いようである。

「ソロモンの言うことは絶対やからな。俺は嘘は吐かへんで」

 カスピエルは愛想の良い笑みをソロモンへ向ければ、再びラウラと向き合い、少しだけ腰を屈めて視線を合わせた。ラウラの頬が一気に紅潮したのを見逃さなかったカスピエルは、この勝負は己の勝ちだと確信した。

「ラウラちゃん、傷付けてごめんな」
「いえ、いいんです。分かっていたことですから。私以外の女性にも私に対して言った言葉と全く同じことを言うのも、すべて」
「え、そうやったっけ……」

 確かに口説き文句がワンパターン化して来ている、とこの場で気付かされてしまったカスピエルは、話の流れが悪い方向に行きかけていると察したが、悩んでいる暇はなかった。今この瞬間が、汚名返上の最後のチャンスである。これを逃したら、もうラウラは己のことをきっぱりと諦めるであろうことは明白であった。それどころか、まさかインキュバスがまだラウラを狙っているとは思っていなかったため、ここでしくじったらインキュバスにラウラを取られるという最悪の展開になりかねない。カスピエルは一人の男として、それだけはプライドが許さなかった。

「もうほんまに心入れ替える。他の女はただの遊びや。ラウラちゃんが本命やで。世界で一番大好きや」
「全然心がこもってないです! 口先だけの言葉では信用できませんっ」

 性急になりすぎてしまい、逆にラウラの機嫌を損ねてしまったことに、カスピエルはさすがにまずいと頬を引き攣らせた。冷静になってみると、そもそもインキュバスに張り合おうとしたのが間違いであった。大前提としてラウラは己に惚れていてインキュバスに惚れてはいないので、いくらインキュバスが能力を使おうと己がラウラの目を覚まさせれば済む話である。それに、己が為すべきことは至ってシンプルである。ソロモンの命令に従うだけだ。ラウラに対して誠実であれ。己は何としても王宮のメイドを支配下に置きたいという下心があり、当の相手は言葉だけでは信用出来ないと言っている。
 つまり、言葉以外の、行動で示せという事だ。

 次の瞬間、アジト全体が凍り付いた。
 カスピエルはラウラの髪を耳にかける仕草をして、と思いきや間髪入れずにラウラに口付けをしたのだ。
 さすがにギャラリーを前にやりすぎてはいけないと、軽く口付けるだけに留めたが、効果は絶大であった。数秒して唇を離すと、そこには恍惚の表情を浮かべたラウラの顔があったからだ。
 カスピエルは高笑いしたい気持ちを必死で堪えていた。この先何があっても口付けひとつで解決できるとは、あまりにも容易すぎると内心ほくそ笑んだが、そう思っているのはカスピエルだけであった。

「おぬし……」
「ん?」
「ラウラに何てことを!! 貴様と恋仲になることを許可した覚えはない!!」

 カスピエルはシバの女王のことをすっかり忘れていた。ソロモンの事しか頭になく、ラウラがシバの女王の付き人であり、女王の管理下に置かれているということが完全に頭から抜け落ちていた。

「シバ、落ち着けって! 二人とも仲良くやっていけそうな感じじゃないか」
「何を言うておる! うちのメイドをこんな遊び人と関わらせるわけにはいかぬ!」
「それはシバが決めることじゃないだろ! ラウラだって一人の女の子なんだ、好きな人を選ぶ権利がある」
「相手がこんな男でなければ、わらわだって文句は言わんのじゃ!」

 ついにはソロモンとシバが口論を始め、完全に収集が付かなくなってしまった。さすがにやりすぎてしまった気もするが、かといって他に代替案も思い付かなかったのだから、これでいいとカスピエルは思うことにした。

「カスピエルさん……私の初めてを奪った責任、取ってくださいね」
「え、初めてだったん?」
「はい」

 蕩けそうな目を己へ向けるラウラを見て、なんて扱い易い女なのだと楽観的に思っていたカスピエルだったが、それは大きな間違いであった。これで王宮に忍び込み遺物を盗むことも可能だと高を括っていたが、世の中そう簡単に事が運ぶことはない。逆にこの先ラウラに散々振り回されることになるなどと、この時は夢にも思っていないのであった。

2019/04/07


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